2012年9月30日日曜日

最初で最後

   
 
   高いところは苦手です。山に登っても遠くの峰々には感動しても足元の絶壁は絶対に覗きません。そんな私が誘われて東京スカイツリーに登りました。誘われなければおそらく登らなかったでしょう。まあ、一度ぐらいは・・・そんな気持ちから。
 
                                           
 
   晴れていて見晴らしは良いのですが、房総半島や富士山までは見えません。 下を流れる隅田川と荒川です。









                           

   南を向くと隅田川河口からお台場方面が見えます。


                            混んでいました。登りのエレベーターも6,7分は待ったでしょうか。でも土曜日なのに動きづらいほど込み合ってはいないのが意外でした。もうそろそろ熱意が冷めてきたのかもしれません。
             
                          
  隅田川のすぐ上に浅草観音、さらに上方の緑は上野の森。
 
 
   デッキには『江戸人目図屏風』という江戸をあたかも上空から描いたような俯瞰図が置いてあるのですが、ちょうどスカイツリーから見たような描き方で、とても分かりやすい。高いビルもなかった時代に、と感心しました。 
 






 

結局これだけなんですね。きれいでした。
私は350メートルの『天望デッキ』まで登り、さらに100メートル上の『天望回廊』は登りませんでした。350メートルで十分楽しめました。でもこれが最後でしょう。
最初で最後です。

 

2012年9月29日土曜日

用水の流れる街

   

水が流れていると心が落ち着きませんか。私は好きです。





   多摩の日野市には街の真ん中を用水が走っています。水かさも多く、流れは速い。以前に来た時は魚も見えました。






   昔はもっと幅が広かったそうです。一段と整備された用水に沿って一世代前の写真がパネルで表示してあります。














   

   北条氏照がこの地域を治める滝山城主(現八王子市)だった永禄10年(1567年)、田に十分な水を確保するため近くの多摩川から水を引きました。美濃から来た斎藤隼人に掘らせた用水が、440年後の今も流れています。その時氏照公は工事に罪人を使ったそうです。


   氏照はやがて八王子城に移りますが、天正18年(1590年)秀吉の小田原城攻めの時、兄の氏政とともに腹を切らされた武将ですが、詳細は不明が点が多い。その氏照が手掛けた土木工事が、今も目に見える形で土地の生活に役に立っているとは、嬉しいですね。


   氏照がずっと身近な人物に感じられてきました。息を吹き込まれた文楽人形のようです。





 これは今の甲州街道ですが、この道に沿って幕末まで宿場がありました。

   かつての面影はすっかり消えてしまいましたが、下佐藤家の本陣で当時の姿を忍ぶことができます。


   戦国の世から変わらず流れ続ける日野用水はこの本陣の後ろ側にあたります。

2012年9月21日金曜日

薩摩のコリアンタウン

   

19日、東京四谷で薩摩焼の十五代沈壽官さんの講演があった。

   「私の中の韓国」という韓国文化院が主催している大変意欲的なシリーズのひとつである。陶芸の第一線で活躍中の沈壽官さんのお話は多岐にわたって分かりやすく、ユーモアにあふれ、1時間半の講演が終わって拍手が鳴りやまなかった。

   ここで要旨を簡単に、などと言う大それた勇気はない。ただ一つ、特に印象に残った点を記したい。

   沈壽官さんのご先祖は1598年慶長の役が豊臣秀吉の死によって終わり、朝鮮半島に派遣されていた島津義弘が薩摩に帰る際、連れて帰った多数の陶工のひとり、といわれている。

   沈さんら陶工集団は鹿児島城下の西、苗代川に住居を定め、藩から士族並の待遇を与えられるにいたった経緯は司馬遼太郎さんのエポックメーキングな短編「故郷忘じがたく候」に詳しい。

