2013年12月30日月曜日

倭城マラソン(16) キジャン(機張)城

12月11日 (木曜日) 午前    海辺の古城シカぞ住む機張倭城 


きょうは加藤清正が築いたウルサン近郊のソセンポ(西生浦)倭城の見学を予定していますが、途中のキジャン(機張)倭城に寄ることにしました。去年見落とした個所があります。

韓国のJR、KORAILプジョン(釜田)駅9時12分発のムグンファ号で行けばキジャン駅まで30分とかかりません。KORAILは地下鉄プジョン(釜田)駅から徒歩3分ですがソミョン(西面)駅からも歩いて行けます。韓国は列車を利用する人が少ないためでしょうか、これより早く出る列車は無くなってしまいました。

キジャン駅を出て前の道をまっすぐ行くと(2分ぐらいか)交差点があって、右に曲がればバスの停留所。いつも大勢の人が待っているのですぐわかります。そのすぐ後ろがキジャン市場。

この日、朝の気温は0度。バスを待つ間に雪になってきた。「雪景色の倭城が見られる!」と喜んだものの雪は間もなく止み、寒さだけが残りました。バスは6番のコミュニティバスで、倭城のある海辺とキジャンの街を循環しています。チュクソン(竹城)小学校前で下車。
キジャン城 本城(左) 支城(右)

キジャン倭城(本城部分)と登り石垣(ピンク矢印)
①本城 主郭 ②支城 朝鮮式石積み ➂支城 日本式石垣
倭城研究シンポジウムⅡ「倭城」から堀口健弐さんの縄張り図をコピーして使用

登り石垣(左側)と見学者用の階段

キジャン倭城も歴史的価値が認められて遺跡として保護されています。案内板とトイレも設置されていました。昨年もありました。その前はなかったのでここ1,2年の間に整備されたものでしょう。

去年来た時は10月だったのでまだ雑草が伸び放題、遺構はよく見えないし歩きづらかった。来る時期を今年は12月にしたのはそのためです。

周りの木が葉をすべて落としているので、登り石垣の横の削平地がよく見えます。石垣にそって空堀があったのでしょうか。平地は奥にまで続いているのが分かります。バス停からキジャン城を見上げるとまず目につく石垣は主郭と一段下の曲輪を取り巻いているものです。いつ見てもしばし佇んで見入ってしまいます。風格がありますね。

主郭を取り巻く曲輪の海側だけ草が刈ってあって自由に歩けますが、その他の三面は背の高い雑草が枯れたままほったらかしてあるので、服が枝やトゲに絡まって歩きにくい。

せっかく来たのだから、と意地を出して主郭を五分の四まで回り込んで北側の虎口から主郭に入ろうとしましたが、虎口に到達することもできません。直前であきらめて、草刈りのしてある通常の観光コースに戻りました。しかしその間にこれまで目にすることができなかった天守台の裏側が見られたのと、その下に伸びる深い空堀が見られたのは幸いでした。
登り石垣を登り切った個所 左下に削平地 右に大手虎口


大手虎口


真下の曲輪から主郭の石垣を見上げる。

主郭の石垣

天守台側の石垣


さらに回り込むと・・・枯草に阻まれて動けません。

この虎口(北側)から主郭に入ろうとしたのですが・・・。


天守台から主郭を見下ろす。


主郭の背後(西)の曲輪  強硬突破ルート
茶色の矢印は空堀の位置
その空堀は深く急な崖の下





主郭の北 この木までが本城の曲輪 枯木、枯草が邪魔して入れません。
矢印は支城の朝鮮式石積み
空堀は本城と西側の背後をはっきりと分ける境界線になっています。北に位置する支城との間には自然の谷が走っています。本城と支城を合わせて総面積は2600坪と案内板には書いてあります。数字ではよくわかりませんが、北に目をやると支城の石積みが長く伸びているのが見え、大きさが実感できます。

この石積みは朝鮮の鎮城(港を守る軍隊の城)を利用したものですが、その横に日本式の石垣があります。朝鮮式と日本の石垣が共存しているのは珍しいのではないでしょうか。

この部分は史跡に指定されていないのでしょうか、訪れる人はあまりいないようです。昨年は朝鮮式の石積みはじっくりましたが、さらに奥にある日本式遺構までたどり着けませんでした。このあたりだろう、見当をつけて森の中に入るやシカが一頭飛び出したのには驚きました。この一帯は木が茂ってはいるものの、近くの畑では農作業する人も多い。シカが住むほどのどかなのですね。

