2013年12月31日火曜日

倭城マラソン(19) ソセンポ(西生浦)城の朝

12月12日 (木曜日) 朝早く   ソセンポ(西生浦)倭城の竹田城的写真  



まだ暗いうちに起きてまずは海岸に出る。一晩中ドドーンという波の音が聞こえていましたが、穏やかに凪いだ海を見ると特に風が強かったわけではなかったようです。

ソセンポ倭城は加藤清正が文禄年間に築城した時は海に面していたといいますが、400年で海岸線はこんなに変わるものでしょうか?500~600メートルは後退したことになります。朝鮮半島が隆起して国土が広くなったのでしょうか?

ソセンポ倭城では何と言っても見事な高石垣と登り石垣の大きさにまずビックリします。総石垣だけなら日本国内でも見られます。しかし登り石垣は韓国に来ないとこれだけの規模のものは見られません。どの倭城にも大なり小なり備わっていますが、ソセンポ倭城の登り石垣は桁外れに大きいのです。
「倭城の研究」第三号から高田徹さんの縄張り図をコピーして使用


どうして韓国にだけ登り石垣が発達したのでしょうか?朝鮮式の山城にたくさんあるわけではないようです。朝鮮に適した形であったために広まったものと思われます。

しかしそのとてつもない規模の石垣はあまり大事にされていません。



ソセンポ倭城はあまりに広大な敷地を占有していて中には畑や村があって、住民がたくさん住んでいるのです。これをこのまま公園にするには地元が賛成しないでしょう。

どうやら山頂の城郭部分だけ遺跡として保護しているようで、石垣にまで関心は広がっていないようです。
新しい舗装道路ができていますが、いずれ石垣を突き抜けるのでしょうか?
石垣のすぐ隣の家です。

石垣の上に住んでいるのか、石を持って来て積んだのか・・・。
しかし巨大な石垣がほぼ原形を残しているのはこうしてリサイクルしてくれたおかげなので、文句はいえません。

さて、これから先はひたすら上にあげた縄張り図を参考に、朝の陽を浴びるソセンポ倭城を見てください。陽の光は縄張り図では時計の針四時の方向からきます。
石垣は二段? 左は空堀跡では?

草が刈ってあるときれいでしょうね。

大手虎口

大手以外ただ一つの虎口
その虎口から空堀まで降りようとしましたが、険しくて降りれません。


左奥は西側から見た天守台

高石垣の下には空堀が伸びています。

北側の空堀






出丸から上に伸びる南側の登り石垣 
黄色い丸は私が泊まったモテル(余計かな?)

工業都市ウルサン市

山頂部分はどこにカメラを向けても『竹田城』です。これほど絵になる倭城は他に知りません。実は城の横の空堀や竪堀を歩きたかったのですが、枯れ木や草に阻まれて降りることができません。総石垣の城に並行する土の城の面影は石垣の上からしか見られませんでした。歴史公園的な施設を作るのなら周辺をめぐる散歩道は欠かせないでしょう。そこから見上げる高石垣は竹田城をはるかに超えるでしょう。

朝陽に映えるソセンポ倭城が見られただけでとても幸せな気持ちになりました。

城跡を下ってチナの街から見上げると明るい朝の光を浴びたソセンポ倭城が見えます。石垣がはっきり見えるように周りの木は切ってあります。ソセンポ倭城を観光の目玉にしようというウルサン市の意向を反映しているのでしょう。これまではただの山にしか見えなかったのに今はしっかり山頂の白い石垣、その下には斜面を這う登り石垣がきれいに見えています。

そういえば昨日チナに向かうバスの中から「西生浦倭城」という道路標識も目にしました。しかも何回も繰り返して。漢字で書いてあっても中国人ではなく、日本人を考えてくれたものでしょう。でも車を運転してくる日本人はいるでしょうかね。こまかいバス案内のほうが必要な気がします。

ソセンポ倭城にもトイレが設置され、簡単な案内所もできています。今のところ韓国の観光は業者を通した団体旅行が中心で私のように個人で動く人は少ないようです。いずれ個人旅行がやりやすくなれば『韓国の竹田城』ソセンポ倭城まで足を運ぶ城好きは増えること請け合いです。行く価値は十分あります。






倭城マラソン(18) ソセンポ(西生浦)城の夕べ

12月11日 水曜日 夕方  夕暮れのソセンポ(西生浦)倭城で一杯


倭城を訪ねながら気ままな韓国の旅を続けていますが、ひとつのやり方を毎回かたくなに守っています。タクシーは他に手段がないとき以外は絶対使わない、バス、地下鉄、列車を乗り継いて動く、というスタイルです。やはり足を使わないと。初めの頃は目指す倭城に到着するだけでグッタリでしたが、最近はそこに至る道を楽しむ余裕も出てきました。

今回もこのスタイルに固執しています。

イムラン(林浪)からソセンポ(西生浦)倭城のあるチナ(鎮下)まで直通のバスはありません。途中で乗り換えなければなりませんが、幸運の女神は時々顔を出すものですね。しばらくバス停に立っているとチナ行きのバスが現れたのです。まさか!

