まず、滝坂道と津久井往還のほかにも気になるカギ型に曲がる道がひとつあります。
世田谷区役所に向かってすぐ左、バス停車場の横の道。この道を区役所から反対のほう(東)へ少し入ったところにあります。「世田谷の中世城塞」に明治8年の測量図を参考にした道路図が載っていて、この道を鎌倉中道として紹介しています。その理由のひとつに『宿場道に特有の馬で駆け抜けられないようにした』形、と90度に曲がるカギ型の辻を挙げています。
世田谷区役所のあたりは小田原北条氏の影響が強くなるまでは鎌倉道に面した宿駅があり、宿駅が『新宿』に移った後は『元宿』と呼ばれていました。『元宿』の道なら滝坂道や津久井往還のカギ型より古いカギ型、ということになります。
「世田谷の中世城塞」世田谷区教育委員会1979年 |
そう言われてみれば角の古い木も、意味ありげに見えてきます。庚申塔とかお地蔵さんがあった後に植えた、とか・・・。
鎌倉中道にはいくつかルートが考えられ、定説はないようですが、この辺りを通っていたことは間違いないようです。「世田谷の中世城塞」によると、北沢川にかかる鎌倉橋は本来堀之内道(現 環七)にあったもので、時代とともに位置が変わった可能性を示唆しています。
そういえば世田谷城の近くを歩くと、カギ型の道路やT字型の道路に出くわすことが多々あります。近年になって作られたものかもしれませんが、城のすぐ近くでもあり、ひょっとして戦国の・・・想像させてください。
さて、もうひとつ。
鎌倉中道との深い結びつきで始まった世田谷城ですが、後半は小田原北条氏の支配の中に組み込まれて津久井往還、滝坂道との関係が深くなります。やがて吉良家は豊臣秀吉の小田原攻めで二百数十年続いた領地を失うことになります。抵抗もなく最後の領主吉良氏朝(うじとも)は上総にのがれます。世田谷城を落としたのは前田利家と伝わっています。名門にふさわしい静かな終わり方だったかもしれません。
すべてが終わり・・・。
東京都世田谷区弦巻 実相院(南口) |
山号は夫人の名前から「鶴松山」(北口) |
上総にのがれた氏朝は間もなくひとり世田谷に帰りました。しかし城は廃城になっていたため使えず、近くに庵を結びそのままそこで亡くなりました。世田谷城をすぐ近くに見ながらどんな気持ちで亡くなるまでの数年を過ごしたことでしょうか。吉良一族がはじめて、血の通った身近な人間に感じられる一瞬です。関ヶ原合戦も終わり、江戸に入った徳川家康の力がますます大きくなっていく慶長8年(1603年)のことでした。
実相院は庵の跡に建てられたもので、氏朝が創建したと伝わっているものの、実際は息子の頼久が父のために建てた可能性もあります。上総で亡くなった氏朝夫人もこの地に送られ、並んで葬られています。氏朝の正室は小田原北条家3代目氏康の娘、鶴松院です。氏朝自身も母が北条氏綱の娘、崎姫で、崎姫ははじめの結婚でできた氏朝を連れて吉良頼康と再婚した(のか、させらせたのか)ので、氏朝にも北条の血が流れています。
小田原北条氏に関する研究が進んでいて、今は頼康に嫁いだのは崎姫ではなくて妹だという見方が有力です。とすると、さぎ草伝説で有名な常盤をイジメたのは崎姫ではなくて、妹だったのか?
氏朝の夫人も北条氏康の娘ではなくて幻庵の娘、と見られています。この時代の女性は名前すら残らない場合が多く、「女」としか系図に残っていません。名前もわかっているのは戒名だけだったりするのです。
崎姫については以下のブログに詳しいので、ご紹介します。http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-d6d6.html、http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-b0c7.html
誰であったにしろ小田原北条氏から嫁いだ女性です。吉良家が北条カラーに染め上げられていたことに変わりはありません。実に「戦国時代」的ですね。
世田谷城について思うところを、今見えるものを手掛かりにあれやこれや想像をめぐらしてみましたが、200数十年間、城が同じ形であったはずはありません。特に最後の二人、頼康、氏朝はどっぷりと小田原北条家の意向で動いていて、おそらく城も北条氏の意向で手が加えられたことでしょう。
城の遺構も少なく、吉良氏の記録も少ない(あっても読めないでしょうけど)のに建物や地形など、現存するものをたどりながらでも中世に思いを馳せることができるものですね。時間とともに消えるものも多いけど、残るものを探すのも楽しいですね。(おわり)