石垣は枯葉に覆われていて初めは見えませんでした。何もないなぁ、と帰りかけて振り向いたところに石が数個並んで見えたのでひょっとして、とその個所に登ってみると石塁の上に出ました。石塁はちょうどアルファベットの「W」の形に曲がっています。どういう目的だったのでしょうかね。横には深い空堀が並行して走っています。「W」の先は土塁になって朝鮮式石垣の方に伸びているようですが、ビッシリ篠竹に覆われていて中に入れません。確認できませんでした。
朝鮮式の石積み

石垣と並行する空堀(右下)

天端はあまり崩れていないようで意外でした。
石塁を取り巻く空堀がよくわかります。

空堀はそのまま麓まで下っています。


Wの形に屈折している石塁。

石塁に沿って空堀が周りをめぐり、そのまま麓へ下っているのが見えます。空堀と石塁を合わせると高さは7メートルぐらいにはなるでしょうか。この部分は支城とみなされていますが、本城とどのように役割を分担したのでしょうか。

築城は黒田長政。文禄年間に33、000人を動員して作られ、慶長の役には加藤清正も使用したと案内板に書いてありました。

余談ですが、城下の村に樹齢300年と伝わる大きな松の木があって、祠が建っています。韓国、朝鮮の村の中心にはよく大きな木が植わっています。この木も村人が大切にしてきたそんな木なのでしょうか。文禄慶長のころにあった木の2代目かもしれませんね。語り継がれてきた昔話など、聞いていませんか?



昨年のキジャン倭城探索は http://yorimichi2012.blogspot.jp/2012/11/blog-post_4.html

2013年12月29日日曜日

倭城マラソン(15) チャソンデ(子城台)城

12月10日(火曜) 遅めの午後   

 再利用されたチャソンデ(子城台)倭城


プサン倭城に別れを告げ、急な階段をいくつか下って地下鉄チャッチョン(佐川)駅の上の大通りを横切ると、周りより頭ひとつ高い「チャソンデ(子城台)公園」が見えてきます。

平地にあるこの城と山上にあるプサン倭城が対になって使用されたとみられますが、役割は明確ではありません。築城は文禄2年、毛利秀元らによる、とみられています。築城された時は海のすぐそばでしたが、近代になって海岸線が埋め立てられ現在は港からかなり内陸に位置しています。

左上のX印  左がプサン倭城、右がチャソンデ倭城
プサン駅の観光案内所でもらった観光地図

また秀吉軍が撤退した後、朝鮮水軍が引き続き使用しています。九大「倭城祉図」には周囲を石塁に取り巻かれたチャソンデ倭城が描かれていますが、この石塁は今は消滅しています。倭城のものか朝鮮水軍が追加したものか意見は分かれているようです。

現在、この公園を整備して歴史公園に作り替えていますが、倭城ではなく朝鮮水軍の城としてとらえています。また朝鮮王朝が江戸幕府に送った朝鮮通信使がここにあった施設から船出した史実を踏まえて、朝鮮通信使記念館も併設されています。私も覗いてみましたが、まだ新しいせいか人の姿は見えませんでした。ひょっとしてまだ公式にオープンしていないのかもしれません。

朝鮮通信使記念館 左の森はチャソンデ倭城

公園には倭城遺構がそのまま残っているので日本の戦国時代の城の面影は十分に見られます。倭城であったことは案内板に表記されています。

入り口こそどこにでもある公園ですが、しばらく階段を上ると突然日本の石垣が現れます。この虎口と搦め手の虎口は比較的原型をとどめているように思えます。また主郭の内部はすっかり韓国化していますが、まわりの高石垣は信じられないくらい崩壊を免れています。見る価値はあると思います。コンクリートで固めたところは・・・ちょっと目をつむりましょう。


北側の虎口
南側の虎口



九大「倭城祉図」に描かれたプサン倭城(左)とチャソンデ倭城(右)

