11月8日(土) 治部少輔に過ぎたる城
佐和山城祉へは麓の龍潭寺(りょうたんじ)から登るように整備されている。ボランティアガイドさんも常時二人待機しているところを見ると訪れる人は少なくないと見える。登る途中で一組すれ違い、主郭に着いて一組の訪問客に会った。それなりの人気は維持されているようだ。
石田三成の居城として知られているが、関ケ原の戦いの後徳川家康は井伊直政を佐和山城に送り込んだ。しかし直政は佐和山城を嫌い、新しい城を模索するが死去、家臣らの手で彦根城移転が成った。この二つの城はいうなればセットになっているが、彦根城の派手さと対照的に佐和山城は目立たない。三成に過ぎたるもの、と言われた豪壮な城も名前だけが一人歩きしている。
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搦め手方面で見つけた堀切 |
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主郭 |
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反対側から見た主郭 |
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搦め手に向かう「西の丸」 |
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発掘中 瓦が多数出ているという |
たしかに何もない。一説には佐和山城から彦根城に移る際に建物はもちろん石垣まですっかり持ち去った、とも言われるがそれだけの理由だろうか?石ははじめから少なかったのではないか、と想像する。
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天守台石垣の石と言われるがこれしか残っていない |
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主郭から大手に向かう坂 |
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主郭のすぐ下にある水場「千貫井」 水は手前に少し見えた |
曲輪も想像したより狭い。息をのむほど見事なのは主郭からの琵琶湖の眺め。今は彦根市外と彦根城を眼下に収め、対岸の山並みを背景にするパノラマはまさに絵のよう。戦(いくさ)にはふさわしくない。
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佐和山城から見た彦根城と琵琶湖 |
佐和山城は実は琵琶湖に向いた城ではない。
大手は反対側の鳥居本にある。現在は近江鉄道の鳥居本駅というかわいい駅があるだけの静かな町だ。案内書には「土塁」が描かれているので見たい、と思ってそちらに向かった。しかし・・・残ってはいますが、ほとんど判別できません。
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大手門跡の案内板 |
観光案内図にしたがって車を走らせても土塁らしきものが見えない。そのうち農道に入り込んでしまて、Uターンすらむずかしい迷路にはまり込んでしまった。
近くに作業中の男性に尋ねると土塁はほとんど消滅していて、大手跡と言われる個所にかろうじて残っている、という。そちらに向かったが、大変な想像力を駆使しないと何も見えません。それでもその男性の言葉によると4,5年前まではバスでやって来る熱心な観光客も多かった、とか。根強い石田三成ファンがいるようです。
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かつての内堀 右手にあった土塁は取り壊されてしまった |
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かつての大手道と侍屋敷から望む佐和山城祉 |
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わずかに見える土塁の一部 手前は内堀 |
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大手門跡 土塁が枡形に見えますが・・・ |
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唯一城郭らしさを感じさせる土塁 |
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草がなければ左手の土塁はもっと見えるかもしれない |
案内書に侍屋敷、登城道と記してあるところはまったく過去の話で、今はきれいな田畑。兵(つわもの)どもが夢の跡というより、幼いころの昆虫取りにふさわしい。内堀、外堀もかなり最近まで残っていたようですが、さすがに現在はコンクリートで補強されて「堀」の面影はいっさい消滅。
大手門から主郭までの道もはるか昔のことであって、今もあることはありますが、通る人がだんだん減るうちに草におおわれて誰も使わなくなった、という。石田三成憎し、の怨念のせいでしょうか。
大手口は北國街道と中山道に面していて、交通の便は抜群だったようだ。現在は国道8号線をびゅんびゅん飛ばす車が場外れに思えるほどの農村地帯になっている。この城は時が停止しただけでなく、別の世界に入り込んでしまったようだ。
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