   一五代目壽官さんによると、薩摩に来た陶工集団は萩、唐津、有田などに行った同じ朝鮮半島から来た陶工とはまったく異なった運命を歩むことになった。

   萩では李さんが坂に名前を変えたように、いずこも徐々に朝鮮のカラーを失っていったが、薩摩はまったく逆に朝鮮のことば、風俗、習慣の維持を義務付けられ、名前を日本風に変えることも禁じられた。鹿児島ののどかな田園に突如「コリアンタウン」が現れた、という沈さんの言葉はとても分かりやすい。

   しかも幕末まで270年続いた、というから半端な政策ではない。しかも簡単ではない。日本に来て2世、3世の頃までなら親の生活を見て、聞いて維持することは難しくはないだろう。問題はその後。いくら多数の人が連れて来られたとしても嫁は近くの村から貰っただろうし、自然に言葉は現地化し、食事、風習も現地調達の影響を受けるのが自然、と思うのだが…。

   しっかりと朝鮮の伝統は受け継いで、代々言葉も勉強し、後世に伝えていったとのこと。沈さんはそのために使用した何冊かの教科書の名前もあげてくれたが、残念ながら私には書き写す能力はない。雨森芳洲の名前もあがったが朝鮮語辞典の類だろうか。

   おそらくコリアンタウンの住民全員が朝鮮語ぺらぺらではなかっただろう。一部の専門の人に託されていた、考えるのが自然かもしれない。

   では一体、何のために?

   薩摩藩が朝鮮と行った密貿易のためだった。

   当時薩摩藩は琉球王国を支配しながら、琉球を通じて世界と貿易をおこなっていた。実は同時に坊津で朝鮮とも交易を続けていて、その時に朝鮮語の通訳として使った、という。また朝鮮人の生活を維持させたのは幕府に発覚した時に「朝鮮人同士のやり取り」としらを切るつもりだった、とか。

   徳川の治世に朝鮮と貿易が許されたのは対馬藩だけだったはず。薩摩は朝鮮出兵時に朝鮮との交易のうまみを知ったのだろうか?

   朝鮮から来た陶工集団は薩摩の地でひたすら茶碗や壺の焼いていただけではなかったのだ。それにしてもひとつの村を周りと隔絶し、人工的に異国の文化、風俗、、言語を270年に渡り維持し続けるとは、ちょっとコワイ話。

   沈さんが初めて薩摩藩の秘密を明かしたわけではないが、『コリアンタウン』といい『密貿易の通訳』といい、当事者の後裔の口から聞くと実に生々しい。

   沈さんは「海洋国家薩摩」という言葉で当時の薩摩藩を語っていたが、独立志向の強い薩摩を考えると改めて、明治になって画一的な日本が造られる前の多様な日本の姿を思い浮かべてしまう。

2012年9月13日木曜日

はじめに

   あっちへ行ったりこっちへ行ったり、気の向くまま足を運び、見たこと感じたことを文字と写真で残したい。

   テーマは山歩きと山城歩き、それに韓国の城が中心です。縄文時代以降の東アジアの交流にも魅かれます。 百済とか伽倻とか新羅とか・・・・。からの国とは韓国・北朝鮮ですが、韓国とか朝鮮とかにするとどうしても政治的な色がついてくるのであえて「から」を使った。政治体制を越えた地域と人です。

   山は歩き始めて10年ぐらいになりますが、初めは昭文社の案内書だけでは足りなくて個人のブログに掲載された記録、体験談、アドバイスにずいぶんと助けられました。知っていて当たり前だからこそ案内書には書いてないことが多いのです。私の経験も役に立てるなら、と記録に残すことにしました。

   山を下れば温泉。世界広しと言えどもこの国ほど温泉に恵まれ、かつ利用する国はないのではないでしょうか。大事にしたいですね、このユニークな習慣。

  お城で一番関心があるのは戦国時代のお城です。日本が徳川によって統一されるまでの動乱期です。徳川幕府は身うちの安泰にばかり心をくだいたみたいでなかなか心は躍りません。お城に天守閣がなかった時代、あの時代がいい。分からないことが多いから、なおさら夢がある。

    対象が次々と広がりすぎないように気をつけながら、では出発。

平成24年9月