チャソンデ倭城の拡大図 黄色い線の内部だけが今も残っている。
石垣は4~5メートルと高い。最高10メートル。


主郭の石垣と周回する散歩道



ちょっと気になりますが・・・。

寒さより健康


主郭

主郭

ジョギング中のおじさん、おばさんに交じって周回路を回ると、ここはほんとに韓国なのだろうか、と不思議な気持ちになるほど織豊の城が匂います。

登り石垣の一部とみられる遺構も残っています。主郭部分の周りを高石垣が回っていましたが、今は主郭部以外はきれいになくなっています。周りに二の丸があったことも九大図でわかっています。まわりの住宅地を丹念に探せば居住地なり石垣の遺構がまだ残っているかもしれませんね。
寸断された登り石垣

下から見るとつなぎ目がよくわかります。

朝鮮通信使記念館を建設するために2009年に城跡の南側で遺構の発掘調査が行われました。発見された石垣の下にさらに石積みが出て、倭城は築城のすぐ後に大きく改造されていることがわかりました。南側にも登り石垣があったことがわかりました。また朝鮮水軍の石積みが出土しなかったことから朝鮮水軍は秀吉軍撤退の後、石塁も含めて倭城をそのまま使った可能性も指摘されています。

新たな発掘があればさらに新しい発見に続くかもしれませんが、主郭を取り囲む高石垣を見るだけでも当時に思いをはせることはできます。この城も消失した部分は多いものの残っているものも少なくありません。山上のプサン倭城だけでも広大な敷地を占め、石垣で固めた城郭で武力と権力を
見せつけていただろうことは容易に推察できます。さらに港に面したチャソンデ倭城を併設することで水軍の機動性は高まったことでしょう。

ところであまり知られていませんが、7年間の占領期間中、倭城の周辺で近隣住民との交流があったことが朝鮮王朝の公式記録『宣祖実録』に載っているそうです。(中西豪「朝鮮側資料に見る倭城」朝鮮学報125, 1987)

プサンは特に倭城周辺の賑わいが著しく、日本軍の近くにすむ朝鮮人は300戸を超えたそうです。さらにひんぱんに市が開かれ地元の朝鮮人が日本人と入り混じって交易していた様子が描かれています。戦は戦、日々の糧を得ようと生活する一般市民の力強い姿勢が見えてきます。山上のプサン倭城、海に近いチャソンデ倭城をとりまくあたりに一種の城下町的な発展が見られたようです。

韓国料理に欠かせない唐辛子は秀吉軍がこの時に持ち込んだ、と韓国では考えているそうです。知り合いの韓国人から聞きました。それまでの料理に唐辛子が使われなかったのがその理由のひとつ。「城下」での交流で伝わったのでしょうか。

ここはプサン駅から地下鉄で3つ目、新しいプサンの繁華街ソミョン(西面)からも3つ目です。
昔も今もプサンのど真ん中と言っていい場所です。日本からプサンに観光に行く人は多いでしょうが、こんな近くに日本の城が息づいていると知ったら驚くでしょう。


2013年12月28日土曜日

倭城マラソン(14) プサン(釜山)城

12月10日 (火曜) 午後   プサン(釜山)倭城はまだまだ元気



というわけでやって来ました、プサン(釜山)。

言うまでもなくソウルに次ぐ韓国第二の大都市。人口およそ三百五十万人を数え、オリンピック招致の声も出るくらい巨大な街です。プサン港は韓国経済をけん引する輸出の拠点になっていて常におびただしい数の船舶が停泊しています。キメ(金海)空港には外国からの定期便も多く、縦横に街中を走る地下鉄はさらに拡張を続けています。

日本でいえば福岡市って感じでしょうか?

ここは豊臣秀吉による朝鮮出兵の際、小西行長率いる第一軍が上陸した地点で(1592年4月13日)、その後七年にわたって半島南部を占領することになる秀吉軍の戦略の要となった場所です。指令塔「名護屋」とのシーラインを維持し、軍船の運航を確保するために周辺には多数の城郭が建設されました。

特にプサン港を見下ろす丘陵に建てられたプサン倭城と、その下、港に近い小丘陵上に建てられ現在「チャソンデ(子城台)公園」となっている二つの城が豊臣占領軍の中心的役割を担いました。石垣は部分的に残っていますが、両方とも城郭としての形は失われてしまい、全体像は不明です。

倭城祉研究会が1976年に現地調査した時にはまだ遺構は残っているものの、かつて動物園として使用されていたり、住宅が多く建てられていたりして、すでに石垣はかなり崩壊していたようです。

およそ五年前の平成21年1月に私が初めて行った時は運動器具をそろえた近代的な公園に姿を変えていました。石垣はコンクリートで補強され、ただの石の壁になっていました。がっかりしてその後は足が向きません。