「チナ ガーヨ?」(鎮下 行きます?)
運転手さんがうなずいてくれて嬉しかったこと。ホッとしました。

なんとプサンのヘウンデ(海雲台)海水浴場からチナ海水浴場までのバス便があったのです。停留所には書いてなかった。おかげで午後の3時ごろにはソセンポ倭城を見上げるチナに着きました。早く手ごろな宿を見つけてまずリュックを下ろしたい。

宿といえば現在はほとんどモーテルという名称を使っていますが、ほんの数年前まではリョグァン(旅館)と書いてありました。ホテルはちょっと料金が高めでリョグァンが値段的にもちょうどよかった。モテルになっても中身は変わりません。♨マークがついているのも同じです。一泊素泊まりで¥2500~¥4000。

ここは有名な海水浴場だから高いと覚悟していたら案の定¥3500。ここは冬でも人気があるようです。泳ぎはしませんが食堂、レストランには遅くまで明々と灯がともっていました。現代自動車(韓国の自動車メーカー)で潤うウルサン市の奥座敷というところかな?

冬の日暮れは早い。

韓国と日本は同じ時間帯ですが西の端にあるので東京よりは太陽の沈むのが遅いはずです。九州と同じくらいです。それでも夕方の5時には暗くなるはず。急げ!

実はやりたかったことがあります。波の音を聞きながらソセンポ倭城をながめ、軽く日本酒を飲みながら(買い忘れたのでコンビニで買った韓国焼酎を代わりに)清正君を呼び出して聞きたかった。「ウルサンの城が攻撃されてソセンポから駆けつける時、何を考えた?」
この海を見たかった。 おかしい?


ソセンポ倭城は加藤清正が文禄2年に築城し、文禄慶長を通じて滞在した期間は比較的長いように思われます。だいたい倭城は築城者と在城者が違う場合がほとんどで、在城者が複数いる場合もあります。その中で加藤清正とソセンポ倭城は常に対で語られます。明の使者を迎えてここで会談も何回か行っています。政治の舞台でもありました。

寒い。海岸にはもう立っていられません、風もある。加藤君の部屋に行こう。

部屋って・・・どこ?麓に大きな屋敷でも構えていたのでしょうか。
海岸に近い出丸のような曲輪

ソセンポ倭城

日が暮れるのって早いですね。登り石垣までは明るかったのですが、大手虎口を過ぎるとあっという間に陽が沈んでしまいました。チナの街には夜の明かりが灯り始めています。あたりは暗くなり始めました。

暗闇はやっぱり気持ちの良いものではありません。加藤君の部屋は分からないし、宿に引き上げることにします。加藤君との対話は実現しませんでしたが、せめてお酒(焼酎)でも・・・残り少なくなりましたが置いてゆきます。




急に寒くなりました。そのままサムゲタン(参鶏湯)の店に直行。朝鮮人参で明日に備えます。




倭城マラソン(17) イムランポ(林浪浦)城

12月11日 火曜日 午後   消え入りそうイムランポ(林浪浦)倭城


X印(下)はキジャン倭城 X印(上)がイムランポ倭城
近いですが、各駅停車のバスなのでかなり時間がかかりました。

昼過ぎにキジャンに戻るとまだ午後の一時。



昼食をとってもまだ時間に余裕があるので(韓国の食事は注文したらすぐ出るのがうれしい)近くのイムランポ(林浪浦)倭城にも寄ってみることにした。



バスの横腹に運行ルートが大きく書いてあって漢字表記もある。「林浪」と読めたのでとりあえず乗ったら40分ぐらいかかってしまった。


この城くらい見捨てられた倭城は知りません。道がないのです。眼前の山頂に石垣の一部と思われる石が見えているので目指してみます。

2011年の3月ですから約3年前に来た時に、近くの店で教えてもらったルートを思い出しながらたどりました。畑の畦道を縫いながら鉄道線路(単線の東海南部線)を越え、上に向かって伸びる舗装道路に取りつくまでは良いのですが、その先の50メートルほどは適当に城跡の方向に向かって歩くしかありません。雑草と枯れ木を迂回しながらひたすら登るだけです。城のどこに出るかは着くまでわかりません。



