2013年8月14日水曜日

八王子城 敷石に焼きついた炎

 

炎上した館の礎石に残る柱の跡をあかずに眺めている。

石に残る焦げ跡は生々しく、まるで一週間前に起きた火災現場を見ているような錯覚さえ覚える。この上にあった建物を残らず炎上させ、焼きつくす炎が見えるようだ。

とはいいながら城主の館が豊臣秀吉軍の襲撃で炎上し消失したのは1590年だから、423年も前のこと。ちょうど今頃だ。
グリーンのX印が北条氏照の居住空間、御主殿跡
東京都教育委員会「東京都の中世城館」の俯瞰図を使用

現在史跡公園として公開されている八王子城「御主殿跡」の庭園から池跡が出土したのにともない、八王子市による現場説明会が8月10日(土)にあった。朝日新聞にも記事が出ていたので気づいた人もいるだろう。新聞に書かれるくらい珍しいことなのだが、実感として受け止めた人は少ないかもしれない。

池?あっそう。それで?

さて土曜の朝、中央線で踏切事故があり高尾到着が遅れたのでタクシーをひろったら運転手さんが「何かあったんですか城跡で。私だけでもう4回目ですよ、今朝から。」








いつもは静かな御主殿跡は確かに大勢の人であふれていた。午前10時30分からの説明会には100人ぐらいはいただろうか。タクシーで来た熱心な人もいるのだ。少なくとも6,7人。

実をいうと、今回の発掘調査で池跡が出たことは偶然10日ほど前に御主殿を通りかかって耳にしてはいたけど、10日に市が発表まで公にしないでほしいといわれていた。今はインターネットで一瞬にして情報が駆け巡るから、情報管理はほんとタイヘン。
こちらは丸い柱
 
こんな形で礎石が並んでいます。

実は私は池よりも同時に出土した敷石の焼け跡に関心があった。高温で焼けた柱の形をくっきりと残しているのだ。これだけきれいに柱の形が残っている敷石はもう見られないかもしれない。もう一度見たい。

さる7月30日。旧暦では6月23日。天正18年(1590年)のこの日、前田利家、上杉景勝、真田昌幸ら北陸から小田原に向かった秀吉軍の猛攻にあって八王子城が落ちた日だ。その落城の日に立ち寄った城跡で落城の炎に向き合うことになるとは・・・さすが名高い心霊スポット。

その時、池跡も見せてもらった。ところがその池跡は実は全体の半分で、さらに奥に広がっていることがわかったそうだ。現場説明会では池は倍の広さになっていた。
 現場でもらったパンフ
だいだい色で囲ったのは今回の発掘場所   ブルーは追加された池跡
 巨大な石を囲むように池があった  7月30日撮影

7月30日撮影

池は砂利を敷き詰めた上に粘土を敷いて水を溜めたと見られるが、堆積物はなかったという。使用された期間が比較的短かったのだろうか。館も庭もまだ新しいうちに消えてしまったかも。
小田原城 御用米曲輪の館跡 平成25年2月

礎石は八王子城の方が立派?














八王子城から見れば本家にあたる小田原城の御用米(ごようまい)曲輪でも庭園と池の跡が発見されたが、中世の庭園跡の発見は関東では少ないそうで、実態はまだ分かっていないそうだ。これからの研究成果が楽しみです。






敷石に残る焼けた柱の跡は前回の発掘でもみられたそうですが、今回のものほどはっきりしていなかったそうで、発掘を担当した人も驚いていました。そういえば火災によって焼けた土は小田原でも見られましたが、柱の跡は見なかった。

「発掘した遺物は埋め戻す。」が原則です。

「燃えさかる炎」の跡もいずれそっくり土の中に帰ります。発掘された遺物としての運命には逆らえません。赤茶けた焼土と見た人の記憶の中に再び封印されるのです。

2013年6月28日金曜日

津久井城の泣かせる話

城山には石碑が立っていることが多い。私の数少ない経験では明治、大正になって遠い昔を偲んで誰かに書いてもらったものが多いようだ。上州名胡桃城には徳富蘇峰が筆で書いた城名が石碑になっているし、八王子城の山頂曲輪には「落城の時」が漢文で坦々と記されている。

津久井城の本城曲輪には「築井古城記」と銘打った石碑が立っている。漢文なのでいつも無視していたが今回偶然文化13年(1816年)という建てられた日付と建立に携わった人の名前を見て案内板を読む気になった。

帯曲輪から見上げる本城曲輪 石碑は矢印の先


「築井古城記」



題を書いたのは松平定信(老中、徳川吉宗の孫、寛政の改革)、文章は林大学頭、筆は源弘賢(ひろかた)・・・。どこかで聞いた?そう、日本史で習った江戸期の著名な名前が並ぶのでつい引き込まれてしまったのだ。碑を建立したのは島崎律直(ただなお)という津久井城根小屋の住民でかつて津久井城主内藤景豊に仕えた家臣の子孫だという。

