2022年2月19日土曜日

対馬 清水山城

眺めは良いがこんな居心地の悪い場所で戦は出来ないだろう。清水山城(長崎県対馬市厳原町)を登りながら思った。平板な場所が一つも見当たらないのだ。どこも斜面、それもかなり急な勾配なので寝る場所はどうやって確保するのだろう?ハンモックでも吊って空中で寝たのだろうか?

城の形はしているけど戦う場を想定していなかったのでは? 急な勾配を「三の丸」から「一の丸」に向かって歩きながら(喘ぎながら?)ここで何をしようとしたのか、様々な思いが頭の中を駆け巡った。なんとも歩きにくい。

「三の丸」を西側から見上げる   虎口は右手

「三の丸」虎口を入って「二の丸」の方角を見る

宗家の領国対馬藩の中心「厳原」を見下ろす清水山(標高208m)の頂上に「一の丸」を、そこから下る尾根上に「二の丸」さらに「三の丸」を置く連格式の山城が築かれたのは天正19年(1591年)のこと。朝鮮半島を経由して明国に兵を送ろうとする豊臣秀吉が「総司令部『名護屋城』と朝鮮半島の釜山を結ぶ輸送、連絡の中継拠点として築城した」というルイス フロイスが「日本史」に残した記録が現地の案内坂に紹介してある。壱岐の勝本城も同時に造られたという。
「日本城郭大系」に掲載された『清水山城古図』
古いが全体像はつかめる 「三の丸」は右下

築城当時は宗家が居住する「金石城」のすぐ後ろに位置していたので、いざという場合「詰めの城」としての役割も担っていたのだろうか。攻めるのは難しそう。

秀吉が築城を指示した文書は残されていないが、最新の研究によると当時、小西行長とともに朝鮮との連絡、折衝にあたった宗義智(そう よしとし、宗家第9代、初代対馬藩主)を中心に相良長毎、高橋直次、筑紫廣門らが築城にあたったという説が有力とのこと。これも現地の案内坂の説明。

三の丸  斜面に沿って登る石垣(西側)

東側の石垣


狭い通路の真ん中に巨大な岩石



二の丸虎口(見上げる)

二の丸虎口(内側から見る)  枡形がよく分かる

貴重な平坦地  左に枡形虎口の一部が見えている

標高は高くないが、「三の丸」から「一の丸」まで幅およそ30メートルの細い曲輪がおよそ500メートル近く急な傾斜をぐんぐん昇る、とても細長~い曲輪で、その両側の石垣もこの急斜面を昇る。秀吉が朝鮮半島に造った「倭城」に多く見られる「登り石垣」とか「竪(たて)石垣」などと呼ばれる斜面に沿って造られた石垣が知られていますが、この清水山城の石垣は全部『登り石垣』なのだ。

「一の丸」に到着  虎口を見上げる

内側から見る「一の丸」虎口 
二重になっていて左手にもうひとつ虎口がある


「一の丸」二重目の虎口

風化して崩れた石垣は多いが、城全体としてはかなり原形をとどめているように見える。恐らく文禄・慶長の役の後は対馬が戦に巻き込まれることもなくなり、城はそのまま残されたからかもしれない。しかも宗家は厳原のやや奥まった桟原城(さじきばらじょう)に1660年に居を移し、清水山城からはさらに離れることになる。

傾斜がきわめて急峻なのと幅が狭い上に、岩盤が露出している個所が多い。岩がそのまま残った場所も多い。削平地は「二の丸」にわずかに認められる程度だ。清水山城の最高所「一の丸」からは真下に厳原港、厳原の街並みを望み、周辺の美しい山並みに心が癒される。


二つ目の虎口越しに見る厳原の街と港

城跡は、厳原の街のすぐ上に位置していて街並みや港が眼下に望め、市民のハイキングコースとして整備されている。歩きにくさを我慢できるなら、広大な海原と豊かな緑に幾多の歴史をちりばめた景色を楽しみながらリッチな散歩が楽しめる。「一の丸」まで登る人は多くはないかもしれないが、街からのアクセスの良い「三の丸」周辺までなら気軽に登れるだろう。対馬市役所に近い『ふれあい処つしま』の後ろから登れば10分くらいの距離だった。



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