じわじわと関心の高まる三好長慶。その居城であった大阪府高槻市の芥川山城も脚光を浴びています。大阪にあって遺構をよく残す山城らしい山城、として評価は以前から高かったのですが、”天下人”三好長慶への関心が高まるにつれて訪れる人も増えているようです。
京都と大阪を結ぶ「西国街道」が麓を通っている。古くは山陽道と呼ばれ、京と大宰府を結び、淀川と並んで地域の政治、経済に重要な役割を果たした幹線道路だ。
現在のJR京都線高槻駅北口から市営バスでおよそ20分のところあるバス亭「塚脇」が登城のスタート地点です。塚脇バス停には芥川山城に関する詳細な案内板が設置されているので、その案内に従って歩けば城跡にたどり着けます。
バス亭「塚脇」 道路を渡って左前方20メートルぐらいで右折 |
高槻駅構内にある観光案内書でもパンフレットがもらえる。私はここで入手した縄張り図(下に添付)を手に城跡を回りました。バスに乗る前に、寄ってみてはいかがでしょう。
北、西、南の三方を芥川がめぐる三好山(182.69M)の頂上に主郭を置いた芥川山城は、三方を急峻な崖で囲まれた防御しやすい地形に位置しています。東西に約500メートル、南北に約400メートルの地域に広がっていて、摂津、丹波の守護細川高国が永正13年(1516年)までに築城したのが始まり、とされています。
城跡を取り囲むように流れる芥川が形成する渓谷は、「摂津峡」の名で知られる景勝地です。縦横に走るハイキングコースをたどって自然に親しむ人が季節を問わず訪れる場所でもあります。
塚脇の住宅地を10分ぐらい歩くと、あたりは静かな里の風景に一変し、さらに10分くらい緩い登り勾配を歩くと三好山(頂に芥川山城)への分岐点にたどり着きます。バス停からおよそ20~30分ぐらいでした。
分岐点を三好山方面に歩き出すと、この辺りはすでに城跡に入っていて、周りに曲輪と思われる削平地が見えてきます。作業をする人にも何人か出会いました。城跡は私有地だと聞いていたので邪魔にならないよう注意しながら進みます。
右(東側)から点線に沿って主郭を目指した。主郭は①と②、発掘調査は③ |
山道は曲輪の間を縫うように進みますが、歩き始めて4,5分ぐらいたったころでしょうか、左手に表面が崩れた土塁が現れます。山の斜面に沿って勾配を上り下りする「縦土塁」と呼ばれる形で、斜面を横方向に敵が移動するのを遮断しようとするものです。「芥川山城ではここにしかない」と説明のついた表示が立っていました。現在は時間の経過とともに表面の土壌が削られてしまったせいか、威圧的な高さもなく、小さく見えて見落としそうです。
左から右前方に下る縦土塁 |
心温まる手作りの案内表示 |
大手門 石垣は2段構だったのかな? |
石は垂直に積まれていて、時代的に少し下る織田信長の城の石垣とは明らかに異なる印象を受けます。視覚に訴える効果はあったと思いますが、土留めが主要な目的だったのでは?
ここから主郭までは近い。主郭の周りは多くの曲輪が取り囲んでいるが、現在、その一つ、南側の帯曲輪で発掘調査が行われていて、姿を現した敷石と思われる石の並びが主郭から覗けます。
そういえば塚脇からここまで、なだらかな傾斜はあっても、楽しいハイキング気分でたどり着いた感じがする。城の東側は防御が難しかったかもしれない。
主郭周辺で見た土橋 |
堀切 |
三好長慶がこの城にあったのは1560年(永禄3年)までの7年間であり、地元ゆかりの松永久秀らを重用しながら足利将軍家を擁立せずに畿内一円を支配したことで知られる。「織田信長に先駆けた天下人」と見なされたのがこの時期であり、この城が当時の政権の中枢、政治の舞台であり、文化交流の場であったのです。
しかし1560年、三好長慶は長男義興に家督を譲って河内飯盛山に住まいを移しました。理由か分かりませんが、芥川山城とどこが違うか比べて見たくなりました。飯盛城に移ってからも三好長慶の「天下人」としての活動は続きます。
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