原文は漢文だが、案内文はフリガナをふんだんにふり現代文に近い文章に直してある。城跡の地形描写の後、簡単にまとめると;

『津久井城を築いたのは築井太郎二郎義胤。北条時代の城主は内藤景定。その子に大和守景豊と景友があり、景友の子に景次。』

『安部正勝(家康の家臣)が景次の武勇を聞いて召し抱えた。その後景次の子孫は安部家との縁で福島城(広島県)、高取城(奈良県)の家老へと続いている。』

『(落城で)景豊が滅んだ後、この地にとどまった家臣、島崎掃部の子孫が源弘賢に石碑建立を依頼して来て言うにはー

亡き主君の世はすでに遠くなり、城跡もすたれてしまっているのは遺憾。父と私はなんとかかつてのご恩を後世に語り伝えたい、とかねがね思っていたが、その父もなくなり・・・。』

『北条氏といえば5代にわたり8国を併呑し、百の城を支配した。当時これだけの領域を支配したのは毛利氏と北条氏以外にない。かつて小田原を過ぎて宗雲寺を訪れたが往時の権勢は失われ、哀れでさえある。国滅びても仕官した者は多いはずなのに、昔を忘れたのか。それにひきかえ陪臣であるのに200年昔を忘れないとは。』

根小屋には現在も島崎性の人は居住しているが、島崎掃部と関係のある人かどうかは不明という。石碑建立に出費がかさんで後々相当苦労した、との言い伝えもあるとか。
「築井古城記」


「古城記」の立つ土塁上から本城曲輪を見降ろす

200年前の主君に心を寄せ、当時トップクラスの政治家、文人を動員してまで石碑を建てようとした背景が何なのかよく分かりません。依頼主で、家臣の子孫島崎氏は小山田与清(ともきよ、現在の町田市生まれ)という当時を代表する文人と縁続きだったらしく、その縁で小山田の友人の源弘賢さらに林大学頭へと連なったらしい。



これだけの人を動かしたとは、今の世ならさしずめ大河ドラマに取り上げられるくらいのインパクト・・・は、ちょっとオーバーかな。

ところが話はここで終わらない。

「古城記」には津久井城落城時の城主は内藤景豊と断定しているが、この人は文献等で実在が確認できていません。最近の研究で落城時の城主は内藤綱秀との説が受け入れられているという。永い間信じてきた城主が実は別の人だった、というのは地元にとってどんな感じなのでしょうね。そういえば昨年の一回目の開城祭で演じられた落城シーン、城主はしっかり内藤綱秀でした。

では内藤景豊とは誰なのか?「古城記」は何を根拠に書かれたのか?芋づる式に謎が深まります。今後の研究成果に期待したい。

恩を感じる旧城主の名前を間違えた?かもしれない、といってもこれだけ切々と訴えかけてくる記念碑に接したのは初めてです。今も地元の人が津久井城を大切に守っていることとどこかで繋がっているのかもしれません。きっと家臣、領民に慕われる城主だったのでしょうね。

2013年6月25日火曜日

杉の木さん見た? 津久井城の最後

相模国北の境にある津久井城へは京王線橋本駅からバスで行くのがいちばん早い。私は家が遠いので車を利用、中央高速八王子ICを降りて16号線を南下、橋本から413号線を相模湖に向かうルートをとった。公園としてきれいに整備されているのに豊かな自然が残り、遺構もよく残っていて中世の山城に遊ぶ心の高まりを味わえるので気に入っている。

城主は内藤氏。甲斐と武蔵の間に位置していることから、武田家と北条家の間にあって終始微妙な戦略的バランスが要求されたらしい。最終的には小田原北条氏の一員として秀吉の小田原攻めで落城、廃城となった。
相模川の対岸(北)から見た城山  手前は津久井湖 (2012年4月撮影)

朝の8時半。城山を管理するパークセンターの人たちがまだ朝の体操をしている脇を通りすぎ、簡単な資料をもらって城跡に向かった。根小屋地区からまっすぐ山城エリアに向かう登り道はやや傾斜のきつい「男道」と緩やかだが長い「女道」がある。きょうは「女道」をゆっくり歩いた。城山の南側にある根小屋地区から山をぐるりと回って北側の相模湖側から城に入る道で、長い。20分くらいはかかる。

根小屋のある城山の南斜面 

私は竪掘(たてぼり)を探しながら歩いたので、さらに時間がかかった。山を回る道なので、頂上部分から落ちてくる竪掘を横切る形になるので見つけやすい。草木が育つシーズンなのでこまかい地形が見えにくくなってはいるけど、じっと眺めていると堀の窪みが見えてくる。

