2014年12月11日木曜日

停まった時間(9) 石田三成の佐和山城

11月8日(土)   治部少輔に過ぎたる城

佐和山城祉へは麓の龍潭寺(りょうたんじ)から登るように整備されている。ボランティアガイドさんも常時二人待機しているところを見ると訪れる人は少なくないと見える。登る途中で一組すれ違い、主郭に着いて一組の訪問客に会った。それなりの人気は維持されているようだ。

石田三成の居城として知られているが、関ケ原の戦いの後徳川家康は井伊直政を佐和山城に送り込んだ。しかし直政は佐和山城を嫌い、新しい城を模索するが死去、家臣らの手で彦根城移転が成った。この二つの城はいうなればセットになっているが、彦根城の派手さと対照的に佐和山城は目立たない。三成に過ぎたるもの、と言われた豪壮な城も名前だけが一人歩きしている。
搦め手方面で見つけた堀切

主郭

反対側から見た主郭
搦め手に向かう「西の丸」

発掘中 瓦が多数出ているという

たしかに何もない。一説には佐和山城から彦根城に移る際に建物はもちろん石垣まですっかり持ち去った、とも言われるがそれだけの理由だろうか?石ははじめから少なかったのではないか、と想像する。
天守台石垣の石と言われるがこれしか残っていない

主郭から大手に向かう坂

主郭のすぐ下にある水場「千貫井」  水は手前に少し見えた

曲輪も想像したより狭い。息をのむほど見事なのは主郭からの琵琶湖の眺め。今は彦根市外と彦根城を眼下に収め、対岸の山並みを背景にするパノラマはまさに絵のよう。戦(いくさ)にはふさわしくない。
佐和山城から見た彦根城と琵琶湖

佐和山城は実は琵琶湖に向いた城ではない。

大手は反対側の鳥居本にある。現在は近江鉄道の鳥居本駅というかわいい駅があるだけの静かな町だ。案内書には「土塁」が描かれているので見たい、と思ってそちらに向かった。しかし・・・残ってはいますが、ほとんど判別できません。
大手門跡の案内板


観光案内図にしたがって車を走らせても土塁らしきものが見えない。そのうち農道に入り込んでしまて、Uターンすらむずかしい迷路にはまり込んでしまった。

近くに作業中の男性に尋ねると土塁はほとんど消滅していて、大手跡と言われる個所にかろうじて残っている、という。そちらに向かったが、大変な想像力を駆使しないと何も見えません。それでもその男性の言葉によると4,5年前まではバスでやって来る熱心な観光客も多かった、とか。根強い石田三成ファンがいるようです。
かつての内堀    右手にあった土塁は取り壊されてしまった

かつての大手道と侍屋敷から望む佐和山城祉

わずかに見える土塁の一部  手前は内堀

大手門跡 土塁が枡形に見えますが・・・

唯一城郭らしさを感じさせる土塁

草がなければ左手の土塁はもっと見えるかもしれない

案内書に侍屋敷、登城道と記してあるところはまったく過去の話で、今はきれいな田畑。兵(つわもの)どもが夢の跡というより、幼いころの昆虫取りにふさわしい。内堀、外堀もかなり最近まで残っていたようですが、さすがに現在はコンクリートで補強されて「堀」の面影はいっさい消滅。

大手門から主郭までの道もはるか昔のことであって、今もあることはありますが、通る人がだんだん減るうちに草におおわれて誰も使わなくなった、という。石田三成憎し、の怨念のせいでしょうか。

大手口は北國街道と中山道に面していて、交通の便は抜群だったようだ。現在は国道8号線をびゅんびゅん飛ばす車が場外れに思えるほどの農村地帯になっている。この城は時が停止しただけでなく、別の世界に入り込んでしまったようだ。

停まった時間(8) 彦根城の登り石垣

11月8日(土)

彦根城に来たのは「登り石垣」を見るためです。作事も普請も見ごたえのある城だから、ついあれもこれも見てみたい衝動に駆られるけどガマン。目的を一つに絞ったほうが効果的な城攻めになると思う。初めて来たわけでもないし、また来るだろうから。

登り石垣というのはは豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄慶長の役1592~1598))の際、現在の韓国プサン市周辺を中心に築かれた「倭城」に多用されている石塁で、加藤清正のソセンポ(西生浦)倭城や小西行長のウンチョン(熊川)倭城の巨大な石垣が知られている。他の倭城にも、実は、規模は小さいけどあります。
韓国蔚山市    ウルサン倭城の登り石垣    平成25年12月撮影

韓国に残る登り石垣はいろいろ見ましたが、日本で見るのは初めてです。

彦根城には5つの登り石垣が確認されています。入り口を入ってすぐ左手を見上げるとまず一つ。短いけど幅の厚い石垣が斜面を登るのが良く見えます。下から見上げるので長さは掴めませんが、50メートルぐらいでしょうか。横に走る空堀もはっきりわかります。
「開国記念館」に展示中の彦根城ジオラマ  下の写真の位置

