2013年11月30日土曜日

世田谷城散歩(4) 吉良の終わりは北条 

カギ型に曲がる古道に出会ったことがきっかけで世田谷城の周辺を探索してきました。おわりに紹介したいものがふたつあります。

まず、滝坂道と津久井往還のほかにも気になるカギ型に曲がる道がひとつあります。

世田谷区役所に向かってすぐ左、バス停車場の横の道。この道を区役所から反対のほう(東)へ少し入ったところにあります。「世田谷の中世城塞」に明治8年の測量図を参考にした道路図が載っていて、この道を鎌倉中道として紹介しています。その理由のひとつに『宿場道に特有の馬で駆け抜けられないようにした』形、と90度に曲がるカギ型の辻を挙げています。

世田谷区役所のあたりは小田原北条氏の影響が強くなるまでは鎌倉道に面した宿駅があり、宿駅が『新宿』に移った後は『元宿』と呼ばれていました。『元宿』の道なら滝坂道や津久井往還のカギ型より古いカギ型、ということになります。

「世田谷の中世城塞」世田谷区教育委員会1979年




そう言われてみれば角の古い木も、意味ありげに見えてきます。庚申塔とかお地蔵さんがあった後に植えた、とか・・・。

鎌倉中道にはいくつかルートが考えられ、定説はないようですが、この辺りを通っていたことは間違いないようです。「世田谷の中世城塞」によると、北沢川にかかる鎌倉橋は本来堀之内道(現 環七)にあったもので、時代とともに位置が変わった可能性を示唆しています。

そういえば世田谷城の近くを歩くと、カギ型の道路やT字型の道路に出くわすことが多々あります。近年になって作られたものかもしれませんが、城のすぐ近くでもあり、ひょっとして戦国の・・・想像させてください。

さて、もうひとつ。

鎌倉中道との深い結びつきで始まった世田谷城ですが、後半は小田原北条氏の支配の中に組み込まれて津久井往還、滝坂道との関係が深くなります。やがて吉良家は豊臣秀吉の小田原攻めで二百数十年続いた領地を失うことになります。抵抗もなく最後の領主吉良氏朝(うじとも)は上総にのがれます。世田谷城を落としたのは前田利家と伝わっています。名門にふさわしい静かな終わり方だったかもしれません。

すべてが終わり・・・。
東京都世田谷区弦巻 実相院(南口)

山号は夫人の名前から「鶴松山」(北口)


上総にのがれた氏朝は間もなくひとり世田谷に帰りました。しかし城は廃城になっていたため使えず、近くに庵を結びそのままそこで亡くなりました。世田谷城をすぐ近くに見ながらどんな気持ちで亡くなるまでの数年を過ごしたことでしょうか。吉良一族がはじめて、血の通った身近な人間に感じられる一瞬です。関ヶ原合戦も終わり、江戸に入った徳川家康の力がますます大きくなっていく慶長8年(1603年)のことでした。

実相院は庵の跡に建てられたもので、氏朝が創建したと伝わっているものの、実際は息子の頼久が父のために建てた可能性もあります。上総で亡くなった氏朝夫人もこの地に送られ、並んで葬られています。氏朝の正室は小田原北条家3代目氏康の娘、鶴松院です。氏朝自身も母が北条氏綱の娘、崎姫で、崎姫ははじめの結婚でできた氏朝を連れて吉良頼康と再婚した(のか、させらせたのか)ので、氏朝にも北条の血が流れています。

小田原北条氏に関する研究が進んでいて、今は頼康に嫁いだのは崎姫ではなくて妹だという見方が有力です。とすると、さぎ草伝説で有名な常盤をイジメたのは崎姫ではなくて、妹だったのか?

