2012年12月31日月曜日

能登に静かに消えた平時忠

   吉川英治の「新平家物語」をクリスマスの直前に読み終わった。春に読み始め、年が明ける前に全16巻を読み終えたい、と思っていたのでまずはミッション達成。源平の戦いの大まかな枠組みを自分なりにとらえたかった。

   「新平家物語」を読みながら平時忠の生き方が気になった。「平家でないものは人にあらず。」の発言が突出している割りにわき役に徹している。現実を見るバランス感覚は、義経との最後のやりとりを見ると、際立ったものがある。そのかいあって周りがすべて消えゆくのに、能登に流されただけでコワーイ頼朝の執拗な追及もなくかの地で亡くなった。墓もある。

   後を継いだ三男の名前「時国」を苗字にして脈々と現代につながり、今は24代目をかぞえるという。日本海に突き出した能登半島の突端、重要文化財に指定された「時国家」に行けば何か見えてこないか?平家の匂いでも残っていないか?


千枚田


曽々木海岸
    


   輪島市から車で20分くらい。千枚田や曽々木海岸からも近い。










沖合に無人の七ツ島



時国家

   午後は雨、の予報があるが車の温度表示はずっと0度~3度を行ったり来たり。風は冷たい。時国家には当然、訪れる人他になし。入場料600円。JAF会員で100円割引き、500円になった。


囲炉裏の火を前で女性のガイドさんを独り占めして、細かく説明をきいた。建物は300年前に建てられたもので、昭和30年代まで使用されていたもの、という。


   





   当時(江戸中期)の大きな農家の様式を残している貴重なもの、として重要文化財に指定された。痛みが激しいため、最近元通りに修理されたそうだ。どうりですべてが整然としている。

煙っているのは囲炉裏の煙

冬はたいそう寒かったのでは・・・

並の農家ではない
欄間の装飾

貝がらを混ぜた壁土

   回遊式、というそうで建物の三方を庭園がぐるりと取り囲んでいて、武士の館といってもいいくらいの格式。江戸期の時国家は前田藩の御用も勤め、農業、回船業と幅広い活躍をしていたようで、平家のにおいより豪農の財力を感じる。















今はめずらしい雪がこい



   

   ガイドさんの話は突然時国家13代から始まり、初代「時忠」からの数百年はすっぽりと抜けている。しかも時忠が住まいしたのはここではない。

   「何か平家との関連を示すものは・・・?」と尋ねると、平家の紋「揚羽蝶」が使われていた、という。


   時忠が能登に流されたのは文治元年(1185年)。はじめから立派な建物に住まうことを許されたとは思えないから、何も残らないのが当たり前かもしれない。頭ではそのように理解できても、ひょっとして京都から持って来た舶来の器とか、清盛にもらった刀とか伝わっていないか、後白河法皇、義経からの文などないか、つい想像してしまう。
前田家の役人の名札


   建物は使用している木材など、ため息が出るほど立派で、豪農の財力と加賀前田家の権威はひしひしと感じるがご先祖様のオーラはやっぱり・・・無理か。

   「時国家」は奥能登を代表する観光地だが、「江戸時代の建物しかないの?」という素朴な疑問は出ないのだろうか?今年はNHK大河ドラマで「清盛」が放送されたことで、特に見学者は多かったそうだ。

   庭の一隅に安徳天皇を祭る祠が建っているのは、そうした声に少しでも応えようとする気持ちだろうか。平成になって安徳天皇を祭る下関市の赤間神宮から分霊されたものだという。

2012年12月22日土曜日

「海ほたる」から見た坂東

   東京湾を横断するアクアラインを初めて走った。

   中央高速の事故があってしばらくトンネルのある高速は通らないようにしているが、アクアラインはまだ出来て15年ぐらいなのでイイか、と思い切って出かけた。

   木更津市と千葉市の博物館で見たい展示があったのと、もう一つ密かな目的があった。徳川家康が江戸に入る前にこの地を支配した小田原北条家、その水軍の目に写った坂東の地はどのようなものだったのか。この目で見たい、と実に他愛ない。