日曜の朝とはいえさすが山城を歩く人は少ないだろう、と思ったら大まちがい。散歩する人がかなりいるのだ。静かな湖畔の住宅地に車でやってくる人も結構いるようだ。城というより自然を重宝する人たちと見受ける。

「男道」も「女道」も公園として整備する時につけた道だと思うが、ちょっと草の生い茂った斜面に足を踏み入れると、曲がりくねった細い道が残っている。根小屋地区と山頂部を結んだ往時の通路か、と道なりに歩きながらしばし想像の世界に遊ぶ。山城歩きの面白いところは想像の羽を広げられることです。ここはたっぷり遊ばせてくれます。
「女道」をそれた斜面  けもの道?大手道?


「女道」から見上げた竪掘 

広い山のなかに丁寧な道案内が立っていて、まず道に迷うことはない。植物や動物を紹介する中にヘビの説明があった。かなり棲息しているらしいが「ヘビは元来人に害を与えるものではありません。怖がらずにそっとしておいて。」といった意味の文面にうれしくなった。どこの山へ行っても毒々しく『マムシ注意!』と書いた看板が目についてやたら恐怖心をあおるのに、ここはヘビとの共存を勧めている。マムシが棲息していないからかもしれないが、パークセンターの自然に対する姿勢をみた気がした。「ヘビがどうしても動いてくれなかったらこの番号に連絡を。」 優しいですね。

出ました、さっそく。

本城(主郭)を取りまく土塁の上を歩いていると太い尻尾がうねります。私が近づいてもガンとして動きません。「そっとしておいて」という文面が目に浮かび、引き返しました。日向ぼっこを邪魔しても悪いし。
本城(主郭)曲輪に残る土塁

米蔵があった曲輪へのこれは虎口?

本城への登り口の堀切  両側に縦掘が下る
 
木々の緑の間からわずかに見える津久井湖

本城曲輪に近い太鼓曲輪から直下の家老屋敷跡を見降ろす

本城と並んでもう一つの中心、飯縄(いいづな)曲輪に向かう。本城を下ってすぐ、大きな堀切がたのもしい。飯縄曲輪は数個の曲輪が固まっているが、その外側に巨大な杉の木が立っていて案内板には樹齢900年と書いてある。900年前といえば西暦1100年ごろ。京の都がまもなく保元、平治の乱に巻き込まれるころ。平清盛の時代からこの杉はここに立っているのですね。
 
わかるなあ この気持ち
飯縄曲輪に残る土塁 この上に飯縄神社

ところで6月23日はすぐ近くの八王子城が同じく1590年に落城した日で、二日後の6月25日にこの津久井城も落城している。大きな戦闘はなかったと伝えられている。そういう場合は「開城」というのが正しいらしい。

小田原北条氏が滅び、関東の多くが徳川家の直轄領となり、この津久井も城は取り壊されて内藤氏の館跡に代官の陣屋が置かれて明治まで続いた。その陣屋があった広場でこの日、第423回津久井城開城記念、と銘打ったお祭りが行われ、戦国時代の衣装をまとったボランティアによる「甲冑劇」が上演された。
城主の館跡 背後は城山
 




 
 
こうして津久井城は武田勢を押し返した
 

423回というのは「開城」した1590年から423年目という意味で、祭は昨年始まって今年が二回目、。この日の演目はオリジナルで、1524年津久井城を攻める武田信玄の父、武田信虎と城を守りぬいた城主内藤朝行(ともゆき)との合戦をテーマにしたものだ。

甲冑劇は今やいろいろな場所で演じられるようになりましたが、本物の城跡で演じるのはあまりないようです。時代物の上演には贅沢な舞台ですね。ホンモノですから。ところで昨年撮った写真の一枚に、見知らぬ人の姿が映っていたそうです。見なれた場所でなつかしい光景を眼にして400年を越えて出てきた?真偽の詮索はしないことにしています。

追記:飯縄曲輪下の樹齢900年の大杉は8月11日、落雷のため炎上、消失しました。惜しいことをしました。(平成25年8月16日 記)

 

2013年3月22日金曜日

松井田城 400年の眠り



   上州松井田城は小田原北条氏の領国では北西の果て、信濃との境目にある城だ。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めでは北陸から碓氷峠を越えて領国に入った前田利家、上杉景勝、真田昌幸らが率いる3万5千人をまず迎えたのがこの松井田城だった。

   東海道を西から来る秀吉軍が初めに攻め落とした箱根の山中城と事情は似ているかもしれない。しかし、こちらは半日で落城してしまったが、松井田城は3月~4月にかけて1カ月近く持ちこたえている。