氏朝の夫人も北条氏康の娘ではなくて幻庵の娘、と見られています。この時代の女性は名前すら残らない場合が多く、「女」としか系図に残っていません。名前もわかっているのは戒名だけだったりするのです。

崎姫については以下のブログに詳しいので、ご紹介します。http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-d6d6.htmlhttp://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-b0c7.html

誰であったにしろ小田原北条氏から嫁いだ女性です。吉良家が北条カラーに染め上げられていたことに変わりはありません。実に「戦国時代」的ですね。

世田谷城について思うところを、今見えるものを手掛かりにあれやこれや想像をめぐらしてみましたが、200数十年間、城が同じ形であったはずはありません。特に最後の二人、頼康、氏朝はどっぷりと小田原北条家の意向で動いていて、おそらく城も北条氏の意向で手が加えられたことでしょう。

城の遺構も少なく、吉良氏の記録も少ない(あっても読めないでしょうけど)のに建物や地形など、現存するものをたどりながらでも中世に思いを馳せることができるものですね。時間とともに消えるものも多いけど、残るものを探すのも楽しいですね。(おわり)




2013年11月29日金曜日

世田谷城散歩(3) 滝坂道で三宿城へ


(00:00)豪徳寺の北、お地蔵さんの立つ辻を出発、滝坂道を歩いて三宿城に向かいます。時間がどれくらいかかるか計ってみましょう。

三宿城は国道246号線沿い、地下鉄田園都市線「池尻大橋駅」から近い高台にあります。城か砦があったと言い伝えられていますが遺構はありません。言い伝えだけで確証はありませんが、「世田谷の中世城塞」は明治42年測量の地図に土塁跡を示す記号があるので「あった」と推測しています。現在の多聞小学校の建つあたりです。城内に多聞寺という名の寺があったため多聞寺城(砦)とも呼ばれています。


赤で囲った世田谷城から濃いブルーで囲った三宿城まで黄色の滝坂道を右に行きます。
両側を流れる北沢川(北)と烏山川(南)は淡いブルー



滝坂道を東へ江戸に向かうと、左に北沢川、右に烏山川を見ながら尾根伝いを行きます。
(00:16)環状七号線までは昔のままのくねくね道が続きますが、道は環七に中断され、向う側に続くのが見えています。環七を渡りながら、川に向かって土地が下っているのが道路の起伏で読み取れます。二つの川に向かって土地が下がり、川から再び上って行く形がよく見えます。

曲がりくねる古道で車がすれ違うのは大変です。

滝坂道を環状七号線が横断しています。

環状七号線  滝坂道から南に流れる烏山川(暗渠)

環七の北を流れる北沢川(この部分は暗渠)

環七を超えると間もなく淡島通りと合流して、滝坂道は一気に21世紀の喧噪に包まれます。


現在の淡島通り。道はやっぱり曲がりくねっています。
(00:21)しばらく行くと鎌倉街道と書かれた道と交差し、その道を北に向かうと北沢川を渡り、橋には「鎌倉橋」と書いてあります。

鎌倉道と伝えられる場所は実はいくつかあって、確実な経路は分かっていないようです。だたこの辺りを通っていたことは間違いないと見られていて、現在の環七の場所にあった「堀之内道」が鎌倉道だった、とみる人もいます。

このクネクネ感はやはり古道

鎌倉橋

北沢川は下北沢駅周辺の一区間だけ、水を浄化して緑地を形成しています。
かつてもこんなに綺麗だった、という意味ではありません。


道はひとつだけとは限りません。時代とともに変わることもあるでしょう。確実に「これだ!」とは言えないものかもしれません。ただ、どうも川辺よりも高台を通っていたようですね。世田谷城の南を行く津久井往還も高い場所を通っています。当時の道は低地をさけたのでしょうか。水がつくと怖いから。

室町幕府があったころの世田谷城は鎌倉との結びつきがつよく、鎌倉中道がそばを通っていました。小田原北条氏の傘下に入ると小田原や、江戸城との結びつきが重要になったために現在の代官屋敷前の通りが開発されて『新宿』と呼ばれるようになりました。人と物資の流れが変わっても交通の要所を抑える、という世田谷城の重要性は変わらなかったのですね。




黄色が北沢川と烏山川 橙色が滝坂道 赤いカギ印は土塁跡
土塁の左にある道路を隔てて「三宿の森緑地」と三宿神社


(00:31)やがてその淡島通りが北沢川と交差するところで旧道にもどります。お地蔵様の右の坂を登りきると三宿城のあった場所です。台地の先端部分にあたり、現在世田谷区立多聞小学校があります。実際歩いてみると、このあたりどこに砦を構えてもおかしくない戦略的に良い地形であることがわかります。


