炎上した館の礎石に残る柱の跡をあかずに眺めている。
石に残る焦げ跡は生々しく、まるで一週間前に起きた火災現場を見ているような錯覚さえ覚える。この上にあった建物を残らず炎上させ、焼きつくす炎が見えるようだ。
とはいいながら城主の館が豊臣秀吉軍の襲撃で炎上し消失したのは1590年だから、423年も前のこと。ちょうど今頃だ。
グリーンのX印が北条氏照の居住空間、御主殿跡 東京都教育委員会「東京都の中世城館」の俯瞰図を使用 |
現在史跡公園として公開されている八王子城「御主殿跡」の庭園から池跡が出土したのにともない、八王子市による現場説明会が8月10日(土)にあった。朝日新聞にも記事が出ていたので気づいた人もいるだろう。新聞に書かれるくらい珍しいことなのだが、実感として受け止めた人は少ないかもしれない。
池?あっそう。それで?
さて土曜の朝、中央線で踏切事故があり高尾到着が遅れたのでタクシーをひろったら運転手さんが「何かあったんですか城跡で。私だけでもう4回目ですよ、今朝から。」
いつもは静かな御主殿跡は確かに大勢の人であふれていた。午前10時30分からの説明会には100人ぐらいはいただろうか。タクシーで来た熱心な人もいるのだ。少なくとも6,7人。
実をいうと、今回の発掘調査で池跡が出たことは偶然10日ほど前に御主殿を通りかかって耳にしてはいたけど、10日に市が発表まで公にしないでほしいといわれていた。今はインターネットで一瞬にして情報が駆け巡るから、情報管理はほんとタイヘン。
こちらは丸い柱 |
こんな形で礎石が並んでいます。 |
実は私は池よりも同時に出土した敷石の焼け跡に関心があった。高温で焼けた柱の形をくっきりと残しているのだ。これだけきれいに柱の形が残っている敷石はもう見られないかもしれない。もう一度見たい。
さる7月30日。旧暦では6月23日。天正18年(1590年)のこの日、前田利家、上杉景勝、真田昌幸ら北陸から小田原に向かった秀吉軍の猛攻にあって八王子城が落ちた日だ。その落城の日に立ち寄った城跡で落城の炎に向き合うことになるとは・・・さすが名高い心霊スポット。
その時、池跡も見せてもらった。ところがその池跡は実は全体の半分で、さらに奥に広がっていることがわかったそうだ。現場説明会では池は倍の広さになっていた。
現場でもらったパンフ だいだい色で囲ったのは今回の発掘場所 ブルーは追加された池跡 |
巨大な石を囲むように池があった 7月30日撮影 |
7月30日撮影 |
池は砂利を敷き詰めた上に粘土を敷いて水を溜めたと見られるが、堆積物はなかったという。使用された期間が比較的短かったのだろうか。館も庭もまだ新しいうちに消えてしまったかも。
小田原城 御用米曲輪の館跡 平成25年2月 |
礎石は八王子城の方が立派? |
八王子城から見れば本家にあたる小田原城の御用米(ごようまい)曲輪でも庭園と池の跡が発見されたが、中世の庭園跡の発見は関東では少ないそうで、実態はまだ分かっていないそうだ。これからの研究成果が楽しみです。
敷石に残る焼けた柱の跡は前回の発掘でもみられたそうですが、今回のものほどはっきりしていなかったそうで、発掘を担当した人も驚いていました。そういえば火災によって焼けた土は小田原でも見られましたが、柱の跡は見なかった。
「発掘した遺物は埋め戻す。」が原則です。
「燃えさかる炎」の跡もいずれそっくり土の中に帰ります。発掘された遺物としての運命には逆らえません。赤茶けた焼土と見た人の記憶の中に再び封印されるのです。
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