2016年6月22日水曜日

韓半島の城跡(1) 全州城祉(全州)

平成28年3月13日(日)

2年ぶりに行く韓国はちょっと緊張して出発した。日本では韓国に対する印象が悪化して、韓流と称される漠然とした韓国ブームも火が消えたようになくなってしまった。韓国でも日本に対する印象はこれまでになく悪くなっている、という。最近の調査による日本人と韓国人のお互いの好感度は20~30パーセント台だとか。

李明博前大統領の竹島上陸でガツンと頭を殴られたうえに、朝日新聞が慰安婦報道にあやまりがあったことを認めたことで日本の世論はグルッと逆転してしまったのだ。日本の韓国に対する目はがぜん厳しくなって、韓国に向かう旅行者の足はパタッと途絶えてしまった。韓国の新聞(日本語インターネット版)によると「MERSのため」と受け取られているようですが、根はもっと深い。

そうは言っても日本に旅行で来る韓国人の数が大きく伸びるなど、矛盾した現象も起きていて、日韓の実状はよくわからない。そうした『頭の中』」どおりに行かないところが韓国の面白いところであり、興味を惹きつけて止まない理由の一つでもある。だからこそ、現在の非友好的な日韓関係の背景に何があるのか、ないのか、何が変わったか、変わらないのか韓国の内側から見てみたい。

それともう一つ、朝鮮式の城跡が見たかった。これまでも水原(スウォン、 ソウルの南およそ30キロ)の華城跡やプサンの金井山城などには足を運んでいるが、どうも全体像がつかめない。私たちが考える『城』というイメージに合わないような気がしてならない。実際に見た城の数が少ないせいも」あるだろう。ならば、もっと見て回ろう、というのが趣旨。
 
と言う訳でこれまで行ったことの無い全羅南道の全州(チョンジュ)市、南原(ナムウォン)市、から河東(ハドン)に抜けて慶尚南道に入る道を取ることにした。実はこのルートをとったのにはもう一つ理由がある。慶長の役(1596~15989)を迎え、文禄の役に続いて再び漢城(現ソウル)目指す秀吉軍は二手に分かれてチョンジで合流することにした。そこからソウルに登る道を取った。河東(ハドン)から南原(ナムウォン)、全州(チョンジュ)はソムジン江に沿って北上するルート。私は逆に南下するルートを取る。いずれも韓国有数の観光地。一度通って見たかった。あれも見たい、これも見たい。欲張りな旅になりそうです。

ソウルから全州(チョンジュ)まではKTX(韓国の新幹線)を利用した。ソウルから釜山に向かうKTXは1時間に2本は出ているのに、全羅道に向かう線は驚くほど少ない。ソウル金浦空港に11時に到着して一番早い全州行きのKTXは14:20なので出発駅の龍山(ヨンサン)駅で2時間ほど時間待ちしなければならない。


ところが切符を買う時に「席はありません。」と言われ、予想もしなかっただけに大いに慌ててしまった。「スタンディング(立ち席)ならあります。」という。KTXがだめならセマウル号なりムグンファ号なり、普通の急行や特急がないか調べてもらっているうちに「ひょっとして、おひとり?ひとり分ならKTXに席あります。」 私は何も言っていないのに先方が勝手に二人旅、と決めてかかっていたようです。面白いですね、そういう社会の視線。

チョンジュまでは1時間40分。漢半島の穀倉地帯を駆け抜けた。
朝早く羽田を発って全州に着いたのは午後4時過ぎ

そろそろ夕暮れ 辺りは・・・。


ご無沙汰していた2年の間に韓国はさらに力を蓄えたのか、若さに満ち満ちているように見える。韓国経済がうまく行っていない、とか工事の受注量が20%減少した、といった記事が日本の新聞だけでなく韓国の主要メディア(日本語版)でも声を高めているので繁華街はどこも静かだろう、と想像していたのが拍子抜け。若い人のエネルギーを見ているとどこまでこの国は突っ走るのだろう、と考えてしまう。国土のあちこちで相変わらず工事が続いているじゃないですか。