ただその時は時間的な余裕がなく駆け足で回ったことと、公園の周りの住宅に石積みが多いのが気になっていました。ひょっとして探せばもっと何かあるかのもしれないという気がして今回はまずプサン倭城とチャソンデ倭城からスタートすることにしました。


地下鉄チャッチョン駅出口
地下鉄一号線チャッチョン(佐川)駅を出ると大きな通りに出ます。その通りを北に向かうと左手の丘陵上に区立図書館が見えます。見上げるくらい高い。前回歩いた時も息がきれました。

子城台公園は通りの反対側です。

タクシーを止めて地図を見せながら、「クイップ トソクァン(区立図書館)」声を張り上げましたが思いっきり不審な顔でドアを閉められてしまいました。
山上、円形の建物が区立図書館 北端(写真では右端)の曲輪にある


登り切った上にも階段 バス停の裏にある石積みは?

道、というより階段があればひたすら登るしかありません。土地の人はみんな車を使うのでしょうね。階段では誰にもすれ違いませんでした。

途中であちこちの建物に石が使ってあるのがやはり気になります。石垣を利用したのか、近くから持って来たのか。だいたい倭城が近くにある所には石垣が多いのです。石積みの使用が目立ってきたら「近いな」と感じます。まずこの直観は外れたことがありません。それに篠竹が群棲しているとほぼ80パーセント間違いありません。
まったく関係ないのかもしれませんが・・・。


真ん中のこんもりした森がチャソンデ倭城

階段をのぼりながら振り向くとチャソンデ公園の森が見えます。

この辺りはすでに城の中で石垣が残っていて当たり前。あちらこちらに見える石や石垣に引き寄せられるように急斜面を登ります。図書館も隣の小学校(ともに当時の曲輪の中)も見えているので主郭はもうすぐです。

まず目についたのは大きな虎口、と見られる石積み。幼稚園や屋根つきの遊歩道にさえぎられていますが、縄張り図を参考にすると現存する虎口の一つのようです。
(1)は主郭 (X)は図書館 オレンジの→は辿った道 ピンクは連続した石垣と散歩道
(倭城研究シンポジウムⅡ「倭城」から堀口健弐さんの縄張り図をコピーして使用)

虎口 木の陰に隠れて見落とすところでした。

住宅と公園になっている


左下に小学校 この石垣が下まで続いているはずですが、見えなかった。

小学校の横の石垣は確認できませんでしたが、裏側の石垣は公園に残っています。ここから上はほぼ曲輪の位置が確認できます。 石垣も積みなおされた可能性はありますが原型をとどめているようです。 曲輪はすべて公園として整備しなおされていますが、広さは充分確認できます。

韓国人は大変健康志向が高く、公園のあちこちに健康増進のための運動器具が置いてあってたいへんな人気です。ジョギングする人も多く見受けられ、しかも年配の人が多いようです。その人たちの中で、かつてここは刀を差した日本のサムライがうようよいた城だと意識している人は、いないらしい。
石垣の上が主郭

主郭を取り巻く帯曲輪

広い運動場は主郭 左の角には天守台があった。

下の曲輪から見た主郭 帯曲輪となって右へ

主郭から見たすぐ下、北側の曲輪

主郭の石垣と帯曲輪  コンクリートが痛ましいけど崩れなくて安全か

虎口は崩れていても、石垣にコンクリートが打ってあっても城の大まかな形、縄張りは残っています。とてつもなく大きな規模からこの城の戦略的な位置は充分感じることができます。見方を変えると公園として再利用されているからこそ、大まかではあっても城を肌で感じることができるわけです。ブルドーザーを入れて土地の改造をしなかったプサン市に感謝したい気持ちです。

標高130メートルの尾根上に南北およそ520メートル、東西に190メートルの広さにわたって曲輪が作られています。築城は毛利輝元、秀元父子。文禄の役が始まっておよそ一年が経った頃に築城を始め、慶長の役が終了するまで使用されています。プサンの港を見下ろす高台に今も形を残す巨大な城を見ると、文禄慶長の役が朝鮮半島、明、日本に与えた影響の大きさを眼と肌に訴えるてくるようです。

