11月8日(土)
彦根城に来たのは「登り石垣」を見るためです。作事も普請も見ごたえのある城だから、ついあれもこれも見てみたい衝動に駆られるけどガマン。目的を一つに絞ったほうが効果的な城攻めになると思う。初めて来たわけでもないし、また来るだろうから。
登り石垣というのはは豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄慶長の役1592~1598))の際、現在の韓国プサン市周辺を中心に築かれた「倭城」に多用されている石塁で、加藤清正のソセンポ(西生浦)倭城や小西行長のウンチョン(熊川)倭城の巨大な石垣が知られている。他の倭城にも、実は、規模は小さいけどあります。
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韓国蔚山市 ウルサン倭城の登り石垣 平成25年12月撮影 |
韓国に残る登り石垣はいろいろ見ましたが、日本で見るのは初めてです。
彦根城には5つの登り石垣が確認されています。入り口を入ってすぐ左手を見上げるとまず一つ。短いけど幅の厚い石垣が斜面を登るのが良く見えます。下から見上げるので長さは掴めませんが、50メートルぐらいでしょうか。横に走る空堀もはっきりわかります。
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「開国記念館」に展示中の彦根城ジオラマ 下の写真の位置 |
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鐘の丸から表門に向かう |
登り石垣は「朝鮮の影響」とみられていて彦根城の案内でもそのように書いてある。しかし最近かならずしもそうではない、とする説も出てきているようで研究が進むことを願いたい。井伊家からは誰も朝鮮の役に参陣していませんが(徳川家康は渡海せず名護屋城詰め)、後で井伊家に仕官することになった人物で渡航歴のある人がいるようです。関連が指摘されてはいるものの史実として認められるには至っていないようです。
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鐘の丸から大手門に向かう |
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上の石垣を反対側から撮ったもの |
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西の丸端の堀切 木の後ろに石垣、よこの竪堀が少し見える |
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彦根城ジオラマ 西の丸三重櫓の真下 下の写真 |
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西の丸三重櫓の真下 |
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彦根城ジオラマ 下の写真の位置 |
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本郭 隅櫓の下 |
朝鮮の影響とはいえ、朝鮮の山城に登り石垣が多用されている、という意味ではないようです。朝鮮の城を多数見たわけではないので、よく分かりませんが少なくともソセンポ倭城やウンチョン倭城のように斜面をぐいぐい登る石垣は見たことがありません。あくまで倭城とセットで見られるものと理解しています。
彦根城で見た登り石垣は倭城の登り石垣とまったく同じでした。ただ彦根城は斜面を横に移動するのを遮断する目的ですが、朝鮮半島の場合は登り石垣によって「内」と「外」を厳密に分けて外から内への侵入を遮断しているところが違います。彦根城の場合は横の移動を遮断することで城に取り付いた敵の移動を制限しますが、敵の侵入の遮断まで想定してしていません。しかも距離が短い。どの程度の効果が期待したのか、わかりません。
朝鮮半島ではほとんど、ほぼ例外なく山頂の曲輪から麓の港までを囲う形をしています。山頂を人間の頭とするなら両手を広げた形で、山頂の曲輪と港を含めた城の内と外を分ける役目をしているのです。朝鮮半島でおそらくは大きな効果があったから、その遮断する力を日本でも応用したのではないでしょうか。
朝鮮半島の場合は、遮断する力と同時に境界線を明確にする目的もあったでしょう。朝鮮半島の少なくともプサン市周辺の山は険しくありません。山城に必要な「険しさ」を補う「遮断力」が必要だったのではないでしょうか。
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左の石垣の上に西の丸三重櫓 前方は登り石垣 |
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天秤櫓 |
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佐和山城 |
そんな想像をしながら五つの石垣をすべて見て回りました。残念ながら5つの石垣すべてを細かく見られたわけではありません。近寄れない場所もあります。機会があれば再度もっと近くから観察してみたいところです。
彦根城は人気の観光地で、大変な数の観光客を受け入れています。自由に足を踏み入れることは当然のことながらできません。近くの山城をぶらつくのとは大いに異なります。
しかしまったく倭城と同じ形をしており、おそらくは同じ目的であったであろう、と実感できただけで満足でした。思ったより早く彦根城の探索が終わったのですぐ近くに見える佐和山城にも足を延ばすことにした。
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