三宿城は国道246号線沿い、地下鉄田園都市線「池尻大橋駅」から近い高台にあります。城か砦があったと言い伝えられていますが遺構はありません。言い伝えだけで確証はありませんが、「世田谷の中世城塞」は明治42年測量の地図に土塁跡を示す記号があるので「あった」と推測しています。現在の多聞小学校の建つあたりです。城内に多聞寺という名の寺があったため多聞寺城(砦)とも呼ばれています。
赤で囲った世田谷城から濃いブルーで囲った三宿城まで黄色の滝坂道を右に行きます。 両側を流れる北沢川(北)と烏山川(南)は淡いブルー |
滝坂道を東へ江戸に向かうと、左に北沢川、右に烏山川を見ながら尾根伝いを行きます。
(00:16)環状七号線までは昔のままのくねくね道が続きますが、道は環七に中断され、向う側に続くのが見えています。環七を渡りながら、川に向かって土地が下っているのが道路の起伏で読み取れます。二つの川に向かって土地が下がり、川から再び上って行く形がよく見えます。
曲がりくねる古道で車がすれ違うのは大変です。 |
滝坂道を環状七号線が横断しています。 |
環状七号線 滝坂道から南に流れる烏山川(暗渠) |
環七の北を流れる北沢川(この部分は暗渠) |
環七を超えると間もなく淡島通りと合流して、滝坂道は一気に21世紀の喧噪に包まれます。
現在の淡島通り。道はやっぱり曲がりくねっています。 |
鎌倉道と伝えられる場所は実はいくつかあって、確実な経路は分かっていないようです。だたこの辺りを通っていたことは間違いないと見られていて、現在の環七の場所にあった「堀之内道」が鎌倉道だった、とみる人もいます。
このクネクネ感はやはり古道 |
鎌倉橋 |
北沢川は下北沢駅周辺の一区間だけ、水を浄化して緑地を形成しています。 かつてもこんなに綺麗だった、という意味ではありません。 |
道はひとつだけとは限りません。時代とともに変わることもあるでしょう。確実に「これだ!」とは言えないものかもしれません。ただ、どうも川辺よりも高台を通っていたようですね。世田谷城の南を行く津久井往還も高い場所を通っています。当時の道は低地をさけたのでしょうか。水がつくと怖いから。
室町幕府があったころの世田谷城は鎌倉との結びつきがつよく、鎌倉中道がそばを通っていました。小田原北条氏の傘下に入ると小田原や、江戸城との結びつきが重要になったために現在の代官屋敷前の通りが開発されて『新宿』と呼ばれるようになりました。人と物資の流れが変わっても交通の要所を抑える、という世田谷城の重要性は変わらなかったのですね。
黄色が北沢川と烏山川 橙色が滝坂道 赤いカギ印は土塁跡 土塁の左にある道路を隔てて「三宿の森緑地」と三宿神社 |
(00:31)やがてその淡島通りが北沢川と交差するところで旧道にもどります。お地蔵様の右の坂を登りきると三宿城のあった場所です。台地の先端部分にあたり、現在世田谷区立多聞小学校があります。実際歩いてみると、このあたりどこに砦を構えてもおかしくない戦略的に良い地形であることがわかります。
旧道沿いのお地蔵さん 後ろの道が淡島通り |
坂を登ると左に多聞小学校 先の森が「三宿の森緑地」 |
世田谷区立多聞小学校 あいにく工事中で校庭は見えませんが、土塁があった、と 見られていますが遺構は発見されていません。 |
台地の突端にあって三方は崖、尾根続きの背後を掘り切ってしまえば防備は万全。立派な城になります。見晴らしは申し分なく、現在の渋谷周辺まで見渡せます。世田谷城の東を抑えるのに理想的な立地です。
崖の下で北沢川と烏山川が合流して目黒川になり、現在の「池尻」の地名が示すように往時はおそらく湿地が広がっていたことでしょう。
東 渋谷方面 |
南 池尻方面 |
北 駒場方面 |
左の工事現場が多聞小学校 道路の向う、車が止まっているところが「三宿の森緑地」。 砦はどちらに? |
(00:33)城はここだ!
私が城主なら多聞小学校より世田谷区立「三宿の森緑地」に主要な曲輪を配置するでしょう。いきなり築城を命じたくなるほど城にはピッタリの地形です。多聞小学校より数メートル高いところがいいですね。(世田谷城を出発してここまで歩いた時間の積算が33分でした。)
公園に足を踏み入れるなり、中世の山城の匂いが漂うではありませんか。公園が曲輪に見えてきます。 ここにあったかもしれない砦なり城の姿が目に浮かびます。
公園の案内図が縄張り図に見えてきてコマッタ。 |
土塁だったら・・・とても自然。 |
公園の入口は虎口、土塁の上に木が? |
曲輪の周囲に土塁? |
公園は石積みの崖の上 ここは一段下がった場所の三宿神社ですが、 曲輪を思い浮かべませんか? |
空堀が・・・ |
左が公園 右側の尾根を断ち切る道路(空堀?) 前方は池尻 |
心憎いほど手入れが行き届いた広々とした空間を見て、一瞬時間のバランスを失ってしまったようです。城の遺構はありません。すべて私の空想の中のお話。自然に空想がわいてくるような立地、地形です。土塁はなくなっても地形は残りますから・・・。
遺構はなくても、この公園の特異な表情のおかげで具体的に城跡を感じることができました。
世田谷城からまっすぐ起伏のない平板な尾根道なので、東から来る敵はまずここで叩かなければならない!きっと重要な出城だったに違いありません。世田谷城からここまで徒歩で33分しかかかりませんでした。緊密な連絡に支障はないでしょう。
世田谷城は合戦がほとんどなかった、と言われますが、城としての形態、備えはしっかり「戦国」していた・・・みたいですね。 (つづく)
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