鐘の丸から表門に向かう

登り石垣は「朝鮮の影響」とみられていて彦根城の案内でもそのように書いてある。しかし最近かならずしもそうではない、とする説も出てきているようで研究が進むことを願いたい。井伊家からは誰も朝鮮の役に参陣していませんが(徳川家康は渡海せず名護屋城詰め)、後で井伊家に仕官することになった人物で渡航歴のある人がいるようです。関連が指摘されてはいるものの史実として認められるには至っていないようです。
鐘の丸から大手門に向かう

上の石垣を反対側から撮ったもの

西の丸端の堀切   木の後ろに石垣、よこの竪堀が少し見える

彦根城ジオラマ  西の丸三重櫓の真下  下の写真

西の丸三重櫓の真下

彦根城ジオラマ 下の写真の位置

本郭 隅櫓の下

朝鮮の影響とはいえ、朝鮮の山城に登り石垣が多用されている、という意味ではないようです。朝鮮の城を多数見たわけではないので、よく分かりませんが少なくともソセンポ倭城やウンチョン倭城のように斜面をぐいぐい登る石垣は見たことがありません。あくまで倭城とセットで見られるものと理解しています。

彦根城で見た登り石垣は倭城の登り石垣とまったく同じでした。ただ彦根城は斜面を横に移動するのを遮断する目的ですが、朝鮮半島の場合は登り石垣によって「内」と「外」を厳密に分けて外から内への侵入を遮断しているところが違います。彦根城の場合は横の移動を遮断することで城に取り付いた敵の移動を制限しますが、敵の侵入の遮断まで想定してしていません。しかも距離が短い。どの程度の効果が期待したのか、わかりません。

朝鮮半島ではほとんど、ほぼ例外なく山頂の曲輪から麓の港までを囲う形をしています。山頂を人間の頭とするなら両手を広げた形で、山頂の曲輪と港を含めた城の内と外を分ける役目をしているのです。朝鮮半島でおそらくは大きな効果があったから、その遮断する力を日本でも応用したのではないでしょうか。

朝鮮半島の場合は、遮断する力と同時に境界線を明確にする目的もあったでしょう。朝鮮半島の少なくともプサン市周辺の山は険しくありません。山城に必要な「険しさ」を補う「遮断力」が必要だったのではないでしょうか。
左の石垣の上に西の丸三重櫓   前方は登り石垣

天秤櫓


佐和山城

そんな想像をしながら五つの石垣をすべて見て回りました。残念ながら5つの石垣すべてを細かく見られたわけではありません。近寄れない場所もあります。機会があれば再度もっと近くから観察してみたいところです。

彦根城は人気の観光地で、大変な数の観光客を受け入れています。自由に足を踏み入れることは当然のことながらできません。近くの山城をぶらつくのとは大いに異なります。

しかしまったく倭城と同じ形をしており、おそらくは同じ目的であったであろう、と実感できただけで満足でした。思ったより早く彦根城の探索が終わったのですぐ近くに見える佐和山城にも足を延ばすことにした。


2014年12月10日水曜日

停まった時間(7) 因幡若桜鬼が城

11月4日(火)

鳥取県若桜(わかさ)町は鳥取市を出て国道29号線(鳥取市~姫路市)を南下すること40分ぐらい。街の真ん中を道が一直線に走り、両側に家が立ち並ぶ様子は、いかにも街道の宿場町らしい風情がある。若桜鬼が城はこの街を見下ろす小高い山にある。歩いて登る道はいくつかあるそうだが、林道を使うと曲輪の近くまで車でも行ける。街を抜け、勾配を登れば10分ぐらいだろうか。



鶴尾山(標高452メートル、比高252メートル)の頂上部に曲輪が広がっている。山の傾斜はハイキングコースのようできつくない。有子山城や鳥取城の山頂部に登るのはカモシカぐらいだろうが、ここなら馬も登れそうだ。

「馬場」と呼ばれる細長い広場を過ぎると堀切を越え、石垣が見えてくる。「馬場」があるならやはり馬は登って来たのだろう。

城址の石垣がすぐ目の前に見えているのに柵がしてあって入り口が見えない。柵は城の周りを取り囲んでいるようで、この後も歩きながら何度か目にすることになる。電流が通っていると書いてある。シカの侵入を防ぐためだりyじゃ。慎重にフックを外してなんとか中に入ったものの、緊張しました。触れたところで動物を驚かすくらいの電圧にすぎないだろうと思ってはいても、やはりビリビリ感じるのは嫌なもの。「間抜けな観光客シカよけ電線に触れ失神」などと地元の新聞に書かれるのもゴメンです。