チョンジュは全羅道の代表的な都市であり、朝鮮王朝を打ち立てた李家の出身地。人口65万人。地下鉄はないけどバスがあちこちにひっきりなしに疾駆している。チョンジュでやりたいことが3つあった。チョンジュ風ピピンパと名物と言われるコンナムルクッパ(もやしスープ)を食し、全州城の痕跡を目にすること。宿にチェックインの後、まず豊南門(プンナムムン)に向かう。
豊南門(プンナムムン)

この一角以外は驚くほど近代的で、のどかで、にぎやかな街


豊南門というのはチョンジュ城で唯一形を残しているもので、『ここに城郭が建ったのは高麗時代であるが、慶長の役によって1597年に焼失したものを1768年に立て直した。現在のものは1980年に再建。』と現地の案内板に書いてある。石垣は日本で言えば『切り込みハギ』になるのでしょうか。継ぎ目がきれいに切れていいます。時代的には新しく見えるが、早合点は禁物。

城と言っても石垣で街を取り囲む中国式の城郭都市のことで、有事の際には城として機能する。韓半島では邑城(ゆうじょう、ウプソン)という。李王朝のお膝元にしては門はやや小ぶり。チョンジュ城を思い起こさせる遺跡は他に残っていないようで、秀吉軍との戦いは想像すらできない。

戦いと言ってもその時、1597年8月24日、右軍と左軍に分かれてチョンジュに到達した宇喜多秀家、小西行長らは何の抵抗も受けずにチョンジュ城に入り、城を破壊している。チョンジュ城の総大将はすでに逃亡していた。『1597年に豊南門が焼失した』」というのはこの時のことだろう。

チョンジュは朝鮮王朝を開いた李成桂(りせいけい、イソンゲ)の出身地であるだけでなく、全羅道の政治、経済の中心でもある。全羅の『全』は全州のこと。ちなみに『羅』は羅州(ナジュ)を指し、ここより南にある古い町で古墳が多い。『全』も『羅』も、いずれの町も過去の栄光は大きくても現代では光州(クヮンジュ)が経済の中心になっているようだ。
朝鮮王朝ゆかりの地があちこちに


チョンジュは『朝鮮王朝の故郷』が売りの一大観光地になっていて、旧市街は朝鮮王朝カラー一色です。朝鮮の伝統的民族衣装を来た若者があちこちを闊歩していますが、これはレンタル。でも街を華やかに彩ってくれていいですね。日本だったらここに人力車が混じるだろうなぁ。

慶基殿(李成桂や朝鮮時代の遺物を展示)の北側の道路に『東門跡』と書いたプレートが埋め込まれていた。豊南門が南を守る門なら、東門は東側を睨む門。その位置から推し量るとあまり大きな城だったとは思えない。

韓屋と言われるオンドル部屋に宿泊

さて夕ご飯に食べたチョンジュ風ビビンパは14000ウォン(約1400円)。チョンジュ・ビビンパのご飯はただのご飯ではなくて、出汁がきいているという。そういわれればそうかも。確かに美味でした。伝統的なビビンパを注文したら石焼ビビンパが出て来たけど、石焼ビビンパは昔からあったのでしょうか。聞きそびれた。

コンナムルクッパはなぜ名物なのか食べる前も疑問に思っていましたが、食べた後もやはり理解できません。もやしのスープ、ですけど。翌日の朝に食べましたが、5000ウォン(約500円)。一度食べたからもういい。それにしても韓国は朝食を出す食堂が多くていいですね。お城が残っていないので食べ物の話になってしまいました。

秀吉軍の記録については 旧参謀本部編「日本の戦史ー朝鮮の役」(徳間文庫)を引用させてもらいました。

3 件のコメント:

  1. 邑城はそれほど大きくない場合が多いです。 東莱邑城や水原華城が例外だと思います。

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  2. 漢陽都城、北漢山城、南漢山城、三年山城、海美邑城、楽安邑城、高敞邑城などがおすすめです。 特に、楽安邑城は朝鮮時代の官庁、民家、居酒屋、通りなどが保存状態が非常に良好で、南漢山城と北漢山城は朝鮮時代の山城の様子を如実に感じることができます。

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  3. 水原華城は時代も下るので大きく派手ですよね。南韓山城、三年山城はコロナが収まったら行きたいと思っています。

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