2014年8月28日木曜日

御土居(おどい)のかけらでもあれば

京都に御土居(おどい)が残っていると聞くと、なんとしても実物を見たくなった。御土居とは豊臣秀吉が京都の街を取り巻くように構築した土塁のことですが、戦国時代の代名詞のような土塁と京都はどう考えても似合わない。

家の周りに高い塀をめぐらすように豊臣秀吉が土塁と堀で京の街を囲ったのは天正19年(1591年)、秀吉が小田原北条家を屈服させて天下統一を成し遂げた翌年のこと。唐入り(文禄の役)する直前、全長22.5キロをわずか数か月で完成している。たいへんな大工事をきわめて短期間に行っているのです。

街を取り囲む土塁と堀といえば、小田原北条家が構築した惣構(そうがまえ)が思い浮かびます。小田原北条氏は秀吉の襲撃を不可避とみて街とその周辺を全長9キロにおよぶ土塁と堀で取り囲んで備えました。惣構の威力は大きく、5万人が籠城する小田原は18万人と言われる秀吉軍ですら攻略できなかった。秀吉の指揮する石垣山城からこの惣構がよく見えたはずです。難攻を目の当たりにした秀吉の脳裏に土塁と堀に守られた巨大な惣構の姿は強く残ったはずです。

8月半ば、チャンス到来。
京都に一泊する用事が出来たのを幸い、残存する御土居の跡をたどりました。まず向かったのは京都市考古資料館。
今出川通の京都市考古資料館


地下鉄烏丸線で京都駅から5つ目、今出川駅下車。今出川通をひたすら西へ歩くこと10数分。ここで京都市内に残る「御土居跡」を示す案内書をもらう。 その地図にしたがって北野天満宮から北を目指すことにした。

北野天満宮の本殿の西側、紙屋川に面して御土居が残っています。春には梅をめでる人に開放されますが普段は立ち入りが出来ないように通路は閉鎖されています。御土居の存在については案内してあるものの、緑の多い今の時期、境内からはなかなか御土居の実態はつかめません。
北野天満宮 門を入って左手に御土居跡
重機の後ろの盛り上がりが御土居跡
北野天満宮にあった案内板    地図上の赤い線が御土居があった場所
私が歩いたのは天満宮からまっすぐ北上、右に折れた角から2つ目の丸までで比較的御土居が残っている地域です。

紙屋川 御土居はこの右側の土手の上にあった。川底からの高さに注目。

この辺りの御土居は紙屋川を天然の濠として利用していて、川底から御土居の上までは10メートルになる、と京都市考古資料館でもらった発掘調査資料に書いてあります。2013年に発掘調査が行われました。
天満宮の裏の道路     御土居跡から出土した石仏
北区平野鳥居前町  右上の茂みは北野天満宮 ここにも石仏が。
隣の家の屋根を見ると高さは3mどころか5mはあります。

天満宮の裏を出て道の反対側に、御土居から出た石仏が並べられているのがなんとも微笑ましい。しかし土塁から出土したと伝えられるだけで、何のために埋められていたのかは一切わかっていないそうです。土塁の一部がここから7,80メートルほど歩いたところに残っていて、遺跡として保存されています。見上げるほどに高い。御土居は基底部の幅20メートル、高さは3メートルと資料には書いてあるが、見たところどれも5メートルはある。
北区紫野西土居町   申し訳程度に残っている土塁の一部は
個人住宅の真ん前 

北区鷹峯旧土居町(御土居史跡公園)                
御土居最上部から下の道路を見下ろすと高さは5mはある。

北区鷹峯旧土居町                      
ここで御土居は90度東に折れます。

ここから北に向かう御土居は紙屋川と並行しています。しかし佛教大学のキャンパスを過ぎたあたりで東に90度屈折してからは土塁と並んで堀(濠?)も掘られていました。堀の幅は場所により13~20メートル、深さ1~2.5メートルと報告されています。土塁と堀の幅を合わせると40メートル。2メートルの水深の上に3メートルの土塁が屹立する姿は京都らしくないですね。

そういえば時代劇に御土居が出るのは見たことがないし、京都の観光名所にもなっていませんね。

そもそも御土居とは江戸時代に使われ出したことばで秀吉が構築した当時は土居堀(どいぼり)と呼ばれていました。秀吉の世が終わり、徳川の世になってまずこの堀が埋められてしまいます。役に立たなかったのでしょう。土塁は徳川幕府によって竹藪として利用されて「御土居」と呼ばれるようになりました。しかし明治になって土地が売り出された結果、徐々に切り崩されて大半が消滅してしまいました。

京の洛中と洛外を分けた巨大な土塁と堀は、江戸時代初期の洛中洛外図にも載っています。当時は目立った存在だったのでしょう。しかし、そもそも何のために作られたのでしょうか?
大宮西野山児童公園横の私有地                    
左が堀跡 右に御土居の背部   下の写真へのく

北区大宮土居町      上の写真の連なりがここで寸断 
御土居の断面が比較的よく分かります。堀跡は右側     

敵の侵入を防ぐため、鴨川や紙屋川の氾濫に備えるため、洛中から盗賊が逃げられないようにするため等があげられています。私は敵の侵入を阻止するため、特に唐入りと密接に関係しているのではないか、と想像しています。

はるか昔の七世紀、白村江から日本を追って唐や新羅軍が来るかもしれない、と大野城や水城、鬼の城などを築いたように、明や朝鮮が攻めてくる可能性を秀吉は考えたもしれません。あるいは秀吉が得意とする派手なデモンストレーションとして、巨大な土塁をぶち上げたか。

どちらかというと私は後者の想像を楽しんでいます。玄界灘を目の前にした名護屋城で戦を指揮する一方、京では御所と市民を対象に危機感をあおろうとしたのではないか?万が一明や朝鮮が攻めてくることがあったとしたら、その時はその時。しっかり役に立ってもらう。それだけの規模と態勢を充分に備えた土居堀でした。

秀吉はその時小田原の巨大な惣構を思い描いていなかったか?

治水なら部分的に堤防を作れば事足りるわけで、街を一回りする必要はありません。突貫工事までして作ったのは、やはり迫りくる出兵と関係があったと考えたい。

北野天満宮から大宮土居町まで歩いた時間は2時間少々に過ぎませんでしたが、楽しい想像の世界を遊ばせてもらいました。御土居は京都のあちこちにかけらを残しています。残念なのはおそらく後世の手が多く加わりすぎて構築当時の面影をどこまで残しているか、わからないことです。しかし御土居の跡を歩きながら、京の街に思うがまま手を加えた秀吉の力は感じられます。

徳川家康が作ったものならもっと大事にされたかもしれません。しかし敗者のしたことはほとんどが否定され、忘れ去られ、無視されるのが歴史の習いです。特に後世に否定的な影響を与えた唐入り(文禄・慶長の役)と関係があればなおさらのこと。御土居も秀吉の負の野望とともに姿を消したのではないでしょうか。

私の勝手な想像以外は京都市考古資料館で分けてもらった京都市埋蔵文化財研究所の資料と「御土居ものがたり」中村武生、京都新聞出版センター2005年、を参考にさせてもらいました。