旧道沿いのお地蔵さん 後ろの道が淡島通り



坂を登ると左に多聞小学校 先の森が「三宿の森緑地」

世田谷区立多聞小学校  あいにく工事中で校庭は見えませんが、土塁があった、と
見られていますが遺構は発見されていません。

ここにあった多聞寺は勝国寺の末寺であったことから吉良氏との関係がうかがわれます。詳細は不明ですが、三宿城が世田谷城の支城だったとみられる所以です。現在寺はなくなっていて、三宿神社の隣に墓地だけ残っています。

台地の突端にあって三方は崖、尾根続きの背後を掘り切ってしまえば防備は万全。立派な城になります。見晴らしは申し分なく、現在の渋谷周辺まで見渡せます。世田谷城の東を抑えるのに理想的な立地です。

崖の下で北沢川と烏山川が合流して目黒川になり、現在の「池尻」の地名が示すように往時はおそらく湿地が広がっていたことでしょう。
東 渋谷方面

南 池尻方面

北 駒場方面
左の工事現場が多聞小学校 
道路の向う、車が止まっているところが「三宿の森緑地」。 砦はどちらに?

(00:33)城はここだ!

私が城主なら多聞小学校より世田谷区立「三宿の森緑地」に主要な曲輪を配置するでしょう。いきなり築城を命じたくなるほど城にはピッタリの地形です。多聞小学校より数メートル高いところがいいですね。(世田谷城を出発してここまで歩いた時間の積算が33分でした。)

公園に足を踏み入れるなり、中世の山城の匂いが漂うではありませんか。公園が曲輪に見えてきます。 ここにあったかもしれない砦なり城の姿が目に浮かびます。

公園の案内図が縄張り図に見えてきてコマッタ。

土塁だったら・・・とても自然。

公園の入口は虎口、土塁の上に木が?


曲輪の周囲に土塁?


公園は石積みの崖の上  ここは一段下がった場所の三宿神社ですが、
曲輪を思い浮かべませんか?
 
空堀が・・・

左が公園 右側の尾根を断ち切る道路(空堀?)  前方は池尻
昭和の初めには個人の所有する広大な宅地でしたが、戦後は国有地になりしばらく前まで法務省の研修所として使われていました。戦前の所有者の残した庭園遺構があちこちに残ることで、山城らしい雰囲気を醸し出しているのかもしれません。

心憎いほど手入れが行き届いた広々とした空間を見て、一瞬時間のバランスを失ってしまったようです。城の遺構はありません。すべて私の空想の中のお話。自然に空想がわいてくるような立地、地形です。土塁はなくなっても地形は残りますから・・・。

遺構はなくても、この公園の特異な表情のおかげで具体的に城跡を感じることができました。

世田谷城からまっすぐ起伏のない平板な尾根道なので、東から来る敵はまずここで叩かなければならない!きっと重要な出城だったに違いありません。世田谷城からここまで徒歩で33分しかかかりませんでした。緊密な連絡に支障はないでしょう。

世田谷城は合戦がほとんどなかった、と言われますが、城としての形態、備えはしっかり「戦国」していた・・・みたいですね。 (つづく)

2013年11月28日木曜日

世田谷城散歩(2) まわりは寺と砦

世田谷城に遺構はあまり残っていません。世田谷線上町駅から歩いて3分くらいの世田谷城址公園はエセ石垣に騙されて本来の姿を失っていますが、じっくり見ると立派な土塁や空堀の姿が、ホラ見えてくるでしょ、不思議です。城址公園の石垣は土留めと城のイメージに合うので追加したのでしょうが、往時は土を盛っただけだったはずです。


世田谷城祉公園


公園に設置された案内板 北の広い敷地は豪徳寺

公園とその背後、土塁の残る部分です。 濃いグリーンは現存する土塁
城域を取り囲む細かい二重の点線は烏山川

公園をじっくり見て案内版を読めば「ああ、お城だったのだ。」と納得できるかもしれません。後ろに続く私有地に残る土塁や空堀はしっかり中世の城の面影を残しています。

豪徳寺の参道入り口の門をくぐり、山門に向って右側を注意して見ると、コンクリート塀の向うに土塁の頭が見えます。左側にも同じ土塁があったと思いますが、今はありません。右側の塀が終わったあたりで振り返ると土塁がしっかり観察できます。現在の参道は当時は空堀だったろうと見られています。土塁と合わせると高さは数メートルを超す規模です。