1976年の城郭研究会が撮影した写真を見ると、主郭の虎口がきれいに残っていたり、高石垣が段々畑のように降りてくる様子がはっきり分かります。その虎口は消滅してしまい、段々畑状の曲輪は建物で見えなくなってしまいました。石垣は崩れたものも多いと思いますが、そのままコンクリートで固めて利用した部分も多かったのではないでしょうか。石垣の大まかな位置は当時と変わっていないように思えます。

九大「倭城祉図」などを見ると崩れたり、消えてしまった遺構は確かに多い。登り石垣もなにか痕跡でも、と歩きましたがアパートや民家がびっしりと建ちならんでいます。おまけに生活の匂いがするところに入り込むわけにはゆきません。しかしホンの少し想像力を働かせるだけで城の面影を追うのに十分な痕跡はあるのではないでしょうか。

何もないと思っていたのに、「たくさん」残っているじゃないかとすっかり見方を変えてしまいました。

主郭を取り巻く帯曲輪の石垣  その下を巡る散歩道

コンクリートで固めてない石垣が新鮮

かなり先まで続いています。


2013年12月8日日曜日

倭城マラソン(13) 慶尚南道ぶらり一人旅

プサンを中心に慶尚南道(キョンサンナムド)を歩こうと思います。

韓国、北朝鮮の「道」はおおまかに日本の「県」にあたる地方行政の単位。韓国から見れば日本の「福岡県へ」という感じ。

いま一番関心を寄せているのは中世の城なので、慶尚南道に分布した倭城(わじょう)と主として朝鮮時代に作られた邑城(ゆうじょう)を見てまわろうと思います。昨年も行きましたが、10月だったのでまだ雑草が多くて城跡に近寄れなかったり、見えにくい個所も多々ありました。1月は寒いだろうし、と今年はぎりぎり12月に行くのはそのためです。草は少ないけど、ちょっと寒さが心配。

それともうひとつ、今回は中世の城だけではなく躍動する韓国の姿も見て来たい。韓国は行くたびに大きく変わっています。今回はどんな姿を見せてくれるか楽しみです。行き先を「慶尚南道」と書いたのには理由があります。

朝鮮半島と日本列島ははるか昔、おそらく国境のない時代から交流が続いています。プサンで発掘された縄文土器を見てあらためて驚きました。土器があるということは、人間もついて行ったでしょうねえ。昔からずいぶんと近かったのだ。成田だ、羽田だ、というはるか以前、近くの浜から船出したのでしょうねえ。パスポートのない時代から人間同士、地方同士のつきあいが積み重なってきています。

朝鮮半島はそんな眼で見続けたい、という気持ちであえて国名を外しました。無視とは違います。韓国と日本、いま外交的にとても微妙な関係になっていますよね。日本を「過去を正視しない!」と非難の声を上げ続けるパク クネ(朴槿恵)大統領の強硬姿勢で、日韓関係はギクシャクしています。

すったもんだはあっても今日ほど二国間関係をがんじがらめにする政治状況はなかったように思います。この先どうなるか無関心ではいられません。前のイ ミョンバク(李明博)大統領の竹島上陸と「天皇」発言をきっかけに、日本では韓国に対する感情はこれまでになく悪化、韓国からは日本の歴史認識を巡って厳しい視線が続いています。これまでもいろいろと外交問題がありましたが「なんとか収まる。」と、どこか楽観的な気持ちがありました。今回は違います。パク大統領は上げた手をこの先どうやって下ろすのでしょうか。

先が読めません。

そんな時だから、国家にはしばらく静かにしていてもらって日本列島の一地方から朝鮮半島の一地方に行く、ぐらいの気持ちで出かけたい。「国家」のくびきから少しなりと離れて本来の近所づきあいをしてみたい。とは言いながら地理的に近いだけだったとしたら・・・。

安倍政権になって韓国ウォンが高くなってしまいました。昨年まで続いた「安め」の滞在費は期待できません。イヤですね、出かける前からしっかり国家が「交換レート」で通せんぼ。でも心の中だけは渡し船で隣村へ行く気軽さを持っていたい。

ではちょっと慶尚南道まで。


2013年11月30日土曜日

世田谷城散歩(4) 吉良の終わりは北条 

カギ型に曲がる古道に出会ったことがきっかけで世田谷城の周辺を探索してきました。おわりに紹介したいものがふたつあります。

まず、滝坂道と津久井往還のほかにも気になるカギ型に曲がる道がひとつあります。

世田谷区役所に向かってすぐ左、バス停車場の横の道。この道を区役所から反対のほう(東)へ少し入ったところにあります。「世田谷の中世城塞」に明治8年の測量図を参考にした道路図が載っていて、この道を鎌倉中道として紹介しています。その理由のひとつに『宿場道に特有の馬で駆け抜けられないようにした』形、と90度に曲がるカギ型の辻を挙げています。

