2014年6月23日月曜日

八王子城 落城時の面影

東京都の多摩地区、八王子城の山頂曲輪へ行くには、普通はガイダンス施設を過ぎてガイドさんの控所を左に見ながら神社の鳥居を抜けて登ります。金子曲輪、柵門台を経て主郭にたどり着くルートです。右側の崖下には旧道が並行して登っていて柵門台で合流します。

柵門台 左の道は山頂の主郭へ 右へ下ると旧道



その合流地点のすぐ手前の斜面に6月初め、大規模な石垣が姿を現しました。

ここには以前から石垣が見えていました。ところが3年前の大風でそばにある巨木が根こそぎ倒れてしまい、根っこが丸見えになってしまいました。その時石垣を壊してしまったので調査をすることになり、周辺の土手を整理したら大がかりな石垣が姿を現したということです。

城跡に関心のある人の間では知られた石垣でした。しかしこれだけ大掛かりな石垣が埋もれていたとは誰も予想できませんでした。
旧道から見上げた柵門台の石垣 ズームは使用していません。


石垣が踏み荒らされて崩れてしまう危険があるので、現在周辺は「立ち入り禁止」になっています。その代りすぐ下を通る旧道から見上げられるように、周辺の木を伐採して見通しが良くなっています。上からも眺められますが、石垣が垂直に近いので全体像はつかめません。横の広がりを感じるには旧道から見上げるのがお勧めです。

見上げるとその高さ、広さにまず圧倒されます。高さは3メートルぐらいでしょうか。2段に分かれています。下段の下にはあご止め石と言われる基底部を支える石が見え、その前に犬走(イヌバシリ)が走っています。どこかで見たことのある・・・そうです、御主殿の背後から山頂に向かう険しい斜面に4か所設けられた石垣とそっくりです。
柵門台から石垣を見下ろす 上方左に大風で倒れた木

柵門台から石垣を見下ろす
黄色い線が2段の石垣 オレンジ色の矢印はあご止め石


通称「殿の道」と城好きな人たちの間で呼ばれるあの通路です。あそこも2段構えの石垣で、やはりあご止め石と犬走が特徴的です。

犬走は頂上に向かって右肩上がりに登っていきます。朝鮮半島の倭城に多く見られる「登り石垣」を思い起こします。写真では横の広がりが捉えきれません。倒れた木のさらに左から石垣が見えていて、右側に行くにしたがって幅がせまくなります。ここが旧道と柵門台の合流点だったことを示しているのでしょうか。

以前見えていた石垣は申し訳程度に石を見せていただけでしたが、横に長く伸びるとダイナミックで力強い迫力を感じます。
左側に倒れた大木 その後ろにも石垣がある

オレンジ色が柵門台の平地 犬走は黄色の線に沿って登ります。


柵門台の下に石垣が姿を現した同じころ、すぐ下方にある金子曲輪の同じく旧道に面した斜面でも石垣が現れました。ここも石垣の存在は知られていたようですが、私は知らなかったので以前と比較できません。立ち入り禁止にはなっていませんが、急な斜面に設けられた石垣なのでアプローチはきわめて難しく、足場は不安定でとても危険です。
金子曲輪の直下に出た石垣


露見した石垣は柵門台に比べるとはるかに小規模ですが、かつてはこの両側に広がっていたはずです。失われたであろう積み石を思い描くと、そのまま柵門台の石垣まで続く様子が想像できます。同じく小田原北条氏の城で華麗な石垣におおわれた群馬県太田市の金山城のように、八王子城も石垣を多用していたかもしれません。
黄色の線の間に石垣があったと思われる。


西国風の石垣が今は日本のスタンダードになっていますが、八王子城が落城したころ、戦国時代が終わるまでの東国では、西国とは趣が異なる、地域性と個性溢れる石垣が使用されていたのではないでしょうか。

八王子城址のあちこちに石積みの跡が残っています。発掘しなくてもこれだけ大きな発見があるなら、堆積した土を除けばもっと石垣が現れるかもしれませんね。楽しみになってきました。

発掘で姿を現したものは埋め戻さなければなりませんが、今回露見した石垣は発掘したものではないので八王子市はこのままの形を残す方針です。

昨年は御主殿を発掘調査した際、手の込んだ派手々々しい庭園跡が見つかりました。戦国館というよりまるで京の邸宅のようだ、とそれまでの八王子城のイメージを大きく変えるかもしれない発見に関係者を大いに奮い立たせました。

さあ次は何が出るか? 欲心は欲心を誘います。