左奥に見えるのが豪徳寺山門 右の塀のむこうに土塁が見えています。

赤線の塀は2メートル。その上にさらに5,60センチ土塁が見えています。
3メートルぐらいの土塁だったのでしょうか。手前の空堀を加えるとその倍ぐらいでしょうか。


塀が途切れた場所から振り返ると土塁の大きさがわかります。


少し先の空地の反対側にも土塁がよく見えたのですが、久しぶりに行ってみると土盛がしてあってよく見えなくなっていました。何か建物が建つのでしょうか、残念です。建物が建つと土塁はすっかり見えなくなってしまいますね。

宅地跡の土塁が道路から見えていました。
豪徳寺参道横の土塁の対面です。

改築で建物を壊したばかりの家の庭です。土塁の高さは3メートル近いですね。


世田谷城の縄張り、城のなりたちは1979年世田谷区教育員会が出した『世田谷の中世城塞』を参考にしました。情報が極めて少ないため、城の全体像はよくわかっていません。発掘調査はこれまで豪徳寺の敷地を含め7回行われていますが、2005年に行われたのが最後で、今後の予定もありません。

豪徳寺の正門から西に一本の道が出ていて、今は暗渠になった烏山川をこえると目の前に勝光院の森が見えます。実に近い。300メートルぐらい離れているでしょうか。目と鼻の先、ほとんど城の中といってもよいくらいです。

勝光院は14世紀、初代世田谷吉良氏、治家(はるいえ)の創建と伝えられています。広い。うっそうとした竹林が残っていますが、敵が近寄りがたくするように竹を植えた名残でしょうか。「竹の上」にもこのような竹林が広がっていたことでしょう。
先の森が勝光院  ここから参道だったのでしょうか。

豪徳寺の半分近い広さ

やや高台

左が本堂

ここだけ音が抜けたように静かです。

勝光院の北、300メートルほど行くと世田谷八幡があり、これも広い。大きな曲輪が3つぐらい楽に作れそうな広さです。近くの町内の神社にはない大きさに、まず目を見張りました。

世田谷線宮の坂駅をはさんで見える豪徳寺の森
呼べば聞こえる距離?



「宮の坂」の元になった坂 拡張整備される前はもっと険しかったそうです。
ちょうどいい広さの曲輪を利用した?

土塁があったのでは?

すぐ横に空堀を掘れば・・・いつでも砦
この段差、気になりますね。

世田谷八幡も吉良氏の創建と伝えられ、城の弱点と言われた西側を守るため緊急時には城の役目を担った、とみられています。この先さらに300メートルほど行ったところにある常徳院も滝坂道に面してして、「いざ」という時を考えた、とみられています。

常徳院
 


ここまでの寺は城の西側を守っていますが、東にある勝国寺からは城がよく見えると同時に崖の上にあるので守りやすく、見張りの役にはうってつけの位置にあります。

勝国寺
コンクリート壁の上が勝国寺の墓地 下は烏山川の暗渠
 
勝国寺から見える豪徳寺の森 家がない頃はもっとよく見えたでしょう。



このほかにも赤堤砦(現 善性寺)、弦巻砦(弦巻神社近くのドングリ山)などの名前が伝えられていますが遺構は一切残っていません。しかも崖の上にある勝国寺以外はいずれも城郭とするには平坦で、やや周辺よりすこし高めかな、という程度。防御に特に有利な地形には見えません。見晴らしがきく、といった程度です。

主要な城域がやや狭い分、周りの砦や寺が緊急時に補うことで全体として城の機能を維持したのでしょうか。緊急時の城、というより分散した城なのかもしれません。私の勝手な想像ですが・・・。

ちょっと離れた三宿城はどんな場所でしょうか?滝坂道を東に向かってみましょう。(つづく)