2012年10月31日水曜日

高速バスの路肩はアブナイ

2012年10月10日(水)
(写真ありません。理由は以下をお読みください。)

   クァンジュ(光州)からプサンまではちょっと遠い。高速バスで3時間10分。ちょうど11:00出発の便があった。21400ウォン(およそ1700円)。

   韓国の旅行はバスが便利だ。なにしろ頻繁に出ている。簡単に説明するなら、韓国には街中を走る 市内バス と近郊の村、町、都市を結ぶ 市外バス がある。さらにソウルとプサン、クァンジュとプサンなど大都市間には、高速道路を突っ走る 高速バス がある。市内を走る 市内バス は別として国内の移動はほとんどが 市外バス か 高速バス を利用することになる。どんな街にもたいがい 市外バスターミナル があり、しかも大都市なら市内に2、3箇所のバスターミナルがあるのが普通だ。

   市外バスターミナル は高速バスの発着も兼ねている。

   そこで私がクァンジュからプサンへ行くのに利用したのは クァンジュの市外バスターミナル から釜山の ササン(紗上)バスターミナル へ向かう高速バスだった。参考までにプサンにはこの他に ノドン(老洞)バスターミナル があり、二つは地下鉄で1時間くらい離れていることと、向かう地域が違うので注意が必要だ。

   クァンジュからだと3時間10分と距離が長いので、両方のバスターミナル向けにバス便があり、私はササン(紗上)が近いのでそちらに着く便にしたが、ノドン(老洞)に家が近い人はそちらに着くバスに乗れば便利なはずだ。

   ほとんどの街に市外バスターミナルがあることはすでに書いた。しかもかなり頻繁に出ているので、ターミナルに行きさえすれば10~30分待てば乗れる。

   さて、クァンジュからプサンへのバス。

   3時間10分と長いが バスにトイレがない

   そこで途中で トイレ休憩 が設けてある。ないと困る。今回も1時間15分くらい走ったころ、サービスエリアに止まって、15分の休憩があった。まだ「緊急事態」ではなかったけど、この先のことを考えてトイレに行った。

   でも車内でビールを飲む人もいるのでは? そうでなくても突然トイレに行きたくなることはあるだろう。もし自分が・・・気になりますよね?

   目撃しました。そんな突発事態。

   始めのトイレ休憩が終わって30分ほど経ったころ、若い男性がおもむろに運転手の横で頼み込んでいる。「?」ひょっとして、と考えて10分ほど経ったころ、バスは後ろからよく見える場所に停車した、と思ったらアノ若い男性が車を降りた。

   みんな気づいていますが誰も文句は言いません。外を確認する人もいない。親切ですね。明日は我が身、と言ってしまえばそれまでですが。

   男性が帰るまで静かに待っていました。セッカチな韓国人、という見方は変えなければなりません。ところで高速道路で一度ストップすると発車するのは難しいんですよ。後続の車がビュンビュンやってきます。運転手の腕の見せどころです。

   便利な高速バスですが、これだけは理解できません。どうしてバスにトイレがないのか?

   これさえ解決すれば韓国のバスほど便利で速くて、ちょっと怖い(スピード)けど安い、公共交通手段はないのになぁ。

   プサン市内の交通渋滞のため、バスがササンバスターミナルについたのは予定より20分ほど遅れた午後2時30分でした。

2012年10月29日月曜日

ひとり孤独な前方後円墳

2012年10月10日(水)

 
 
 



前方後円墳をもっと見ようと、クァンジュ市の周辺を探したが、どれも農村地帯のまっただ中にあって、バスや電車を乗り継いて行く場所ではない。タクシーに乗って行くしかないが、運転手に行先を説明するほど私は韓国語ができない。

クァンジュ市のホームページを見ているとミョンホァドン(明花洞)古墳の近くまで地下鉄が伸びているようだ。グーグルの地図で見ると近い。歩けそうだ。

 
    地下鉄一号線の始発駅、ピョンドン(平洞)はクァンジュ空港の近く。新しく開発された地域らしく、周りには何もない。

駅員に尋ねると「歩くのは…ムリですね。1時間はかかる。」という。「これ使ってください。」と自転車を貸してくれた。朝のラッシュの終わったヒマな時間で、駅員の好意を独占してしまった。

結局自転車に乗って30分かかった。歩く距離ではない。

 

古墳は静かで可愛いい村の片隅にあった。「キョンホァドン コブン?(コフンの韓国語読み)」と村の人に尋ねること3回。そのたびに立ち上がって方角を指差してくれたので、難なく古墳にたどり着くことができた。案内の表示はあったが、迷路のような村の中を抜けるにははやはり「キョンホァドン コブン?」と尋ねないと辿り着けそうにない。
 

 

