2013年3月22日金曜日

松井田城 400年の眠り



   上州松井田城は小田原北条氏の領国では北西の果て、信濃との境目にある城だ。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めでは北陸から碓氷峠を越えて領国に入った前田利家、上杉景勝、真田昌幸らが率いる3万5千人をまず迎えたのがこの松井田城だった。

   東海道を西から来る秀吉軍が初めに攻め落とした箱根の山中城と事情は似ているかもしれない。しかし、こちらは半日で落城してしまったが、松井田城は3月~4月にかけて1カ月近く持ちこたえている。

   城を守っていたのは大道寺政繁。1か月大軍から城を守ったもののあまりの大勢に大道寺は前田利家に和議を申し入れて城を明け渡した。水場を抑えられたため、ともいわれる。

   難攻不落を誇った城は、今も落城当時の形態を色濃く残しているという。3月15日「八王子城とオオタカを守る会」が企画した見学ツアーに参加した。

   八王子城落城は旧暦6月23日。松井田城で大道寺政繁が降参した2ヶ月後だ。もしこの城が落ちなかったら八王子城の運命は変わっていたかもしれない。落城は免れなかったとしても、もう少し持ちこたえたかもしれないし、犠牲も少なかったかもしれない、と考えるとヒトゴトではない。平成の八王子衆の気分は早々と天正へタイムスリップ。

北側に安中市松井田町高梨子を望む   当時の幹線道はここを通った


   高速上信越道を松井田ICで下りて国道18号線を安中方面に入ると数分で左側に入る道があり、「松井田城跡」の案内が出ている。

   駐車場がすでに曲輪の中にあって辺りは平地が広がっている。おそらく家臣の屋敷などが並んでいたのでは、と想像する。北の方に高梨子(たかなし)の街が望まれる。当時は東山道が通っていたので城は北を向いていたと思われる。しかしその後は中山道が城の南側を通るようになり、松井田宿が出来るなどして幹線道路の位置は当時とは違っている。

Aは連続縦掘 Bは連続土塁 黄色の線は大手道
大まかな位置を示したもので周囲の郭は省略


   城は広く、南北に1300メートル東西におよそ1000メートル、南側に東西に延びる尾根は比高130メートルあって北から南へ急なこう配が続く。南側はほぼ垂直な崖となっていて、主要曲輪はすべてこの尾根上、崖の上に連なっている。
   この南側の尾根の両側と途中を縦掘りや土塁で寸断することで東西の動きを制し、尾根から北に延びる支線にも堀切や縦掘をザクザク切りこんで敵の侵入や自由な移動を制限している。

堀切

横掘
 



主郭を見上げる

   駐車場から大手道を登り始めるとすぐ堀切にぶつかり、両側に縦掘が見えてくる。このあたりの道はまだ急ではない。かなり埋まっていて分かりにくくなってはいるが、横掘が走っているのが分かる。さらに見上げると主郭のある尾根がまるで覆いかぶさるように近づいてくる。あっちからもこっちからも矢が飛んできそう。

   大手道と並ぶ尾根上に連続縦掘がある、というのでまずそちらに向かう。今は土が埋もれて浅くなっているものの、当時の深さに修正しながら見ると「この道通さず」の激しい意気込みが伝わってくる。

連続した縦掘



   もっと激しいのが二の郭の西に続いている土塁の連続だ。土塁と空堀が交互に並んで、巨大な洗濯板のようになっている。初めて見る景観だ。しかも洗濯板に行く前に巨大な堀切があって、急こう配に足のすくんだ現代の兵士はロープを使わせてもらった。

15,6メートルはある高さ

 
連続土塁

土塁が並んでいるのがわかりますか?



   西側から尾根伝いにアプローチするのはもう不可能、と思えるくらい土塁の連なりと深くて急な掘切の姿はすさまじい。

   二の郭と本郭の間に馬出しがあり、それぞれの間も深い堀切が走っている。このあたりの縄張りは小田原北条氏が入ってから造られた部分で大道寺郭と呼んでいて、この先はここに初めて城を構築した安中氏にちなんで安中郭と呼んでいる。表面を見るだけでもその違いははっきりとわかる。

   安中郭のすぐ下に枡形あるいはS字型の空掘りがあり、かつての虎口ではないかと見られているが、残念ながら鳥にでもならないと上からその形を確認することはできない。

大道寺二の郭

大道寺二の郭の前は妙義山 一歩先は絶壁

大道寺主郭


スリムな安中二の郭 大道寺郭に比べると線が細い

分かりづらいけどS字型の空堀

下から見上げる縦掘
 
水場



   水場は流れをせき止めたものだったようで、このチョロチョロと流れる小川は城をでる辺りですでに立派な流れになっているところを見ると、水量はかなりあるのではないだろうか。

