2014年11月23日日曜日

停まった時間(1) 飛騨松倉城ふたたび

10月28日 火曜日
左に穂高連峰       主郭から東を見る      右に乗鞍岳 

南南東に御嶽山

こんなに晴れ渡った空はめったにお目にかかれない。東を向いた右側には乗鞍岳の全貌が見える。左へ目を移せば笠ヶ岳と穂高連峰だ。振り向いた西側には白山が見えるというが、この日は残念ながら雲で見えない。すぐ近くの御岳山は木々の間に煙を上げている。
搦め手側  右に櫓台  前方に主郭外曲輪とその下に帯曲輪

櫓台を見上げる

櫓台をバックに三の曲輪  左前方は主郭外曲輪の石垣

戦国時代に築かれたあと、江戸時代に入って廃棄された城が気に入っている。江戸期に使用された城は規模も大きくなり、石垣もさらに高く積まれたり、と見た目は華麗だが戦国の世の息吹は感じられない。

捨てられたり、廃城となった城はそこで時間が停止してしまい、石垣は崩れ、苔むし、石の間には木すらはびこって自然に帰ってしまっている。城域は後世に比べ、おしなべて小ぶりなものが多い。特に石垣がいい。野面積みといわれる自然石を利用したものから軽く手を加えたものまで、比較的初歩的な手法で積んだ姿がいい。

そんな城を求めて飛騨から因幡まで、比較的畿内に近い地方を歩きました。関東にもそういう城跡はたくさんありますが、織豊系の石垣となるとやはり関西周辺が多いようです。どうして石垣を美しいと感じ、惹かれるのか理由は分かりません。美しいと思う石垣を続けて見ていると何か共通点が見えるかもしれない。

まず選んだのは飛騨高山の松倉城。3年前に初めて来た時すっかり気に入ってしまった。保存の良い総石垣のコンパクトな城はどこから見ても絵になった。
三の曲輪から見た東南の隅櫓     黄色の線の中に
石段が見えていたが写真では草が多くて見にくくなった

うすいグリーンの線が搦め手から入ったルート 黄色の輪は階段状の入り口  現場の案内板

まるで周りの景色に合わせたかのように、姿形が美しい。城が一回り大きくなる以前のこじんまりしたまとまりが箱庭を見るようで、なんともかわいい。武よりも美を感じさせるとは、城にとっては聴きたくないほめ言葉だろう。

いずれにしても総石垣、しかも見栄えのする城は周りに類を見ない。高山周辺に城跡はいくつか残っているけどいずれも土造りで、石垣を多用するのはここだけだ、と散歩にきていた近所の人が話してくれた。松倉城がこの地方の中心であったことの証だろう。
主郭のほぼ全域
松倉山の頂上にあって標高856.7m 比高およそ300m

二の曲輪から見る主郭2重の石垣   前方の石垣は草で見えにくい

主郭を回る石垣

「姿形」ばかり強調しているようで申し訳ないので城の経歴も簡単に触れておく。永禄年間(1558~1570)に飛騨を支配していた三木自綱(みつき これつな)が築城したもので、一説に天正7年(1579)ともいう。織田信長に組みしていた三木自綱は、信長が本能寺で倒れたあとの目まぐるしい権力闘争に巻き込まれてしまう。

信長亡き後に越中に侵攻した佐々成正と組んだのが運の分かれ目、三木自綱の運命は大きく揺さぶられる。天正13年(1585)に佐々成正を追う秀吉が送った金森長近に攻められて落城してしまったのだ。堅城を誇った松倉城が落ちたのは味方の裏切りだったという。
二の曲輪から見る主郭 大手は立ち位置の後方になる

主郭虎口より三の曲輪を見下ろす

主郭外曲輪の石垣の折れ  虎口は右


松倉城に入って新たに飛騨の支配をj始めた金森長近は、しかし、3年後の1588年に街の反対側に新しく高山城を築いて移ってしまう。松倉城は廃城となり時は停まった。

三木自綱と信長とのつながりから早くから織豊系の石垣を用いるようになったのか、金森長近が入ってから大きく手が加えられた結果なのか、はわからない。想像世界を好きなだけ歩き回れる城跡です。

岐阜県高山市の飛騨民俗村・飛騨の里から舗装された道を登ると、トイレ付きの休憩所と駐車場があります。そこから歩いて7,8分。城跡の直前で中規模な堀切を越えます。

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