大きさは月桂洞1号墳、2号墳とほぼ同じ。一方が沼地に面している他は民家に接している。しかも一基だけさみしそうに立っている。発掘されてきれいに整地されているのが返って孤独感をさそう。
 
駅で借りた自転車と案内版
韓国語に加え英語と日本語で説明


 

古墳はたいがい何基かがまとまっていると思っていたが、ここは一人ぼっちだ。周辺はおろか近くにも何もない。円墳も見えない。
 



前方部


 

案内版には長さ33m。後円部直径18m、高さ2・73m、後円部に横穴式石棺、と書いてある。

さらに出土品として円筒形土器、金製耳飾り。

 
後円部
 

 

   作られたのは六世紀前期、と見られている。

2012年10月27日土曜日

チャンゴ古墳って誰の墓?

2012年10月9日(火)

   スンチョンからクァンジュ(光州)は近い。バスで6400ウォン(およそ500円)、1時間半ぐらいだ。

   光州といってもピンと来ない人が多いかもしれない。パク・チョンヒ(朴正煕)大統領が暗殺されたあと、1980年に自由化を求めて立ち上がった民衆を政府が弾圧、多数の犠牲を出した、いわゆる「光州事件」で有名な、あの光州市のことだ。そもそも事件を覚えている人自体、今は少なくなったかもしれない。当時は野党のリーダーで後に大統領になった金大中氏が、暴動を背後で引き起こしたとして死刑判決を受けている。




   人口150万になろうとする大都市のざわめきに、当時を偲ぶことはできない。

   
   
   

   ここに倭城はない。私が見たかったのは光州市郊外にあるチャンゴ古墳だ。

公園の案内

   日本独自の古墳として私たちには馴染みの深い前方後円墳が、光州市を流れるヨンサンガン(栄山江)という川の流域を中心に、韓国で現在13期発見されている。ただ地元では「前方後円墳」と言わずに、チャンゴという打楽器に似ていることからチャンゴ古墳と呼んでいる。



光州市月桂洞の繁華街
バスターミナルから市内バスに乗り換えて30分ほど。ウォルゲドン(月桂洞)は郊外に広がる活気あふれる住宅地だ。バス停を降りると目の前に古墳が見える。

一号墳


2号墳から見た1号墳
古墳は2基あって1号墳(全長約45m)は発掘調査されたが、2号墳(約30m)はまだ手をつけられいてない。私が見たことのある数少ない関東の前方後円墳(埼玉古墳群、群馬かみつけの里、多摩川河畔)と比べてやや小さく見える。

   作られたのは6世紀初めで、前方後円墳としては後期にあたる。
   

2号墳
ところで、埋まっているのは誰なのか?

   これをめぐって日本と韓国の研究者の意見は多様で、統一された方向性は出ていないようだ。倭人の墓なら、誇示するだけの権力を持った倭人、とは一体どういう人なのか?百済なり、伽耶なり、当時の朝鮮半島の住民だったとするなら、埋葬方式を真似るほど倭の影響が広まっていたということか?

   倭人であってもヤマト朝廷とは関係のない、地方の豪族とつながった人であったかもしれない。倭人=日本人ではなく、九州とか対馬とか、限定された地域を指すことばだったかもしれない。

   

   現代の「考え方」で過去を見て、見えなくなっていることはないだろうか?考古学的調査の解釈にいろいろな意味で「現代」がしゃしゃり出すぎていないだろうか?

   3~6世紀は今とは大きく異なった世界であったはずだ。できる限りその当時の目で見なければ、何も見えてこないだろう。パスポートのなかった時代をその時代の心で振り返ることのできる日が早く来て欲しい。

   

2012年10月26日金曜日

倭城マラソン(3) スンチョン(順天)城

2012年10月9日(火)  小西行長 必死の脱出                    

コソン(固城)からスンチョン(順天)には直通バスがない。一度チンジュ(晋州)に出て、バスを乗り換えなければならない。夕方着いたのでバスターミナルの近くに一泊、翌朝スンチョン倭城に向かった。

   文禄の役(1592~1596)で明との和平交渉が決裂して秀吉の怒りを買い、再び出兵した慶長の役(1596~1598)に建てられ、倭城では朝鮮半島の一番西に位置している。

    築城は宇喜多秀家、藤堂高虎で、後に小西行長が兵13000人とともに城に入った。腰をすえて朝鮮半島に居座ろう、と長期戦を意図した作りが見られ、文禄期に築城された城とは大きく様変わりしている。たとえば遠くからも威容を誇る天守台。高い石垣の上に3階とも5階とも言われる天守がそびえるさまは武力だけでなく、相当に権力を誇示したに違いない。





天守台


   
   しかし慶長7年に築城を始めたものの、翌8年には秀吉の死によって日本軍が撤退したために、結果的に城としての命は1年と極めて短い。

   