   中世の城跡というのは、そのまま新しい城が建てられない限りほとんど畑として使用されるケースが多いが、松井田城は南側は絶壁、北は急こう配、東西はズドンと巨大な掘切で遮断。城内は畑にするには平場に乏しく、土地のアップダウンが激しい上に地表面はズタズタ。他に使い道がなかったからでしょうか、廃城となった後はそのままほっておかれたようです。おかげでタイムスリップ、やり易かったですね。

2013年3月14日木曜日

八王子城 さよならオオタカ

 

   「八王子城とオオタカを守る会」がこれまで15年続けてきた八王子城見学ツアーが10日で終了した。私は参加したのが比較的新しく、また毎回同行したわけではないが、最後となるとやはり気になる。

   高尾駅北口朝九時に集合。23名参加。特に多かったわけではない。先月は確か、26名。最後だからという気負いもなく、いつものように川原宿までバスに乗り、いつものように陣馬街道を歩いて松竹橋に向かう。

朝 高尾駅からみえる八王子城




いつものように9時集合

この姿もきょうが最後


   今日の探索は搦め手。八王子城はふつう大手口から登るので、搦め手側は馴染みのない人が多いかもしれない。浄福寺城のまん前に当たり、西へ少し進むと心源院、さらに小田野城へと至るので、八王子城の大手は始めこちら側だったのでは、と見る人もいる。

   「まさか・・・あれ」の声に一同山肌を見上げると、あちこちに煙とも雲とも見える白い幕が揺らめいている。「ひょっとして花粉?」と一瞬沈黙。「あの中に入るのか?」と、不吉な予感。




   搦め手といっても広いが、この日辿ったのは松竹橋から滝の沢に沿って「青龍の滝」へ、いちど下って棚沢沿いの急斜面を登る。「横沢の滝」の上を通り、「棚沢の滝」の上部をかすめて一気に登ると、山頂曲輪に続く馬蹄のような曲輪の連なりに取りついた。途中で馬廻り道に入り、「馬(こま)冷やし」を通って松木曲輪にいたるルートだ。


縄張り図は東京都教育委員会「東京都の中世城館」2006を複写


   搦め手側のあちこちに城の遺構とみられる曲輪や石積みが見られる。しかし詳細は依然として不明のまま。1590年の秀吉による小田原北条攻めでは、前田利家率いる隊が大手から入ったのに対し、上杉景勝勢は搦め手から攻めた、と伝わっているものの、具体的なルート、状況は分からない。

   「清龍の滝」と近くの清龍寺跡、さらにあちこちに散乱した石は石積みの跡か、とも見えるが城とどのように結びついていたかは明らかではない。滝は修験者の修行の場であったかもしれない。

アズマイチゲ
館跡とみられる曲輪    杉から花粉の少ない木に植え替え中


土塁は虎口跡とみられる

木がじゃまして歩くのもたいへん

ますます花粉が・・・



イノシシがえさを求めて掘った穴があちこちに
 
清龍の滝

水はこの日はチョロチョロ

石積みが崩れた跡か
 
炭を造った窯跡とみられる

一段高い平地が清龍寺跡

左手の高台も曲輪と見られている
 


粘板岩と砂岩が交互に重なる小仏層群が露出している
 
厳しい勾配

段々になった曲輪を伝ってゆくと山頂へ


   道の険しさは並大抵ではない。今ならロープの助けを得ることも可能だが、中世のワラジばき兵士はさぞ息を切らせたことだろう。山城探検というよりは登山の訓練に近いくらいハードだ。

   曲輪の位置や、住居跡などがはっきりわかり、かつ案内も備わっている大手側に比べて搦め手はすべて自然の中に風化したまま。自分の目でジックリ見て想像をたくましくするしかない。

   歩き始めて2時間半。松木曲輪の脇でいつものようにお弁当を広げ、静かに15年のツアーに幕をおろした。



   11月から3月までの五ヶ月だけとはいえ、決まった日、時間に高尾駅北口に行けばかならず八王子城に連れて行ってもらえる意義は大きかった。このツアーに参加することで八王子城に魅かれ、さらに戦国の山城へと興味を広げた人は、私も含めて、多かったのではないでしょうか。