いつものように先ずは一人であちこち歩き回り、主郭、櫓台、二の曲輪、三の曲輪、大手は、虎口は?と我流の縄張り図を頭で組み立ててから案内板で確認する。大まかなところは間違っていないようだ。石垣は崩落が激しいのか、意識的にこわした結果なのか、崩れた石の量が普通より多い。かなりたくさんある。ロープをはって立ち入り出来なくしてある部分がかなり多いのは、すぐ横が急な崖だからだろうか。

搦め手



崩れたか、壊された石垣があちこちに

現地の案内板

二の曲輪から見た主郭

こんな風に折れています

主郭の南側の奥に天守台



東側に建物の礎石

天守台から見下ろしたホウヅキ段

天守台に登る段

二の曲輪から見下ろす三の曲輪   右の石垣は大手虎口

 それでも後方に櫓台を置いた主郭、主郭への虎口、その前面に広がる二の曲輪、三の曲輪、といわゆる連格式に連なる曲輪の配置は明確に分かった。櫓台の背(南)以外の三面はすべて崖になっていて北側の崖の上に立つと眼下に若桜の街と道路が箱庭を見るように望める。北から南へ一直線に伸びる道路は現代の国道29号線で、かつての若桜街道であり、因幡街道に続く。 但馬竹田城から竹田の街を見たときとよく似た風景が広がっている。
三の曲輪から見える鳥取市(北)の方角     若桜の城下

左は南東、但馬へ 右は南、播磨(姫路)へ向かう道

若桜鬼が城は長く国人領主矢部氏16代が拠点とした。記録に初見は1200年という。戦国時代は尼子、毛利、織田が因幡の制覇を巡って繰り返した激しい攻防戦の舞台となった。やがて羽柴秀吉が因幡を制定。城には秀吉の家臣で信任厚い木下重堅(しげかた)が2万石で入った。現在の城の基礎はこの時に作られたと見られている。石垣が築かれ、城下が作られた。 

やがて秀吉時代が終わり、関ケ原の戦いのあと、山崎家盛(いえもり)が入城する。家康の時代は息子の山崎家治と2代にわたって城と城下の整備が行われた。しかし慶長20年(1615年)の一国一城令によって因幡は鳥取城の管轄となった。若桜鬼が城は廃城となり、城としての時は停止した。

石垣の荒廃が激しいと聞いて、崩れないうちに見ておきたいと、やって来た。石垣は崩れたのか崩したのわかりません。崩れているのは確かだけど時間とともに荒廃が進むとも言い切れないようにも見える。これ以上崩れるとただの石の山になりそうな気配。
大手虎口


大手虎口はよく残っている。その虎口が向かう南側は崩落が激しいのか歩いて回れなくなっている。反面北側の通路は総石垣の城であることをよく見せていて、歩いても歩いても飽きることがない。さらに北側へ続く尾根が見えるが、草が多くて入れない。

この辺りの石垣は高石垣ではなく、2段、ひょっとして3段に分かれているように思える。
城の北側

国の遺跡だからといって特別な通路をつけたり、手すりを備えたり、ベンチがあったりというサービスが全くないのが嬉しい。自然の中にあるのが何よりいい。国史跡になると急に手を入れるケースが多いなかで得難い城です。

400年以上経た城跡に立ち、城としての時間が止まったあと時間と自然に淘汰された石垣の姿、眼下の人々の生活の営み、周りの山々を晴天の中で眺めているとしばし去りがたい思いに駆られる。この城と有子山城とはどこが違うのだろう。さっきまでいた鳥取城の山頂部分とはどこがちがうのか・・・。


草におおわれているけど総石垣



石垣には顔がある。見よい顔とそうでない顔がある。なによりも好きな顔と嫌いな顔がある。
石の種類、色、大きさ、苔のつき方などからおのずとそこに表情が現れるのだ。江戸時代の綺麗にカットされた石の積み重ねは美しいが、惹かれない。自分でもよくわからないのだが、ひょっとしてきれいにカットされた石は素材として石を使っているだけで見た目はもう石ではないからではないだろうか。戦国期の石垣は石を積み上げた姿、石そのもの、積まれ方が美しいのであって、石が素材となってしまったらコンクリ―トと同じなのだ。

チリのクスコにあるというインカ時代の壁で、表面をきれいにカットされた石を、紙すら入らないくらい隙間なく積み上げられたものを映像で見たことがある。その技に感心し、驚くけど魅入る美しさはなかった。理由は同じ。きれいにカットされた石はもうコンクリート塊と同じにしか見えなかったのだ。

時間がかかったけど石積みに惹かれる理由が自分なりに見えてきた。自然の石とその積み方、姿に惹かれるのであって、石材になってしまったものには関心がない。野面積みや打ち込みはぎには惹かれるが、きれいにカットされた切り込みはぎになると興味が薄れる理由がわかった。晴れ渡ったこの日の空のようにすっきりした。若桜の城は美しい。

さて、次はどこに足を向けようか。

(歴史的な経過は現地案内板の説明と若桜町のHPに依りました。)