小田原城の御用米曲輪の発掘で予想以上に中世の遺構が出てきている。さらに発掘を進めてみないことには分からないが「北条五代が見えてきた」と、周りの眼はらんらんと輝きだしている。
昨年の8月開催された現地説明会では「城主の館」級の建物跡が注目されたが、その後新たに庭の遺構が見つかったと聞いて「これは見ておかねば」と駈けつけた。発掘されたものは原則埋め戻すことになっているので、この機会を逃すと見られなくなってしまう。見られるうちに眼に焼きつけておこうと16日土曜日、現地説明会に出かけた。
庭の遺構は御用米曲輪の3か所で見つかった。石を敷いた水路や掘、池、さらに池に続くと見られる土手が見つかっている。この3か所がどうつながるか、はさらに掘り進めなければならないが、曲輪の本丸側にかなり大きな庭園が広がっていた可能性があるという。福井県の一乗谷朝倉氏館の庭園に似ている、と説明された。一乗谷の庭園といえばかなり豪華な造りだったように記憶している。早く全体が見てみたい。
本丸下で見つかった庭の遺構 便宜上1,2,3と表記 ちなみに手前は江戸期の蔵跡 |
庭の遺構①は堀につながっている |
堀とつながる石組の水路と地下蔵のような石積み 中からかわらけが多数出た |
踏み台のようなこの石は・・・今のところ用途は不明 |
庭の遺構②は石組水路 玉石と砂利 |
一乗谷と比較されている庭の遺構 |
庭の遺構③は池 |
池に続く水路 |
昨年見つかった障子掘は埋めて水路になっていた。 |
池との境 土止めと砂利 |
五輪塔が利用されている珍しい土止め |
昨年の発掘で城主の館「御主殿」と見られる建物の礎石が見つかったためにさらに発掘範囲を広げて調査した結果、この建物は3間×6間以上、と小ぶりで細長い形をしていることが分かった。前回の調査で1間が6尺2寸5分(およそ189cm)であることが分かっているので、およそ5m70×11m以上の建物ということになる。
1間は現在の1間よりすこし長い。そのため「御主殿」級の建物に付随する小規模な建築物と見られるという。何回か建て替えられていることも分かった。
「御主殿」級に付随すると見られる建物の礎石 |
参考までに昨年8月の同じ場所です。 |
横には石を敷いた通路が |
とすると「御主殿」に相当する建物は、この小型の建物と庭園の間にあると考えられる。御用米曲輪の半分を占めるほどの建物と庭園は相当広い。小田原城内に住み、最大の権力を持っていたのは・・・氏政だろうか。小田原市はさらに発掘を予定しているという。
この曲輪は江戸期に米蔵が置かれていて、幕府からもらった米を貯蔵していたので御用米曲輪と呼ばれていた。明治になって建物は解体され、跡地は長く御用邸として利用された後、神奈川県、さらに時代が下って野球場、駐車場と目まぐるしく姿を変えている。野球場がすっぽりと入るくらいなので、その広さが察せられる。
北条時代の城郭は詳細な位置や建物の状況等、実は明らかになっていないものが多いという。ひとつには徳川の世になって北条時代のさらに上に建物を置き、土塁に手を加え、石垣を加えたので当時の姿は変更されたり、消えたり、見えなくなってしまったからだ。しかも江戸時代の遺跡は壊すわけにゆかないので北条時代まではなかなかたどりつけない。今回は江戸期の遺構の間から幸運にも北条が顔を出して明らかになった部分が多いのだが、今後もこの制約は続くのだろうか。
発掘しだいで、これまでの認識を大きく変える可能性があると実感する得がたい体験だった。この日の現地説明会は10時、13時の2回、担当者による説明があったが合わせて1000名を越える人が参加したという。小田原北条氏への関心の高さは当然、と思いながらも驚いた。2回とも参加した人も多かったようだ。
昨年8月発掘された瓦積塀 今はすでに埋め戻されていて見られない |
小田原市も心のこもった対応をしてくれた。現場は足場がぬれて少し悪かったのにビニールシートを敷いて歩きやすくしてあった。大変な労力だったに違いない。おかげでドロに足を取られて転ぶこともなく快適に見て回れた。
また小田原駅から現場までの数ヵ所にて「御用米曲輪」と書いたプラカードを持った人を配置するなどニクい心遣い。寒い中大変だったでしょう。心からお疲れ様。
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