天守台から主郭を見る



    明への道をひた走った文禄の役とは違い、慶長の役では全羅道が主要な戦場となった。倭城の大半が隣の慶尚南道にあるのに対し、スンチョン倭城は全羅南道に残った唯一の倭城だ。
   穀倉地帯の全羅道を抑えてまず兵糧を確保することが重要だった。

   


スンチョン倭城は交通の要衝スンチョン市の中心からおよそ10キロ南東の海辺にあり、市内のバスターミナルと鉄道駅を経由する市内バス21番が1時間に1本の割で出ている。乗車およそ20分くらいか。近い。

   



   

城跡は今、歴史公園になってきれいに整備されている。清潔なトイレも完備している。前回は近くの小学生の団体がバスで来ていて、すれ違いながら元気に「アンニョンハセヨ!」 返事を返すのにちょっと疲れた。



駐車場前のバス停






名前は「ウェソン(倭城)」













   


   私は2009年10月に初めて来たとき、他の倭城とは比較にならない規模と石垣の高さ、見る人を圧倒しようという意図が見え見えの威容に素直に気押されてしまった。

2009年10月撮影

 

ただ公園として整備する際に倭城らしさを損ねた点が指摘されており、見た目にも明らかで惜しい気がした。









   

    


   さらに、ここも激しい国土開発の大波を受けて周りの海がすっかり埋め立てられてしまった。近くの島と陸続きになり、工業団地化して船溜まりを偲ばせるもがなくなったのはさみしい。倭城はいずれも海辺にあるので、避けられない運命かもしれない。

2009年10月撮影

ほぼ同じ場所から見た現在の風景

  














   今回は公園としてきれいに整備された大手虎口から主郭部にいたる内郭部だけでなく、周辺に広がる外郭部をまわって城郭としての規模を実感したいと思った。

   城域は東西700m、南北600mと広い。しかも外郭部はほとんど私有地なので想像以上に動きが制約されてしまった。

城郭談話会の堀口健弐さん作成の縄張り図を使わせもらった。
倭城研究シンポジウムⅡ「倭城」から借用、加筆




大ざっぱに言って海に面した小山に内郭があり、丘を下ったところを南北に外郭線が伸びている。このほぼ中央が大手虎口と見られる。さらにその外縁を、低地をはさんで内郭を取り囲むように丘の稜線を利用して防衛線が設けられている。

(矢印 1) 北側から見た内郭 
すっかり埋め立てられて海らしさが残る唯一の場所












(矢印 2) 中央右手、駐車場から伸びる舗装道路の
       屈折部分から左右に伸びるのが外郭線




(矢印 3) 外郭線から望まれる天守台
    望遠は使っていない。














      


   



     外郭部の石垣はかなりはっきりと残っている。ただ私有地なので思い思いの形で使用されていて、どこまで慶長の頃を残しているか、は不明。しかも荒れている。
   

   まだまだ草がはびこる季節で、腰ぐらいまでの雑草をかき分けていると近くの潅木が大きく揺れ、イノシシが一頭飛び出して行った。こっちへ向かって来たら、と思うといなくなった後で冷や汗が出た。「日本人観光客、韓国でイノシシに襲われケガ」と新聞に小さく出ていたかもしれない。

北を睨む櫓台

外側を回る石垣の高さは1m2、30くらい
      石垣につられてドンドン中に入ってしまった。「なーに?」という声にビックリして振り向くと、真っ赤な唐辛子を採りながらおばさんがこっちを見ている。「倭城の写真を撮っています。この石垣は倭城のですよね?」 おばさんは黙って頷いた。
   倭城跡の畑で唐辛子を栽培しているとは・・・楽しいですね。唐辛子が朝鮮半島に初めて入ったのは文禄・慶長の役の時。不思議な巡り合わせを感じました。

   
   このスンチョン倭城で慶長8年(1598年)、壮絶な戦闘が繰り広げられた。

  


    その時の戦闘を描いた絵画が残っている。現在は所在がわからなくなっているが、どうやら明の従軍絵師が描いたものではないか、と言われている。「征倭紀功図巻」と呼ばれるその絵のレプリカが駐車場に展示してある。



    ここに描かれているのは慶長8年秋、明、朝鮮合同軍がスンチョン倭城に総攻撃をかけた時のものだ。

   戦況は硬直状態に陥り、長引いた。そのうちに明、朝鮮は秀吉が死んだことを知るにいたり、日本に帰ろうとする小西行長が城を出られないようにする戦略に出た。それを知った島津義弘、宗義智らが援軍として向かったが、李舜臣率いる朝鮮海軍と近くの露梁海峡で戦闘になった。この戦いの中で李舜臣は戦死してしまうが、その隙をついて小西行長はなんとか城を抜け出し、プサンにたどり着いた。

