七尾市から七尾湾沿いにおよそ30キロ北にあって、JR七尾駅から1時間に1~2本の電車が穴水駅との間をおよそ40分かけて運行しています。JR金沢駅からの接続も良く、ほぼ1時間に一本の割合で出ていて、所要時間は2時間40分ぐらい。
城跡は現在「穴水城址公園」としてきれいに整備されています。穴水湾の岸にせり出した尾根上に造られた山城である。穴水町は人口7,000人。たまに車が脇を通る以外、すれ違う人もいないくらい静かな街です。駅前の道をブラブラ歩くこと10分、村役場の裏手に城跡への登城口がある。(下の縄張り図でK)
コンクリートの階段がジグザグ状についていて、登りはかなり急こう配で11月初めにしてやや汗ばむくらいだ。60メートル少々の高さなので当然だろう。何回かの折れの後、帯曲輪状の平坦地に出る。添付した縄張り図では D と表記されている個所にあたる。
黄色の部分が車道 現在北に向かう道路が追加されている。 |
登城路を登りながら気がついたのは、周りに小規模な平坦地が多く見えることだった。雑草が多くてそれぞれの広さは判別できませんが、段々畑が連なったような感じ、と言うのがぴったりかもしれない。曲輪 D はきれいに草刈がしてあって東側に曲輪 C(伝二の丸)への段差と、本丸と伝えられている曲輪 A への段が見え、反対方向には穴水の海と街の広がりが見える。曲輪 A(伝 本丸)の標高は61.7メートル。
曲輪Dから穴水湾方向 左側切岸の上が「伝 二の丸」 |
曲輪Dから「伝 本丸」方向 右側の切岸上が「伝 二の丸」 |
「伝 二の丸」を回る曲輪Dの突端 穴水湾を望むいちばん公園らしい場所 |
曲輪 D は C「伝 二の丸」曲輪を取り巻くように屈折し、そのまま曲輪 E (伝 三の丸)と 曲輪 F に続いている。歩いた感じでは本丸の南側に二の丸が接していて、その周りをぐるりと帯曲輪が取り巻いているように思える。
曲輪C「伝 二の丸」 |
「伝 二の丸」との段差は見た処1.5メートルから4メートルぐらいまでで、場所により差がある。鋭角の切岸になっていて、高さは余りないが、簡単に超えられそうでもない。ところで曲輪の中を歩きながら何か違和感が続いていることに気が付いた。何かが欠けている気がしてならない。
山城なら当然見受ける土塁がない、のだ。曲輪の周囲を灌木が覆っているのを見ててっきり土塁だと思っていたが、違う。そう思って気を付けて曲輪の隅をもう一度見て回ったが、やはりどこにもない。
帯曲輪F 切岸はここが一番高そう、3.5mくらいか |
土塁状のH (中央から左の盛り上がり) |
曲輪 F は そのままGに続く。ここは現在駐車場とトイレが設置され、崖側には「穴水城」の碑と案内板が置かれている。その南側に突き出た形の H は何なのか?
巨大な土塁に見えるが、自然の地形かもしれない。南に広がる穴水湾を見張るのに絶好の位置にある。
ここで「本丸」と伝わる曲輪 A から周りを見てみよう。駐車場の北に登り口があり、4メートルぐらいの切岸を登るとやや広めの削平地が現れる。ここは草が刈られていて歩きやすく、周りもよく見えるが、周囲の様子は草と木にさえ切られて残念ながらよく分からない。
曲輪A |
曲輪Aから隣接するB-1を見下ろすが...。 |
現在いる曲輪 A 「伝 本丸」の北側に接続する B-1 は目測で2,3メートル低い削平地のようだが、木々と灌木に遮られて現状を推し量ることも難しい。
恐らく公園として町の人が使っているのは私が歩いてきた本丸、二の丸、三の丸を中心とする一帯だけのようだ。
駐車場へは現在街中から車道が通じている。
車道から見るB-1 |
車道から見るB-2 |
駐車場から15メートルぐらいその車道を麓に向かって歩くと左に B-1 、右に B-2 があるが、土地の傾斜や周りの形態から見て二つの曲輪は、おそらく車道を通したことで生じたもので、元来一つの曲輪であったようだ。平坦地としては一番広く、おそらく居住空間を含めた重要な建物が建てられた場所であろう、と見られている。
左側の曲輪の連なりが徐々に高くなるのが良く分かり、最上段が2メートルを超えて平面が見えなくなるころに左に堀切らしい空間 I が現れる。堀切はこの先にもう一ヶ所ある(J)と縄張り図には示されているが、確認できなかった。道路を通した時にかなり地形が崩されたのだろう。
B-1から段々状にせりあがる曲輪 肉眼では良く見えるのですが…。 |
堀切I 樹や葉が多くて土地の形がよく見えません。 |
残念ながら城跡の隅々まで見て回ることはできなかったが、城の形は良く原型をとどめているように見える。しかし土塁は他の場所でも見られなかったし、石積みもない。空堀も、少なくとも大がかりなものは見当たらない。1990年の調査報告書にも「土塁・石塁・石垣などは確認されていない。」と書かれている。
山城ならば曲輪の他には土塁、空堀が必ずある、と思っていたのにここは違うようだ。虎口と思われる明確な「区切り」も見当たらない。戦闘より居住性を重視したものかもしれない。
七尾城陥落の後、織田信長軍が管理したり、前田利家が最終的に手を加えた可能性があるにも関わらず、織豊系の手が加えられた痕跡もないようだ。
長氏は源頼朝によって穴水に地頭として派遣された長谷部 信連(のぶつら)を始祖とする一族で、やがて穴水を拠点とする国人領主として奥能登の地で勢力を伸ばすに至った。七尾城が上杉謙信により落城した折、穴水城も同時に落とされ、400年に亘った長氏の支配はここで一旦終わります。しかし上杉謙信の死と織田信長のこの地方への進入に伴い、息子の長 連龍(つらたつ)が穴水城への復帰を果たしました。しかし能登が前田利家の支配に委ねられるに伴い、長氏は前田利家に従がう事となり、穴水城は間もなく廃城になったと見られている。
長家は加賀前田家の重臣グループ「加賀八家(かがはっか)」の一翼を担い、幕末まで百万石を支えることになる。
城跡のちょうど真下、湾に面した「穴水町歴史民俗資料館」には長谷部 信連と穴水城に関する展示がある。穴水城に関する情報は縄張り図を含め、この資料館で入手した「穴水城跡 調査概要報告書」(平成2年、1990年)に依った。
(縄張り図には位置を分かりやすくするため、A,B,C... 表記を追加した。)
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