この城は土地の管理がされているのかいないのか、10年以上前にあった火災の後が今も残っていて、焦げた木切れがあちこちに転がっています。だれも草を刈らないのか、4年前より状況は悪くなっているようです。歩けません。

石垣はさらに崩壊しているようです。積まれているというよりは転がっているだけ。歩きながら「ここは城のどこの部分だ?」と自問するばかりで位置を確定する目印になるものがありません。
比較的石垣が残る虎口
石垣は残ってもこの程度
搦め手から主郭への虎口 石垣は健在ですが、枯葉に埋もれて見えません。

海側からの攻撃を想定したのでしょうか虎口がユニークですね。
倭城シンポジウムⅡ「倭城」から堀口健弐さんの縄張り図をコピーして使用

倭城はほとんどが総石垣の城ですが、古い山城時代の空堀、竪堀、堀切を同時に使っているのが日本国内に残る城跡とは違うところです。キジャン倭城でもよく見ましたが、ここも搦め手と北側の虎口に堀切が残っています。
搦め手から堀切(中央の窪地)を挟んで主郭方向を見る

その堀切
竪堀も残っています。


きょうは搦め手から主郭、天守をめざしてみよう。

残念ながら石垣の崩壊は予想以上です。ようやく見えてきた天守台には枯れ木と枯草に阻まれてなかなか近寄れません。

3年前の写真を参考までに載せます。今よりよく見えるでしょう?
天守台の前にあるやや複雑な虎口の遺構 平成23年3月(約3年前)

天守台 平成23年3月(約3年前) 歩きやすく縄張りが見えた。

九大「倭城祉図」のイムランポ倭城 麓の居住区の方が大規模ですね。
戦より駐在することが重要だったのでしょうか。

おおまかな城の立地状況はキジャン倭城とほぼ同じです。海岸線を取り込むように山上から麓までを城に取り入れていますが、登り石垣は見られません。背後の尾根と北側は堀切で断ち切っています。九大「倭城祉図」には山麓の曲輪も表示してありますが、もう消滅してしまったようです。麓の陸の小島状の高台にも遺跡が残る、と聞いたので前回回ってみましたが、ゴミ捨て場になっていました。
山頂曲輪から見るふもとの居住区

眼前の海ぎわに街道が通るとともに、海でプサンとつながっています。城の規模はキジャンほど大きくありません。しかし文禄の役当時は一番東側に築城されたソセンポ(西生浦)倭城とプサンをつなぐ重要な任務があったとみられます。
今回見た天守台 荒れ果てた感じが痛ましい。


築城は文禄二年(1593年)、毛利吉成の名が伝えられています。ここの天守は奥まった場所にあって、麓からは見えにくい半面、海上からは良く見えたのではないでしょうか。灯台の役目も果たしていたのかな、と考えたことを思い出しました。今は城の面影すらなくなりつつあるようで、勝手なな想像すら楽しめません。イムランポ倭城はこのまま土に戻ってしまうのでしょうか。
城跡から見た林浪の街とコリ原発

イムランポ倭城に行く機会があればぜひ見てみたいものがありました。コリ原子力発電所です。ここから目と鼻の先にコリ(古里)という町があって、韓国ではじめて運用された商業用原発があります。古いうえに事故を隠ぺいしていたことが発覚して昨年営業停止になりました。再開されたものの別の問題が発覚して再度ストップしたようですが、今はどうなっているのでしょうか。日本でも小さく報道されたことはありますが、その後は耳にしません。韓国の発電所だからでしょうけど、ここは日本からきわめて近く、もう少し関心を持ってもいい距離です。

いま韓国では日本から輸入した魚が売れないだけでなく、魚自体が売れなくなっていて漁業関係者や食堂に大きな影響を与えています。「日本産使用せず」と表示した店もあるそうです。もちろん福島原発の風評の影響です。遠い福島のことで魚そのものを食べなくなってしまう国と、原発に関する問題がすぐ近くに起きても国が違うから、と関心すら払わない国。両方とも極端ですよね。ちなみに風評をもとに日本産の魚の輸入を禁止した韓国を日本はTWOに訴えています。

判定はどう出るのでしょうか。

前回来た時に『原発です。』と言わんばかりの形をしているので、気になっていました。韓国関係のニュースで「コリ原発」ということばがあったら、イムランポ倭城を思い出してください。

対馬から100キロも離れていないのではないでしょうか。

倭城と現代がこんな形で結びつくなんて誰が一体想像できたでしょうか。