   川崎からアクアラインを通って10キロ、木更津の直前で海底トンネルを出たところに「海ほたる」の愛称のパーキングエリアがある。ここの眺めが素晴らしい。

望遠を使わずに見える東京の都心

北 右手前方に千葉市


南   左手前方は館山市方面


東  アクアラインの橋梁部






   周りに広がる海や遠くに見える山、潮のうねりは北条氏がこの海を支配したころと変わらないだろう。富士山も丹沢の峰々も筑波山も、おそらく同じように見えていたのではないだろうか。

   想像した以上に広い。飛行機が羽田に着陸する前、機内から見える東京湾は思いのほか小さい。房総半島上空からあっというまに滑走路に着くように感じるが、実はこんなに広い空を飛んでいたのだ。

   16世紀には見えなかったものは「江戸」の高層ビル群、スカイツリー、横浜のベイブリッジと「海ほたる」、といった現在の建築物だけだろう。そうした建物もみんな小さく、豆粒のように見え、海と陸と空がやけに大きい。


スカイツリーを望む

木更津市から見た東京湾    右にとアクララインの橋梁部分


   水軍の将が見たであろうこの景色を自分の目で見たかった。

   ところで、アクアラインは現在暫定的にETCでの通行は800円だが、本来は3000円だ。アクアラインは完成したあと長く使用する人が少なく、随分と話題になったことはまだ記憶に新しい。料金が高すぎたのだ。

   そのうちまた3000円に戻るのだろうか。そうなったら私はアクアラインはもう使わない。

   早くて便利でしょう?だからお金を払って当然、という時代でしょうか。

   「高速は有料」が当たり前になっている今の考え方、どうも理解できない。自分が車を運転する、しない、とは関係のない「人の流れ」「物流」への影響は計り知れないものがあります。高速無料化の夢は無残にかき消されてしまったが、本来道路は無料が原則。

   出発点にもよりますが、アクアラインは東京湾の北岸を通るよりはるかに早く、楽に房総半島に行けます。でも片道3000円使って千葉市の美術展や博物館に行く気は・・・毛頭ない。

   

2012年12月11日火曜日

「菊」になった小田原北条氏の「刀」

小田原の元MRAアジアセンターが取り壊されて史跡公園になると聞いた。

   アジアセンターには昔一度足を運んだことがあるのでどんな遺跡が残っているのか気になっていた。その時は戦国時代の遺跡があることも知らなかったし、気づくこともなかった。

   住宅地を抜けて360度の眺望を前にして一瞬ことばを失った。
               
 



   アジアセンターが建つ前は閑院宮のお屋敷だったと聞けば、この恵まれた立地に納得できるだろう。

   天気に恵まれて相模湾の向こうに三浦半島から伊豆半島まできれいに見える。太平洋からの日の出が毎日拝める場所だ。




   箱根に続く西を見れば秀吉が一夜城を築いた石垣山、やや手前の右手には細川忠興が陣を置いた富士山陣場が望まれ、瞬時に気分は天正18年(1590年)の小田原攻めまで遡ってしまう。

   








   土塁はすぐわかった。土塁の横は崖で、その下に今は住宅が並んでいるところが堀だったという。

   








   敷地は土塁に沿った平地を利用した高台で、その土塁をうまく利用して宅地の周辺を日本庭園が取り巻く形になっている。ところどころ変形していても土塁が続く様子は一見してわかる。MRAハウスのホームページにある完成予想図に今と同じ庭園が描かれているのを見ると、閑院宮から購入した時にはすでに現在の形になっていたのかもしれない。






 


   私の記憶の中のアジアセンターはゆったりと広かった。敷地は8000坪と記録されているが、空き地になった今は意外に狭く見える。

  







   このあたりは「三の丸新堀土塁」と呼ばれていて、秀吉軍と対峙するために北条氏が構築した城郭都市を取り巻く巨大な「総構」の重要な一画をも担っている。土塁に沿って北に歩くとと、一瞬消滅するもののそのまま小峯御鐘ノ台大堀切へのつながって行くのがよくわかる。



