2016年8月28日日曜日

韓半島の城跡(10)プサンで見た釜山

平成28年3月18日(金)

韓国に来て6日目になる3月18日、初めて雨が降った。天気に恵まれた一週間だった。雨が降ったら歴史博物館で時間をつぶそうと始めから決めていた。

明日はプサンを発ってソウルに行き、夜には東京の日常に戻る。まだプサンにいる間に『プサン』について考えるのも一案、と思いながらかなり激しい雨の中、西面(ソミョン)駅から地下鉄に乗った。行きたいと思いながら機会がなかった「釜山近代歴史館」は名前から想像するものとは違って展示が楽しい。午前の大半を費やした。
釜山近代歴史館  外観は今でも近代的。

韓国側から見た時間の流れをたどると、これまで見えなかったものが見えて来る。

「釜山近代歴史館」が対象にする展示は19世紀末から20世紀に掛けての日韓関係です。『日本帝国主義』『半島からの略奪』『植民地収奪』という聞きなれたフレーズが機関銃のように飛んできますが、そうしたお定まりのレッテルを『除け』ながら展示を見ると、新しい『プサン』が見えてきます。

韓国経済をけん引するプサンの重要性は今も日々高まっています。ところがプサンの来し方を掘り下げれば掘り下げるほど見えてくる日本の存在。常に日本との関係のもとに発展してきた街と言えるでしょう。韓国の人たちはプサンをどのように見ているのでしょうか。機会があったらじっくりと耳を傾けてみたい、と思わずにいられないくらい現代のプサンは『明治の釜山』の上に築かれていることに驚かされます。トンネに愛着を覚えるプサン市民の心の中にはこうした事実も関係しているのでしょうか。

博物館内部の展示

日本と韓半島との交流は日本人が多数、韓半島に商売目的にやって来、韓半島の3つの港に住み着いたことから始まった、と言われています。15,16世紀のことです。そのうち対馬藩がプサン港に出先機関を設け、『倭館(わかん)』と呼ばれたその出先機関を通じて当時の朝鮮と貿易を行うようになります。豊臣秀吉による明征服を狙った文禄・慶長の役で長い中断があったものの、対馬藩が管理する『倭館』を通じての朝鮮との貿易は幕末まで続きます。
20世紀初頭の釜山市  右の港が今のチャガルチ市場  左の小山が江戸時代の倭館跡地とされる。

やがてその倭館のあった地を中心に朝鮮の経済に絶大な影響力を行使するようになったのが明治の新制日本でした。プサンという港町を通して眺めると、日本と韓半島の繋がりが違った光に照らされて見えてくるのです。もちろん日本と韓半島との人の動きはこれだけではありません。プサンで発見された日本の縄文土器をみたことがあります。日本との交流は実はもっと、もっと昔から続いていました。しかしそればまた別の機会にしましょう。

「釜山近代歴史館」では明治期の日本が釜山を足掛かりにして大陸に出て行くにしたがって、姿を変える港町釜山の姿がきわめて分かりやすく、視覚に訴える形で展示されています。日本にとってこの港湾都市が重要な拠点であったことがよく分かります。
街の俯瞰を撮った貴重な写真

釜山近代歴史館の歴史解釈によると、朝鮮を植民地化することで日本が目指したことはただ一つ。略奪同様に手に入れた米を日本に運ぶことと、満州経営のための足掛かりでした。この主張は何回も何回も繰り返されて出てくるのですが、かえって『それだけ?』という思いが頭をもたげてきます。それくらいこの街の発展は『コメの収奪』では説明しきれないダイナミズムを感じさせます。
展示の主要テーマを述べるパネル

明治以降、埋め立てが進んだプサン港

当時の読み方は右から左。

ホテルかと思ったら、郵便局。

名前からすると朝鮮人オーナーのお店でしょうか。

”スンタ” ではなくて ”タンス”です。



昭和30年代…ではありません。

朝鮮を経済的に支配するためのシステムとして送り込まれたのが東洋拓殖株式会社であり、その釜山支店が現在「釜山近代歴史館」が入っているコンクリート製2階建ての建物でした。シャレた外観は今でも健在です。しかもこの建物は日本が去った後、アメリカ文化院が使用したため「日本の次に韓国を支配したアメリカ」の象徴にもなっているのです。19世紀以降、プサンを重要な舞台として朝鮮経済を支配した日本と、その後を継いだアメリカを描き出すのには恰好の建物がこの旧東洋拓殖株式会社の釜山支店なのです。

明治時代以降の釜山のジオラマや古写真が数多く展示されていますが、そこに描かれている近代釜山は『明治の日本』そのものです。韓国の人には否定したい過去の展示かもしれませんが、日本人なら懐かしい『明治日本』の姿に関心が集中してしまいそうです。

一方、「釜山博物館」にも同じ様に日本との関係を集中的に展示してありますが、こちらの方は三浦の乱以来の日本との関係にもスペースを割いてあるので、釜山博物館と近代歴史館を合わせると「プサンに存在した日本」を通して韓半島と日本が見えてきます。秀吉による文禄・慶長の役もかなり詳しく展示されています。

観光でプサンに行かれた方でこの二つの博物館にまで足を運ぶ人は少ないのではないでしょうか。博物館というかたい言葉の響きとは違って、紙芝居をみるような気軽さでプサンを通して「韓半島」と「日本」を分かりやすく説明しています。時間はかかりますが、プサンに行かれる機会に行って見ることをお勧めします。

ソウル近郊以外で、力強い経済発展を感じるのはプサンのある慶尚南道だけではないでしょうか。今回の旅行は全羅道を通って慶尚道に入ったので特にその格差に驚かされました。さらにプサンからウルサンに向かう東海南部線の複線化が進んでいるのを見て、まだまだ発展する気か、と慶尚南道の持つ果てしない底力に驚かされてしまいました。


韓国で発掘された縄文土器を見に行った時の話も合わせてご覧ください。数年前の話ですけど。
http://yorimichi2012.blogspot.jp/2012/10/blog-post_23.html




2 件のコメント:

  1. 東莱県に倭館がありましたが、本格的に近代都市として発展し始めたのは朝鮮末期からでした。 米の収奪については、まだ学界でも大いに議論されていると聞いていますが、満州進出のために韓半島を兵站基地化したことにほとんど異論はありません。 明治期、釜山は下関とつながり、韓半島と日本列島を繋ぐ重要な関門としての役割を果たしました。 東灘の温泉が有名なのでたくさんの日本人が釜山を訪れたと聞きました。

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  2. 日本とは違った見方も中には見受けられますが、近代釜山の発展について多面的に説明してあって益々この街に魅力を感じています。

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