穴太衆の本場、近江の国なのに石垣が異質な感じがするので、気になっていました。まずは実物を見よう、と米原インターを降りて旧中山道の番場宿を目指した。
電車ではなくて車にしたのは、新幹線米原駅より高速道路の米原インターの方が番場宿に近いからです。インターを降りて10分ぐらいで鎌刃城への登城口に近く、トレッキング マップを置いてある喫茶『源右衛門』に着いた。
たいへんよくできた案内書ですが、初めて行った人にはちょっと分かりにくい点もあります。地理感覚にうとい私は名神高速の下を通る通路が見つかりませんでした。
「彦根ガード42」はあるのですが、車が通れそうにありません。近くで立ち話中の地元の女性に尋ねたところ、車で近くまで行くには米原インター近くから入る林道が良い、と勧められました。そこでいったん米原インターまで戻り、こちらの林道(以下の略図の黄色い矢印)を通ると鎌刃城近くにたどり着くことが出来ました。
林道はずっと舗装してあり、幅もゆったりして走りやすい。しかし距離は結構走る。標高384メートルの山頂というと結構な高さです。かなり曲がりくねった道を10~15分くらい走ったでしょうか。右側に「鎌刃城跡➾」という案内板が見えたと思ったら、左側の道路脇に2,3台分くらいのスペースが見えてきた。午前10時近く、すでに1台駐車している横に滑り込んだ。
手前のような堀切が7つ続く |
主郭、副主郭などが連なる中心部にいたるまで、まっすぐな尾根に7つの堀切が設けられていて、両側は急峻な崖。鎌の刃のような形から鎌刃城と呼ばれるようになったか。
主郭 |
主郭への虎口 |
この連なりの突端の曲輪(北-V)にも石垣を用いた虎口があり、大櫓跡が隣接している。その下には巨大な堀切が切られていて、大櫓跡の横に設置された簡易眺望台に登るとこの大堀切と琵琶湖畔の街が眼下に望まれる。番場宿の背後から歩くとこの大堀切に至る。
北-Ⅴ 曲輪の石造りの虎口 礎石から薬医門があったと推定 |
北-Ⅵ 曲輪直下の大堀切 |
大櫓跡(北-Ⅵ) 半地下式、7間 x 7間以上の建築物があったと推定 |
北方に小谷城が望まれる。 |
左(東南)に目を移すと佐和山城(オレンジの➾)と彦根城(緑の➾) 周辺の地理関係が分ると思います。 |
眼下に広がる琵琶湖と周辺の山々、鳥が羽を広げたような縄張り、シャープな石垣が醸し出すスピード感に浸っていると、まるで獲物を求めて飛行する猛禽類になった気になる。
大櫓跡の側面に残る石垣 |
ここで一旦副郭(南-l、南-ll)にもどり、南端から西側に突き出た細く、狭い曲輪群(上の縄張り図では西-I~VIII)に向かった。先端には畝状竪堀が連続して掘られている。この地域に畝状竪堀群は珍しいらしい。ロープを伝って見に行きましたが、斜面の恐ろしく急なこと! 下りも辛かったが、登り始めるや下ったことがひたすら悔やまれた。
畝状竪堀群 |
この斜面はロープなしには登れません。 |
384メートルという高所にあるだけでなく、城内の移動は厳しく制限された山城なのに、石垣を多用するなどビジュアルな効果も狙っていて、目的が戦闘だけに集約された城には見えません。しかも琵琶湖を望む景色は絶品。近くに滝があって水も豊富。
戦国時代、江北の佐々木京極氏や浅井氏に対して江南の佐々木六角氏が争っていた頃から、北近江と南近江の境目の城として使われた、と言われていますが、いつ築城されたかは記録に残っていないようです。しかしこの山城を攻めるのは極めて難しかったのではないでしょうか。
次回は絶対、麓から登城ルートを歩いて登りたい。山城はやはり歩いて登らないと実感が伴いません。番場宿に並行した「名神高速」をくぐる「彦根ガード43、44」から鎌刃城の北端「北の大堀切」を目指したい。この日と逆の方向になる。麓から「北の堀切」まで歩いて40~50分ということなので半日かければ城跡はタップリ歩けるでしょう。
(2020年3月)