   城を守っていたのは大道寺政繁。1か月大軍から城を守ったもののあまりの大勢に大道寺は前田利家に和議を申し入れて城を明け渡した。水場を抑えられたため、ともいわれる。

   難攻不落を誇った城は、今も落城当時の形態を色濃く残しているという。3月15日「八王子城とオオタカを守る会」が企画した見学ツアーに参加した。

   八王子城落城は旧暦6月23日。松井田城で大道寺政繁が降参した2ヶ月後だ。もしこの城が落ちなかったら八王子城の運命は変わっていたかもしれない。落城は免れなかったとしても、もう少し持ちこたえたかもしれないし、犠牲も少なかったかもしれない、と考えるとヒトゴトではない。平成の八王子衆の気分は早々と天正へタイムスリップ。

北側に安中市松井田町高梨子を望む   当時の幹線道はここを通った


   高速上信越道を松井田ICで下りて国道18号線を安中方面に入ると数分で左側に入る道があり、「松井田城跡」の案内が出ている。

   駐車場がすでに曲輪の中にあって辺りは平地が広がっている。おそらく家臣の屋敷などが並んでいたのでは、と想像する。北の方に高梨子(たかなし)の街が望まれる。当時は東山道が通っていたので城は北を向いていたと思われる。しかしその後は中山道が城の南側を通るようになり、松井田宿が出来るなどして幹線道路の位置は当時とは違っている。

Aは連続縦掘 Bは連続土塁 黄色の線は大手道
大まかな位置を示したもので周囲の郭は省略


   城は広く、南北に1300メートル東西におよそ1000メートル、南側に東西に延びる尾根は比高130メートルあって北から南へ急なこう配が続く。南側はほぼ垂直な崖となっていて、主要曲輪はすべてこの尾根上、崖の上に連なっている。
   この南側の尾根の両側と途中を縦掘りや土塁で寸断することで東西の動きを制し、尾根から北に延びる支線にも堀切や縦掘をザクザク切りこんで敵の侵入や自由な移動を制限している。

堀切

横掘
 



主郭を見上げる

   駐車場から大手道を登り始めるとすぐ堀切にぶつかり、両側に縦掘が見えてくる。このあたりの道はまだ急ではない。かなり埋まっていて分かりにくくなってはいるが、横掘が走っているのが分かる。さらに見上げると主郭のある尾根がまるで覆いかぶさるように近づいてくる。あっちからもこっちからも矢が飛んできそう。

   大手道と並ぶ尾根上に連続縦掘がある、というのでまずそちらに向かう。今は土が埋もれて浅くなっているものの、当時の深さに修正しながら見ると「この道通さず」の激しい意気込みが伝わってくる。

連続した縦掘



   もっと激しいのが二の郭の西に続いている土塁の連続だ。土塁と空堀が交互に並んで、巨大な洗濯板のようになっている。初めて見る景観だ。しかも洗濯板に行く前に巨大な堀切があって、急こう配に足のすくんだ現代の兵士はロープを使わせてもらった。

15,6メートルはある高さ

 
連続土塁

土塁が並んでいるのがわかりますか?



   西側から尾根伝いにアプローチするのはもう不可能、と思えるくらい土塁の連なりと深くて急な掘切の姿はすさまじい。

   二の郭と本郭の間に馬出しがあり、それぞれの間も深い堀切が走っている。このあたりの縄張りは小田原北条氏が入ってから造られた部分で大道寺郭と呼んでいて、この先はここに初めて城を構築した安中氏にちなんで安中郭と呼んでいる。表面を見るだけでもその違いははっきりとわかる。

   安中郭のすぐ下に枡形あるいはS字型の空掘りがあり、かつての虎口ではないかと見られているが、残念ながら鳥にでもならないと上からその形を確認することはできない。

大道寺二の郭

大道寺二の郭の前は妙義山 一歩先は絶壁

大道寺主郭


スリムな安中二の郭 大道寺郭に比べると線が細い

分かりづらいけどS字型の空堀

下から見上げる縦掘
 
水場



   水場は流れをせき止めたものだったようで、このチョロチョロと流れる小川は城をでる辺りですでに立派な流れになっているところを見ると、水量はかなりあるのではないだろうか。

   中世の城跡というのは、そのまま新しい城が建てられない限りほとんど畑として使用されるケースが多いが、松井田城は南側は絶壁、北は急こう配、東西はズドンと巨大な掘切で遮断。城内は畑にするには平場に乏しく、土地のアップダウンが激しい上に地表面はズタズタ。他に使い道がなかったからでしょうか、廃城となった後はそのままほっておかれたようです。おかげでタイムスリップ、やり易かったですね。