12月11日 水曜日 夕方 夕暮れのソセンポ(西生浦)倭城で一杯
倭城を訪ねながら気ままな韓国の旅を続けていますが、ひとつのやり方を毎回かたくなに守っています。タクシーは他に手段がないとき以外は絶対使わない、バス、地下鉄、列車を乗り継いて動く、というスタイルです。やはり足を使わないと。初めの頃は目指す倭城に到着するだけでグッタリでしたが、最近はそこに至る道を楽しむ余裕も出てきました。
今回もこのスタイルに固執しています。
イムラン(林浪)からソセンポ(西生浦)倭城のあるチナ(鎮下)まで直通のバスはありません。途中で乗り換えなければなりませんが、幸運の女神は時々顔を出すものですね。しばらくバス停に立っているとチナ行きのバスが現れたのです。まさか!
「チナ ガーヨ?」(鎮下 行きます?)
運転手さんがうなずいてくれて嬉しかったこと。ホッとしました。
なんとプサンのヘウンデ(海雲台)海水浴場からチナ海水浴場までのバス便があったのです。停留所には書いてなかった。おかげで午後の3時ごろにはソセンポ倭城を見上げるチナに着きました。早く手ごろな宿を見つけてまずリュックを下ろしたい。
宿といえば現在はほとんどモーテルという名称を使っていますが、ほんの数年前まではリョグァン(旅館)と書いてありました。ホテルはちょっと料金が高めでリョグァンが値段的にもちょうどよかった。モテルになっても中身は変わりません。♨マークがついているのも同じです。一泊素泊まりで¥2500~¥4000。
ここは有名な海水浴場だから高いと覚悟していたら案の定¥3500。ここは冬でも人気があるようです。泳ぎはしませんが食堂、レストランには遅くまで明々と灯がともっていました。現代自動車(韓国の自動車メーカー)で潤うウルサン市の奥座敷というところかな?
冬の日暮れは早い。
韓国と日本は同じ時間帯ですが西の端にあるので東京よりは太陽の沈むのが遅いはずです。九州と同じくらいです。それでも夕方の5時には暗くなるはず。急げ!
実はやりたかったことがあります。波の音を聞きながらソセンポ倭城をながめ、軽く日本酒を飲みながら(買い忘れたのでコンビニで買った韓国焼酎を代わりに)清正君を呼び出して聞きたかった。「ウルサンの城が攻撃されてソセンポから駆けつける時、何を考えた?」
この海を見たかった。 おかしい? |
ソセンポ倭城は加藤清正が文禄2年に築城し、文禄慶長を通じて滞在した期間は比較的長いように思われます。だいたい倭城は築城者と在城者が違う場合がほとんどで、在城者が複数いる場合もあります。その中で加藤清正とソセンポ倭城は常に対で語られます。明の使者を迎えてここで会談も何回か行っています。政治の舞台でもありました。
寒い。海岸にはもう立っていられません、風もある。加藤君の部屋に行こう。
部屋って・・・どこ?麓に大きな屋敷でも構えていたのでしょうか。
海岸に近い出丸のような曲輪 |
ソセンポ倭城 |
日が暮れるのって早いですね。登り石垣までは明るかったのですが、大手虎口を過ぎるとあっという間に陽が沈んでしまいました。チナの街には夜の明かりが灯り始めています。あたりは暗くなり始めました。
暗闇はやっぱり気持ちの良いものではありません。加藤君の部屋は分からないし、宿に引き上げることにします。加藤君との対話は実現しませんでしたが、せめてお酒(焼酎)でも・・・残り少なくなりましたが置いてゆきます。
急に寒くなりました。そのままサムゲタン(参鶏湯)の店に直行。朝鮮人参で明日に備えます。
出丸だとおっしゃった部分は私が本資料では出城と言っていました。 おそらく山頂の内城と出城の間を長い登り石垣で結んだのではないでしょうか。
返信削除出城でも役割は似ているので構いませんが、同じ城内なので出丸と書きました。長い登り石垣で城の内と外を明確に区別している城は珍しいと思います。空堀や水堀で囲った城ならありますが。
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