11月4日(火)
鳥取県若桜(わかさ)町は鳥取市を出て国道29号線(鳥取市~姫路市)を南下すること40分ぐらい。街の真ん中を道が一直線に走り、両側に家が立ち並ぶ様子は、いかにも街道の宿場町らしい風情がある。若桜鬼が城はこの街を見下ろす小高い山にある。歩いて登る道はいくつかあるそうだが、林道を使うと曲輪の近くまで車でも行ける。街を抜け、勾配を登れば10分ぐらいだろうか。
鶴尾山(標高452メートル、比高252メートル)の頂上部に曲輪が広がっている。山の傾斜はハイキングコースのようできつくない。有子山城や鳥取城の山頂部に登るのはカモシカぐらいだろうが、ここなら馬も登れそうだ。
「馬場」と呼ばれる細長い広場を過ぎると堀切を越え、石垣が見えてくる。「馬場」があるならやはり馬は登って来たのだろう。
城址の石垣がすぐ目の前に見えているのに柵がしてあって入り口が見えない。柵は城の周りを取り囲んでいるようで、この後も歩きながら何度か目にすることになる。電流が通っていると書いてある。シカの侵入を防ぐためだりyじゃ。慎重にフックを外してなんとか中に入ったものの、緊張しました。触れたところで動物を驚かすくらいの電圧にすぎないだろうと思ってはいても、やはりビリビリ感じるのは嫌なもの。「間抜けな観光客シカよけ電線に触れ失神」などと地元の新聞に書かれるのもゴメンです。
いつものように先ずは一人であちこち歩き回り、主郭、櫓台、二の曲輪、三の曲輪、大手は、虎口は?と我流の縄張り図を頭で組み立ててから案内板で確認する。大まかなところは間違っていないようだ。石垣は崩落が激しいのか、意識的にこわした結果なのか、崩れた石の量が普通より多い。かなりたくさんある。ロープをはって立ち入り出来なくしてある部分がかなり多いのは、すぐ横が急な崖だからだろうか。
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搦め手 |
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崩れたか、壊された石垣があちこちに |
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現地の案内板 |
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二の曲輪から見た主郭 |
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こんな風に折れています |
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主郭の南側の奥に天守台 |
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東側に建物の礎石 |
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天守台から見下ろしたホウヅキ段 |
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天守台に登る段 |
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二の曲輪から見下ろす三の曲輪 右の石垣は大手虎口 |
それでも後方に櫓台を置いた主郭、主郭への虎口、その前面に広がる二の曲輪、三の曲輪、といわゆる連格式に連なる曲輪の配置は明確に分かった。櫓台の背(南)以外の三面はすべて崖になっていて北側の崖の上に立つと眼下に若桜の街と道路が箱庭を見るように望める。北から南へ一直線に伸びる道路は現代の国道29号線で、かつての若桜街道であり、因幡街道に続く。 但馬竹田城から竹田の街を見たときとよく似た風景が広がっている。
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三の曲輪から見える鳥取市(北)の方角 若桜の城下 |
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左は南東、但馬へ 右は南、播磨(姫路)へ向かう道 |
若桜鬼が城は長く国人領主矢部氏16代が拠点とした。記録に初見は1200年という。戦国時代は尼子、毛利、織田が因幡の制覇を巡って繰り返した激しい攻防戦の舞台となった。やがて羽柴秀吉が因幡を制定。城には秀吉の家臣で信任厚い木下重堅(しげかた)が2万石で入った。現在の城の基礎はこの時に作られたと見られている。石垣が築かれ、城下が作られた。
やがて秀吉時代が終わり、関ケ原の戦いのあと、山崎家盛(いえもり)が入城する。家康の時代は息子の山崎家治と2代にわたって城と城下の整備が行われた。しかし慶長20年(1615年)の一国一城令によって因幡は鳥取城の管轄となった。若桜鬼が城は廃城となり、城としての時は停止した。
石垣の荒廃が激しいと聞いて、崩れないうちに見ておきたいと、やって来た。石垣は崩れたのか崩したのわかりません。崩れているのは確かだけど時間とともに荒廃が進むとも言い切れないようにも見える。これ以上崩れるとただの石の山になりそうな気配。
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大手虎口 |
大手虎口はよく残っている。その虎口が向かう南側は崩落が激しいのか歩いて回れなくなっている。反面北側の通路は総石垣の城であることをよく見せていて、歩いても歩いても飽きることがない。さらに北側へ続く尾根が見えるが、草が多くて入れない。
この辺りの石垣は高石垣ではなく、2段、ひょっとして3段に分かれているように思える。
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城の北側 |
国の遺跡だからといって特別な通路をつけたり、手すりを備えたり、ベンチがあったりというサービスが全くないのが嬉しい。自然の中にあるのが何よりいい。国史跡になると急に手を入れるケースが多いなかで得難い城です。
400年以上経た城跡に立ち、城としての時間が止まったあと時間と自然に淘汰された石垣の姿、眼下の人々の生活の営み、周りの山々を晴天の中で眺めているとしばし去りがたい思いに駆られる。この城と有子山城とはどこが違うのだろう。さっきまでいた鳥取城の山頂部分とはどこがちがうのか・・・。
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草におおわれているけど総石垣 |
石垣には顔がある。見よい顔とそうでない顔がある。なによりも好きな顔と嫌いな顔がある。
石の種類、色、大きさ、苔のつき方などからおのずとそこに表情が現れるのだ。江戸時代の綺麗にカットされた石の積み重ねは美しいが、惹かれない。自分でもよくわからないのだが、ひょっとしてきれいにカットされた石は素材として石を使っているだけで見た目はもう石ではないからではないだろうか。戦国期の石垣は石を積み上げた姿、石そのもの、積まれ方が美しいのであって、石が素材となってしまったらコンクリ―トと同じなのだ。
チリのクスコにあるというインカ時代の壁で、表面をきれいにカットされた石を、紙すら入らないくらい隙間なく積み上げられたものを映像で見たことがある。その技に感心し、驚くけど魅入る美しさはなかった。理由は同じ。きれいにカットされた石はもうコンクリート塊と同じにしか見えなかったのだ。
時間がかかったけど石積みに惹かれる理由が自分なりに見えてきた。自然の石とその積み方、姿に惹かれるのであって、石材になってしまったものには関心がない。野面積みや打ち込みはぎには惹かれるが、きれいにカットされた切り込みはぎになると興味が薄れる理由がわかった。晴れ渡ったこの日の空のようにすっきりした。若桜の城は美しい。
さて、次はどこに足を向けようか。
(歴史的な経過は現地案内板の説明と若桜町のHPに依りました。)