2020年12月29日火曜日

広大な居館跡 平林城

戦国時代の城といえば山城、特に山頂に近い部分に造られた砦や詰めの城、といった実戦を目的に造られた部分にどうしても関心が集まります。それにひきかえ平地に近いところに設けられた領主の居住空間は残っていない場合が多い。ところが平林城(新潟県村上市)には、山頂近くの山城と共に平地の遺構が良好に残っている。しかも規模がけた外れに大きい、というので行ってきました新潟県。

甲信越、関東における上杉謙信の活躍はよく知られていますが、謙信ひとりの力によるものではなく、謙信を支え、実戦の力となった地元勢力を忘れることはできません。越後の新発田氏、本庄氏、色部氏等の名が挙げられますが、いずれも阿賀野川の北に位置することから揚北衆(あがきたしゅう)と呼ばれた人たちです。平林城は、本庄氏とともに現在の村上市を中心に活躍した国人領主色部(いろべ)氏が拠った城郭です。

村上市の南およそ10キロ、上越の春日山城の北に200 キロ近く離れた場所にある。新潟市からJR羽越本線でおよそ1時間、村上市からは10分の無人駅「平林」で降りて歩くこと20~30分。単調な里の景色にそろそろ疲れてきたころ、山城を抱く要害山の頂がまず目に入り、やがて周辺の田畑から一段と高い居館部分が見えて来る。

竹林城遠景


案内パンフ





広めの駐車場にはトイレと案内所が併設されている。縄張り図や色部氏略歴、これまでの発掘の成果等を記したパンフレットが置いてあるので、忘れずに。遠くからはやや高めの台地にしか見えなかった居館部だが、近づくと見上げるほど高い。7,8メートルはありそうな切岸がまるで威圧するように聳え立つ。

西側側面の切岸


居館跡は「岩舘」「中曲輪」「殿屋敷」と大きく3つの区域に分かれている。「岩舘」は東西200メートル、南北90メートルといちばん大きく、中はさらにいくつかに分かれていることから家臣の宅地だった可能性もあります。一面に木々が繁茂していて遠くまではちょっと見にくいのですが、地表面の凹凸は少ないようで、木さえなければまるで運動場に立っているような気がする。周りを固める土塁の高さが目につく。

案内所で入手したパンフ「平林城跡」に掲載された縄張り図


縄張り図によると周囲は川と水堀に囲まれていたようだが、川は常時水があふれていたのではなく、雪解けや雨後以外は流れも小さく、辺り一帯は湿地帯だったらしい。現在も見たところ水流は少なそうだ。

「岩舘」から「中曲輪」に向かって歩いている時、左の崖下に大きな虎口が見えるではないですか。幅広の通路がせり上がりながらクランクする様子は絵にかいたような枡形虎口。一瞬自然の地形か、とも思いましたが案内パンフには「人が歩くところには石が敷かれ、その脇から排水のための溝が発見」と書いてあるのをみると、やはり人の手による虎口なのですね。土の城でこれだけ大きく、しかもはっきりと形の分る虎口は初めて見ました。弁天虎口と表記されている。
弁天虎口  後方は「中曲輪」


弁天虎口を登ると「中曲輪」で、縦横80メートルの正方形に近い形をしている。現在発掘調査が行われていると見えて、ちょうど数人が作業をしているところに遭遇しました。それまでクマよけの鈴をチリン、チリン鳴らしながら歩いていたのですが、これだけの人がいるのなら、クマも出てこないだろう、と鈴をリュックに引っ込めました。さぞうるさかったでしょう、すみません。駐車場に数台の車が止めてあったのは、発掘作業を担当する人たちの車だったのですね。これだけ見学に来る人がいるとは、ずいぶん人気のある城跡だなあ、と思っていました。

「中曲輪」で進行中の発掘調査





 発掘調査は昭和49年に初めて行われた後、平成11年から10回続けられているそうです。いろんな発見があった中で興味を引かれたのは「岩舘」の西の端、北虎口から東虎口に至る城内道が見つかったことです。しかも幅は6メートルもあって土塁または側溝で区画されていたとのこと。敷地が広いから通路を必要としたのでしょうか。あるいは大手道だった?      

この城内道が行き着く「東虎口」横の崖下が弁天虎口ですが、虎口がふたつ並んだ様は城と言いうより御殿を想像してしまいます。巨大な弁天虎口を入るとすぐ先は殿屋敷への虎口へと続きます。国人領主様のお屋敷、ご主殿を擁する重要な曲輪です。さらにその反対側には「岩舘」に通じる東虎口。主要なアクセスルートを束ねる「中曲輪」は、戦術的にきわめて重要な曲輪だったのでしょうね。

弁天虎口が殿屋敷に近いのがやや意外に思われますが、まだまだ新しい発見で見方が変わるかもしれません。

「中曲輪」に接する3つの虎口の位置


「殿屋敷」は東西におよそ90メートル、南北におよそ150メートルの長めの三角形をしていて、北を流れる滝矢川とは急峻な切岸で、東側は山城へと連なる傾斜を堀と土塁で押さえています。この掘は、今見ると空堀のようですが、かつては水堀だったようです。この堀と土塁は中曲輪にも続いていて、居館部と山を区分する境界線だったことが分かります。堀底は薬研堀でした。




「殿屋敷」から「中曲輪」へ南北に走る堀(左)と土塁(右)

「殿屋敷」



「殿屋敷」ではこれまでの発掘調査で3つの掘立柱建物跡が見つかっていて、いちばん大きな25.3m x 26.00m、床面積658㎡のものが色部氏の主殿と見られています。



この「殿屋敷」と「中曲輪」は殿堀と呼ばれる堀でしっかりと分離されています。堀底は箱堀でした。「殿屋敷」への表虎口には橋が架かっていたとみられ、門の礎石と橋脚の他、河原石を並べた石組排水溝も見つかっているそうです。

殿堀を挟んで左が「殿屋敷」 右「中曲輪」

発掘されたものはすべて埋め戻されるので現在目にすることはできませんが、居館跡を歩きながら何よりもその広さに驚かされました。高い土塁に取り囲まれているだけでなく、周囲は川と湿地帯、さらに高い切岸で防御されていて、後ろの山城にこもらなくても充分この場所でも攻撃に耐えられるのではないか、と考えてしまいます。

「岩舘」の段差 いちばん奥は岩舘土塁

平林城の最晩年、慶長2年(1595年)に描かれた「越後国瀬浪郡絵図」には平林城の背後に「加護山古城」と記されていることから当時山城部分はすでに使用されていなかった可能性があります。ちなみに山城部分は居館跡から40分ほどかかる距離にあります。かなり離れています。

山上の「詰めの城」跡を見たい方は十分な時間を考えてお出かけください。居館部からでも往復の時間を含めて2時間半は必要でしょう。冬の夕方は早く暗くなります。私は諦めて、次回に期することにしました。

上杉景勝が会津へ国替になったのにともない、慶長3年(1598年)に当時の当主色部長真(ながざね)は出羽国金山城(現在の山形県南陽市)に移りました。平林城はその後使用されることもなく当時の形を今に伝えていることから、上杉謙信が活躍した時代の国人領主の城跡を知るうえで貴重な資料とみなされ、昭和53年に国史跡に指定されました。

色部氏はその後米沢藩の家老を務め、幕末を迎えています。



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