2013年2月18日月曜日

やる気満々 浄福寺城

名前がいいですね、浄福寺城。 といっても後世になってつけた名前で、
正確な名前は分からないらしい。

小田野城から見た浄福寺城  右手前方


   というより当時(16世紀)は城に名前をつけなかったようで、この城も案下城、千手山城、松竹城、新城(にいじょう)などと所在地の名で呼ぶことが多かったようだ。由井城もこの城、と見る説もある。誰がいつどういう目的で建てたか、今のところはっきり分からないようだ。

   「よくわからない」城跡は浄福寺城に限ったものではない。分からないからこそ自分の想像世界を広げられるので、「よくわからない」も実は悪くない。


浄福寺の裏山が城跡

八王子城の北、千手山(360m)頂上に主郭を置く山城。

比高およそ150m。

   東京都教育委員会が7年前(2006年)に出した「東京都の中世城館」に掲載された復元図を見ると、急峻な地形をうまく利用して造ったことが写真を見るよりよくわかる。写真では腕のせいもあるが、立木や灌木に邪魔されて地形をはっきりとらえられない。

黄色/登り口    オレンジ色/私たちの登ったルート    ブルー/主郭

   浄福寺の墓地から観音堂へ向かう道から登り始める人が多いようだが、恩方第一小学校の道路を挟んだ反対側にも登り口の案内がある。私たちはさらに奥のもう一つの尾根から登った。どの道も取りつきから急勾配で私が兵士ならこの時点で城攻めをあきらめて、村に帰ってしまうかもしれない。

右からも左からも矢が・・・




   急な登りは長い。途中、前後左右から矢が飛んできそうな入り組んだ虎口をなんとか通り抜けたかと思ったら、両側は再び急な崖になる。やや大がかりな虎口と思われる箇所は主郭以外ではここだけのようだ。そうすると敵の侵入を想定したのはこの尾根伝いだったのでは。


東西の尾根のあちこちに切られた堀切




人が歩くと堀切の大きさがわかります

   尾根を登りきると東西に走る別の尾根につながり、この尾根上に主郭のほか、何箇所か平場や曲輪が設けてある。その間も深い堀がザックと切ってあって敵の動きを制しようとするすさまじい意気込みが伝わってくる。

この先にさらに2本続きます
 
矢印の先に連続した縦掘り
 
 
籠城戦などもってのほか、短期間に敵を壊滅せん、さあ来い、というあくまでも前向きで激しい戦闘意欲が今もってただよって来る。籠城に欠かせない水場が今のところ見つかっていないことで、やっぱり、と思ってしまう。城としては決定的な欠陥として水場は初めからなかったのか、当時はあったけどそのうち水が出なくなり、埋もれてしまったのか。



主郭へのつらいアプローチ


主郭の中心の高み
主郭の高みから見た腰曲輪


   主郭は1メートル弱の高さの円形の周りを幅10メートルほどの曲輪が取り囲んでいる。主郭にいたるルートはかなり急で、息が切れる。這いつくばらなければならない箇所もある。這いつくばったり尻をつくのは実はここだけではなく、周辺にいくつかあって、高齢の参加者の中には、途中で座り込んでしまう人もいた。
 
でもここには他の城にはない得難い魅力がある。何だろう、それは。今回が4回目だけど来るたびにこれまでに見えなかったものが見えてくる。
また来たい、と思わせるものがある。

あちこちに見られる堀切
堀切に掛る土橋
どうやら自然の岩盤を利用したようだ

   















   

   山のあちこちの土に刻まれた「来るなら相手になる」という壮絶な意志が語りかけて来るからだろうか。そんな力強い意志で造られた、巧妙な縄張りも役に立たなくなって、城は放棄されたのだろうか。八王子城と運命をともにしたのだろうか。主郭からは南に八王子城の森が木々の間に見えている。
   城の真下を通るのは陣馬街道。中世には甲斐と武蔵を結ぶ幹線道路だった。

   八王子城主の北条氏照との関連がカギになるようで、氏照が建てた、いや氏照が婿養子に入る前の大石氏が建てた、と諸説ある。八王子城の搦め手を守備するのにちょうどよい位置にあるが、秀吉軍の攻撃(1590年)にさらされたのだろうか。

   今回は「八王子城とオオタカを守る会」が10日に開催した見学ツアーに参加した。「八王子城とオオタカ」はこれまで10数年、冬季限定で八王子城を多角的に紹介してきているが、ここ数年は小田野城と浄福寺城も対象に入れている。

   この会の八王子城見学ツアーに参加して八王子城の魅力に取りつかれた人も多いという。しかし「八王子城を広く知ってもらう」という初期の目的は達成された、と3月に予定されている搦め手からの登城ツアーをもって終了が決まっている。

   分かりやすい説明付き、登山ロープまで持参する「楽々」浄福寺城ツアーもしたがってこれが最後。参加人数は26人、といつもより多かった。
   
   誰が何のため・・・。どこかに隠れた古文書、残ってないだろうか。
天気が良ければまた登るか。



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