世田谷区役所のあたりは小田原北条氏の影響が強くなるまでは鎌倉道に面した宿駅があり、宿駅が『新宿』に移った後は『元宿』と呼ばれていました。『元宿』の道なら滝坂道や津久井往還のカギ型より古いカギ型、ということになります。

「世田谷の中世城塞」世田谷区教育委員会1979年




そう言われてみれば角の古い木も、意味ありげに見えてきます。庚申塔とかお地蔵さんがあった後に植えた、とか・・・。

鎌倉中道にはいくつかルートが考えられ、定説はないようですが、この辺りを通っていたことは間違いないようです。「世田谷の中世城塞」によると、北沢川にかかる鎌倉橋は本来堀之内道(現 環七)にあったもので、時代とともに位置が変わった可能性を示唆しています。

そういえば世田谷城の近くを歩くと、カギ型の道路やT字型の道路に出くわすことが多々あります。近年になって作られたものかもしれませんが、城のすぐ近くでもあり、ひょっとして戦国の・・・想像させてください。

さて、もうひとつ。

鎌倉中道との深い結びつきで始まった世田谷城ですが、後半は小田原北条氏の支配の中に組み込まれて津久井往還、滝坂道との関係が深くなります。やがて吉良家は豊臣秀吉の小田原攻めで二百数十年続いた領地を失うことになります。抵抗もなく最後の領主吉良氏朝(うじとも)は上総にのがれます。世田谷城を落としたのは前田利家と伝わっています。名門にふさわしい静かな終わり方だったかもしれません。

すべてが終わり・・・。
東京都世田谷区弦巻 実相院(南口)

山号は夫人の名前から「鶴松山」(北口)


上総にのがれた氏朝は間もなくひとり世田谷に帰りました。しかし城は廃城になっていたため使えず、近くに庵を結びそのままそこで亡くなりました。世田谷城をすぐ近くに見ながらどんな気持ちで亡くなるまでの数年を過ごしたことでしょうか。吉良一族がはじめて、血の通った身近な人間に感じられる一瞬です。関ヶ原合戦も終わり、江戸に入った徳川家康の力がますます大きくなっていく慶長8年(1603年)のことでした。

実相院は庵の跡に建てられたもので、氏朝が創建したと伝わっているものの、実際は息子の頼久が父のために建てた可能性もあります。上総で亡くなった氏朝夫人もこの地に送られ、並んで葬られています。氏朝の正室は小田原北条家3代目氏康の娘、鶴松院です。氏朝自身も母が北条氏綱の娘、崎姫で、崎姫ははじめの結婚でできた氏朝を連れて吉良頼康と再婚した(のか、させらせたのか)ので、氏朝にも北条の血が流れています。

小田原北条氏に関する研究が進んでいて、今は頼康に嫁いだのは崎姫ではなくて妹だという見方が有力です。とすると、さぎ草伝説で有名な常盤をイジメたのは崎姫ではなくて、妹だったのか?

氏朝の夫人も北条氏康の娘ではなくて幻庵の娘、と見られています。この時代の女性は名前すら残らない場合が多く、「女」としか系図に残っていません。名前もわかっているのは戒名だけだったりするのです。

崎姫については以下のブログに詳しいので、ご紹介します。http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-d6d6.htmlhttp://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-b0c7.html

誰であったにしろ小田原北条氏から嫁いだ女性です。吉良家が北条カラーに染め上げられていたことに変わりはありません。実に「戦国時代」的ですね。

世田谷城について思うところを、今見えるものを手掛かりにあれやこれや想像をめぐらしてみましたが、200数十年間、城が同じ形であったはずはありません。特に最後の二人、頼康、氏朝はどっぷりと小田原北条家の意向で動いていて、おそらく城も北条氏の意向で手が加えられたことでしょう。

城の遺構も少なく、吉良氏の記録も少ない(あっても読めないでしょうけど)のに建物や地形など、現存するものをたどりながらでも中世に思いを馳せることができるものですね。時間とともに消えるものも多いけど、残るものを探すのも楽しいですね。(おわり)