この先に地下2階、地上5階のアジアセンターがあった

  「三の丸新堀土塁」はアジアセンターが閉鎖されたために私たちの目に触れるようになった。そのおかげで庭園に姿を変えていた軍事用土塁が本来の姿を現したわけで、ひょっとして小田原には個人の住宅の中に隠れて、まだまだたくさんの遺跡があるのかもしれない。

   ところでMRA(Moral Re-Armament:道徳再武装)というのは、第二次世界大戦が終わり、世界が日本を再び仲間として受け入れてくれるのに多大の力となったイギリス生まれの精神改革運動だ。大戦後のドイツとフランスの和解に果たした功績で注目を浴びた。

   第二次世界大戦が日本人がまだ自由に海外に出られなかったころ、MRAのお世話になった人は多い、と聞いている。

   復興日本が再びアジアの中心になるようにとの期待の下に、1962年のオープニングには当時の池田勇人首相をはじめ政財界のリーダー多数が参列している。戦後の混沌を引きずる時代、アジアセンターへの期待は大きかった。アジア諸国の関心も高く、当時国交のなかった韓国から金鍾泌氏が開所式に列席し、この後の日韓国交回復への布石ともなった。
   センターの閉鎖は建物が古くなり、耐震基準を満たしていないことが大きな契機となったが、ここに託された理念と当時の熱意も消えてしまうのは惜しい。

   小田原北条氏の巨大な防衛態勢を担った土塁は、敗戦という形で目的は達せられませんでしたが、はるかな時を経て諸国間の融和、相互理解の場に変わっていたのですね。 あまり使われることもない古い比喩ですが、「刀」はいつか「菊」に変身していたのかもしれません。

   

2012年12月3日月曜日

倭城マラソン(12) ウンチョン(熊川)城 その後

セスペデス神父への微妙な感情 


   ウンチョン(熊川)倭城に小西行長が滞在していた1593年、行長を始め宋義智などウンチョンに集中していたクリスチャン武将のために日本からセスペデス神父が海を渡り、山頂の城郭内に滞在してミサを執り行ったことは、11月14日に触れた。

   韓国でカトリックのミサが初めて行われた神聖な場所として、現地の教会がウンチョン倭城でミサを行っていることについて、教会の神父さんがメールで説明してくれた。

主郭に置かれた机   後ろは天守台


   セスペデス神父を偲ぶミサは今年で4回目、10月20日に予定していたが天気が悪いために倭城ではなく教会で行ったそうだ。私がウンチョンに行ったのが10月13日だから一週間後に予定していたのだ。主郭内にカバーのかかった机があったが、あれがミサの準備だったのかもしれない。

   小西行長がクリスチャンであったことはよく知っている、という。慶長の役が終わって日本に渡った朝鮮人でクリスチャンになった人も多かったようだ。

   しかし、朝鮮半島初のカトリック ミサといえども戦争中のことであり、しかも戦争を仕掛けた国の武将のために行ったのなら、それは日本の話、という気持ちがあって感情的にしっくりしないものがないことはない、ときわめて分かりやすい。

   この点については今後の歴史研究に期待したい、と結んであった。

   日本に渡った朝鮮人とカトリックとの結びつきについて、私は詳しく知らない。これから注意して見てみようと思う。ひょっとしてセスペデス神父は現地でも布教をした、と地元に古い言い伝えでもないか期待したが叶わなかった。
セスペデス神父を乗せてウンチョンに到着した和船の模型
左はウンチョン倭城       チネ博物館の展示(10月12日撮影)


   倭城と近隣の住民との接触はどんなものだったのだろうか?戦争という非常時でも民間の交流はあるものだ。

   朝鮮半島にはこの時、日本からトウガラシが入っていて、トウガラシはその後の朝鮮にはなくてはならないものになったのは周知の事実。日本にポルトガルからトウガラシが入ったのもそれほど前のことではない。文化の伝播は思いのほか早い。

   さて、キリスト教だが・・・これからの研究に期待するしか、ないか?