   圏央道が「国史跡八王子城」の真下を通る計画が発表されてから、八王子城の遺跡の保護を訴えてきた人たちと、オオタカが巣食う豊かな自然が破壊されることを心配した人たちが工事の中止を訴えたのが、そもそもの始まりだった。八王子城の貴重な遺跡と豊かな自然を多くの人に訴えようとするものだった。

   しかし圏央道は完成し、裁判も終わり(敗訴)、これ以上活動を続ける必要がなくなった。トンネル掘削による水枯れ現象やオオタカの営巣放棄といった環境問題以上に中世の城そのものへの関心が高まってきていることも事実だ。

   「八王子城」と「オオタカ」はいったん袂を分かつ時を迎えたのかもしれない。そのオオタカは、一時は営巣放棄が伝えられた後、再び戻ってきたとの声もある。



   八王子城から見た東京の空は茶色にくすんでいた。花粉だけならいいけど、他にも混じっているだろうなぁ、いろいろ。

2013年3月6日水曜日

八王子城 けもの道伝って探検気分

   日曜日に八王子城に向かうことが多くなった。いつもは足を運ぶ機会が少ない目立たない遺構を訪ねている。

   城主の北条氏照が住んだ「御主殿」と客を迎えた「会所」があった曲輪以外は整備保存がされていないので、八王子城にはまだ自然が多く、遺構も手つかずのまま残っている。林の片隅や沢の奥に足を踏み入れると石積みが見られたりする。山全体を城として利用した巨大な八王子城は急な傾斜も多く、ところによってはロープが備えてあったりして、ちょっとした登山気分も味わうことでできる。

   きょう(3月3日)は御主殿と山上の中間にある4段の石垣遺構を見に行った。

「御主殿」曲輪



建物の礎石位置を示す石
 
普段は御主殿の後ろ側からすぐ登ることができるのだが、現在御主殿では建物の礎石(埋め戻されている)が出た場所に新たに石を置いて、礎石の位置がわかるようにする工事が進んでいる。そのため曲輪のほとんどが立ち入り禁止になり、御主殿の裏側まで横切れない。裏の山の斜面を伝って、迂回することにした。

背後の斜面 青線は歩いた方向


   けっこう急な斜面を100メートル近く、左下に御主殿を見ながら横に進むのだが、道はあるのかないのかさえよく見えない。まるでけもの道だ。フンも転がっている。たまに白や赤のビニールテープが木の枝に結びつけてあるのを見て、通る人がいることが分かって安心する。

   通称「殿の道」が見えてきたときは、正直ほっとした。「殿の道」を左にそれると上方に4段に分かれた石垣がまもなく見えてくる。ここに来るのは初めてではない。数回は見ているが、いつものように案内されてグループで見るのと、一人で対座するのではずいぶんと印象が違う。いつもより大きく見える。


一つ目の石垣群


石垣と石垣の幅は1メートル少々か


   とは言っても4段に分かれた石垣は、1段が1メートルから2メートルとあまり高くはない。幅も23メートルほどで圧倒する広さとはいえない。(数字は椚国男さんの「戦国の終わりを告げた城」から引用)

二つ目の石垣群

三つ目の石垣群と奥に見える四つ目

四つ目の石垣群


   19メートル上にさらにもう一つ、2つ目の石垣がある。ここは2段に分かれている。さらに23メートルほど上に3つ目、その10メートル上に4つ目の石垣が見える。両方とも2段に分かれている。石垣は崩落した部分も多いが、原形は充分推し量れる。八王子城と、あとは群馬県太田市の金山城にしか見られない「あごどめ石」もよくわかる。

いちばん下の飛び出ているのがあごどめ石

 


   規模は大きく見えるが御主殿と会所のある曲輪の石垣に比べるとはるかに小さい。何よりも「なぜここに石垣が?」と不思議な気がする。他にもこのような石垣があちこち見られるのなら納得できるが、ここにしか見られない石垣群だ。横に小さな沢があるために土止めを兼ねたものか?

   椚国男さんは同じ著書のなかで、土地の傾斜が比較的緩いので攻めのぼる敵をここで阻止しようとした、との見解を示されている。

   八王子城の石垣は復興整備された御主殿以外は石垣の崩壊が著しく、金子曲輪の上方、旧道の横も2年前の秋の台風で傷んだままだ。

   広く石垣を使用した城であったけれど、時間とともに自然に崩落して部分的にしか残らなかったのか。総石垣で華麗な城をもくろんだものの途中で落城してしまって未完で終わったためなのか。

   あちこちで部分的に顔を見せている石垣を見ながら1590年、落城当時の八王子城を思い描くのも、結構楽しい。