19日、東京四谷で薩摩焼の十五代沈壽官さんの講演があった。
「私の中の韓国」という韓国文化院が主催している大変意欲的なシリーズのひとつである。陶芸の第一線で活躍中の沈壽官さんのお話は多岐にわたって分かりやすく、ユーモアにあふれ、1時間半の講演が終わって拍手が鳴りやまなかった。
ここで要旨を簡単に、などと言う大それた勇気はない。ただ一つ、特に印象に残った点を記したい。
沈壽官さんのご先祖は1598年慶長の役が豊臣秀吉の死によって終わり、朝鮮半島に派遣されていた島津義弘が薩摩に帰る際、連れて帰った多数の陶工のひとり、といわれている。
沈さんら陶工集団は鹿児島城下の西、苗代川に住居を定め、藩から士族並の待遇を与えられるにいたった経緯は司馬遼太郎さんのエポックメーキングな短編「故郷忘じがたく候」に詳しい。
一五代目壽官さんによると、薩摩に来た陶工集団は萩、唐津、有田などに行った同じ朝鮮半島から来た陶工とはまったく異なった運命を歩むことになった。
萩では李さんが坂に名前を変えたように、いずこも徐々に朝鮮のカラーを失っていったが、薩摩はまったく逆に朝鮮のことば、風俗、習慣の維持を義務付けられ、名前を日本風に変えることも禁じられた。鹿児島ののどかな田園に突如「コリアンタウン」が現れた、という沈さんの言葉はとても分かりやすい。
しかも幕末まで270年続いた、というから半端な政策ではない。しかも簡単ではない。日本に来て2世、3世の頃までなら親の生活を見て、聞いて維持することは難しくはないだろう。問題はその後。いくら多数の人が連れて来られたとしても嫁は近くの村から貰っただろうし、自然に言葉は現地化し、食事、風習も現地調達の影響を受けるのが自然、と思うのだが…。
しっかりと朝鮮の伝統は受け継いで、代々言葉も勉強し、後世に伝えていったとのこと。沈さんはそのために使用した何冊かの教科書の名前もあげてくれたが、残念ながら私には書き写す能力はない。雨森芳洲の名前もあがったが朝鮮語辞典の類だろうか。
おそらくコリアンタウンの住民全員が朝鮮語ぺらぺらではなかっただろう。一部の専門の人に託されていた、考えるのが自然かもしれない。
では一体、何のために?
薩摩藩が朝鮮と行った密貿易のためだった。
当時薩摩藩は琉球王国を支配しながら、琉球を通じて世界と貿易をおこなっていた。実は同時に坊津で朝鮮とも交易を続けていて、その時に朝鮮語の通訳として使った、という。また朝鮮人の生活を維持させたのは幕府に発覚した時に「朝鮮人同士のやり取り」としらを切るつもりだった、とか。
徳川の治世に朝鮮と貿易が許されたのは対馬藩だけだったはず。薩摩は朝鮮出兵時に朝鮮との交易のうまみを知ったのだろうか?
朝鮮から来た陶工集団は薩摩の地でひたすら茶碗や壺の焼いていただけではなかったのだ。それにしてもひとつの村を周りと隔絶し、人工的に異国の文化、風俗、、言語を270年に渡り維持し続けるとは、ちょっとコワイ話。
沈さんが初めて薩摩藩の秘密を明かしたわけではないが、『コリアンタウン』といい『密貿易の通訳』といい、当事者の後裔の口から聞くと実に生々しい。
沈さんは「海洋国家薩摩」という言葉で当時の薩摩藩を語っていたが、独立志向の強い薩摩を考えると改めて、明治になって画一的な日本が造られる前の多様な日本の姿を思い浮かべてしまう。
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