地元の人以外には馴染みのうすい名前かもしれませんね、木の芽峠。
ずいぶんかわいい名前をつけたものです。春になって木々の枝をびっしりと埋める新緑の芽が思い浮かびます。
福井県の嶺南地方と嶺北地方を分ける山の峠です。大和王朝の昔から畿内と『越』を結んだ道が通っています。『越』と呼ばれるようになった経緯は知りませんが、険しい山道を『越えて行く』ところからついたのでは、と勝手に思っています。かなり険しい道だったのでしょう。山道を越えてようやくたどり着いた果てしのない大地の連なりを「越の国」と呼び、やがて越前、越中、越後に政治的に区割りされていったのではないでしょうか。
峠が雪に閉ざされた冬が終わり、木々に芽が吹き出す頃になってようやく『越』に通じる道が歩けるようなったのでしょう、とこれすべて想像。
現在、JR北陸本線の北陸トンネルと北陸自動車道のトンネルが下を貫通し、国道365号線が脇を通っています。かつての峠道は今も江戸、明治の面影を残していて、休日には多くのハイカーが歩いています。すぐ下にスキー場が出来ていて、雪のない季節にはゲートボールに興じる近くの人たちののどかな動きを、停まったままのスキーリフトが暇そうに眺めています。
JRの駅でいうと今庄(いまじょう)と敦賀の間です。
この日に見た西光寺丸城址 |
私はかつての北国街道に興味があったのと、峠の周囲に残る山城をぜひ見たかった。木の芽峠山城群と呼ばれ、全部で4つの山城が確認されています。
畿内からの出入りには必ず通った道ですから城があってあたりまえです。
かつての北国街道 今庄側から峠に向かう |
峠には一軒の家が建っています |
敦賀方面に下る北國街道 この部分の石畳は江戸期からのもの |
採ってきた来たばかりのキノコを洗っているこの家のご主人に城の場所を尋ねたのですが、あまり良い顔を見せません。雑談しているうちにそのわけが分かりました。城跡といってもすべて所有者のある山林の中です。季節ごとの山菜が取られたり、勝手に歩き回られて荒らされたり、生活の場に直接足を踏み入れる私たちはあまり歓迎されません。
つい忘れてしまいがちです |
ひたすらこの標識を探しました |
主郭への虎口・・・らしきもの |
主郭 周りに土塁 |
直ぐ近くに西光寺丸城と呼ばれる城跡があるので、道を教えてもらってそちらに向かった。もともとどんな城跡なのか詳細はわかりません。4つ残っているといわれるうち、とりあえず一つでも見たい、というのがここまでやってきた理由です。
いろいろな城跡の巡り方があると思いますが、私はとにかく自分の目でまず見ることが好きで、縄張り図を含めて詳細な情報はその後で目を通すやり方です。見落とす部分は当然多々あります。気に入ったら改めて出直すことにしています。研究者ではないので、好きか嫌いか、がすべての判断のもとなのです。
遺跡に指定されている城跡なら現地に縄張り図を含めた簡単な案内がありますが、その時もまず自分で見回って想像の世界に十分遊んでから、縄張り図で確認することにしています。
主郭の入り口に立つ案内 |
「城ではたくさん人が死んだ」 無名戦士への供養塔でしょうか |
主郭を回る空堀の跡 かなり埋まっています |
西光寺丸は広範な地域に曲輪が展開されているようです。しかし実際に歩いてみると、主郭と虎口(らしきもの)、周辺の空堀(かなり埋まっている)は確認できましたが、それ以上は笹が繁茂していて歩けませんでした。主郭は2,30メートル四方で狭い方ではないでしょうか。
石垣を訪ねる旅で遭遇するまったくの土の城は、それはそれで新鮮でした。城跡だけでなく、北國街道も峠の石畳も時間が停止したような静けさに佇んでいました。
道がよくわからないので、スキー場から40分くらいかけて歩き、その結果往復で1時間かかった。しかし行ってみると峠の下に駐車場があり、車で登れることがわかったので次回はぜひ西光寺丸以外の城址にも足を延ばしたいものです。
国道365号線に戻って坂を下るとあっという間に敦賀でした。
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