   詳細に検討したわけではないが、じっと見ていると遺構にピッタリ合っているように思えてくるから不思議。兵士の動きもリアルで絵を思い描きながら歩くと銃声やさけび声が聞こえて・・・きます。

2012年10月24日水曜日

倭城マラソン(2) コソン(固城)城

2012年10月8日(月) 固城(コソン)で出会った石垣


     コソンはプサンからバスで2時間、マサン(馬山)から少し南に下ったところにある。秀吉が再度出兵した慶長の役に倭城が建てられたが、ほとんど消滅したと言われている。せめて場所だけでも・・・見たい。

慶長の役に建てられた倭城はウルサンから
スンチョンまで長い海岸線に沿っている 
コソンは小伽倻の都でもあった。

   3世紀から6世紀にかけて日本と密接な関係にあった金官伽倻、大伽倻、安羅伽倻などと並ぶ小国家群のひとつ。今は否定されたが1980年代に韓国の前方後円墳として話題を呼んだ『松鶴洞一号古墳』もある。どんな姿をしているか見てみたい。ちょっと寄り道。

   


   


   古墳はバスターミナルからもよく見える。「寄る」距離でもない。

   







   昔の写真を見ると確かに前方後円墳に見えるが、周りの円墳と合わせてきれいな公園に整備された今、どう見ても前方後円墳には見えない。



     
1999年から韓国の東亜大学が行った調査によって前方後円墳ではなく「3つの円墳が重なったものだったことが判明した」と英語と韓国語によるかなり詳しい案内板が立っている。

   コソンはのどかで小さな街だ。ぶらぶら歩いて12,3分で中心部に着いた。倭城があった場所について事前の情報はない。犬も歩けば、何か見つかるだろう。



   街中は曲がりくねった迷路のような狭い道が続いていて、いかにも古い町、という雰囲気。どうやら同じところを堂々巡りしていたようだ。さっき通ったあの道は、さあ、どこだったやら。

   


     


   やたら家の基礎部分に石積みと思われる部分が多いので、たどって行くと・・・ありました。








   日本式の石垣と思えるものが部分的に残っているものの、曲輪の輪郭はうかがえません。石積みによっては朝鮮式かな、と疑われるものもあるが、素人では判断できません。コソン倭城は朝鮮式邑城に併設して建てられた、と聞いている。



    朝鮮式石塁が残っている、と地図には書いてあるので行ってみたが何もない。案内板があるが、石塁は下に埋もれているのかな。


   石垣だけは数か所、かろうじてかつての姿を残しているが、邑城も倭城も形は失われてしまったようだ。

   (コソンへはプサンのササン(沙上)バスターミナルからかなり頻繁にバス便があります。ほとんどマサン(馬山)経由です。5020ウォン(約400円)。近くに恐竜の足跡があって観光地としてにぎわっています。最近博物館もできました。私は知らずに行きそびれましたけど。)

   

   

2012年10月23日火曜日

縄文人の船頭さん

   2012年10月7日(日)

   昼過ぎにプサンについて真っ先に向かったのは「東三洞貝塚展示館」。プサンの下町チャガルチと、日本への定期船が使う国際ターミナルの間にドーンと陸地にぶら下がるように橋でつながった大きな島、チョルヨンド(絶影島)にあります。

   プサン駅から向かうなら市内バス88番、101番で「海洋大入口」で降りるとすぐです。日曜にはガイドさんが案内してくれるので、この日を選びました。


この日のガイドさんは女性でキムさん。何よりも日本語が堪能なので助かりました。

   ここは貝塚の跡にたてられた博物館(プサン博物館の一部)で、この貝塚から発見された縄文式土器が展示されています。韓国の伽倻関係の博物館には古墳から発掘された弥生式土器や勾玉類は多く展示されていますが、縄文式土器が出たのはボランティアガイドのキムさんも「おそらくここだけでは・・・。」とのこと。
 

   貝塚は日本統治時代の1929年、東莱で教師をしていたオイガワさんが発見したあと釜山考古会が中心に調査、韓国独立以降は韓国の研究者による調査が続いて現在に至っています。

   



貝塚は今は埋め戻されています。

   





   縄文式土器が展示されているのは小さなコーナーだけですが、黒曜石と並んでしっかりと網目の見える土器が展示され、当時から日本と交流があったことを示している、といった解説が添えられています。



   

   残念ながら私が大好きな縄文の人形は出ていないそうです。縄文のビーナスが発見されたら楽しいでしょうね。


   













   縄文時代でも、時間的にどのあたりなのか、交流があったとしてどうやって海を渡ったのか・・・。わからないことが多いだけ、空想をそそられます。エッチラ オッチラ舟をこぐ船頭さん・・・いたのかな?