城主の北条氏照が住んだ「御主殿」と客を迎えた「会所」があった曲輪以外は整備保存がされていないので、八王子城にはまだ自然が多く、遺構も手つかずのまま残っている。林の片隅や沢の奥に足を踏み入れると石積みが見られたりする。山全体を城として利用した巨大な八王子城は急な傾斜も多く、ところによってはロープが備えてあったりして、ちょっとした登山気分も味わうことでできる。
きょう(3月3日)は御主殿と山上の中間にある4段の石垣遺構を見に行った。
「御主殿」曲輪 |
建物の礎石位置を示す石 |
背後の斜面 青線は歩いた方向 |
けっこう急な斜面を100メートル近く、左下に御主殿を見ながら横に進むのだが、道はあるのかないのかさえよく見えない。まるでけもの道だ。フンも転がっている。たまに白や赤のビニールテープが木の枝に結びつけてあるのを見て、通る人がいることが分かって安心する。
通称「殿の道」が見えてきたときは、正直ほっとした。「殿の道」を左にそれると上方に4段に分かれた石垣がまもなく見えてくる。ここに来るのは初めてではない。数回は見ているが、いつものように案内されてグループで見るのと、一人で対座するのではずいぶんと印象が違う。いつもより大きく見える。
一つ目の石垣群 |
石垣と石垣の幅は1メートル少々か |
とは言っても4段に分かれた石垣は、1段が1メートルから2メートルとあまり高くはない。幅も23メートルほどで圧倒する広さとはいえない。(数字は椚国男さんの「戦国の終わりを告げた城」から引用)
二つ目の石垣群 |
三つ目の石垣群と奥に見える四つ目 |
四つ目の石垣群 |
19メートル上にさらにもう一つ、2つ目の石垣がある。ここは2段に分かれている。さらに23メートルほど上に3つ目、その10メートル上に4つ目の石垣が見える。両方とも2段に分かれている。石垣は崩落した部分も多いが、原形は充分推し量れる。八王子城と、あとは群馬県太田市の金山城にしか見られない「あごどめ石」もよくわかる。
いちばん下の飛び出ているのがあごどめ石 |
規模は大きく見えるが御主殿と会所のある曲輪の石垣に比べるとはるかに小さい。何よりも「なぜここに石垣が?」と不思議な気がする。他にもこのような石垣があちこち見られるのなら納得できるが、ここにしか見られない石垣群だ。横に小さな沢があるために土止めを兼ねたものか?
椚国男さんは同じ著書のなかで、土地の傾斜が比較的緩いので攻めのぼる敵をここで阻止しようとした、との見解を示されている。
八王子城の石垣は復興整備された御主殿以外は石垣の崩壊が著しく、金子曲輪の上方、旧道の横も2年前の秋の台風で傷んだままだ。
広く石垣を使用した城であったけれど、時間とともに自然に崩落して部分的にしか残らなかったのか。総石垣で華麗な城をもくろんだものの途中で落城してしまって未完で終わったためなのか。
あちこちで部分的に顔を見せている石垣を見ながら1590年、落城当時の八王子城を思い描くのも、結構楽しい。
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