越前の木の芽峠に向かう途中、小丸城から出土した文章を書き込んだ瓦を見ようと越前市に立ち寄った。越前市はかつての武生(たけふ)市で、はるか昔は府中と呼ばれ、越前の政治の中心であった街だ。
「越前の里郷土資料館」に展示されている文字瓦は残念ながら貸し出し中で、レプリカが置いてあった。昭和7年(1932年)、小丸城祉を発掘中に発見された瓦で、表面に織田信長軍の残虐な殺戮行為を非難する文章が刻まれていたことで知られる。
「越前の里郷土資料館」に展示されている文字瓦 |
焦点が合わず見にくいけど筆跡を見て欲しい(レプリカ) |
瓦が発見された小丸城というのは織田信長が天正3年(1575年)越前の一向一揆を平定して送り込んだ佐々成正が築城した平城。越前市の郊外に主郭と周辺の一部遺構が残っている。
瓦に書かれた文章は当時の一向宗に対する激しい弾圧行為について、目撃した人物がほぼリアルタイムに書き残したものとして注目された。
小丸城祉に残る石垣 |
瓦に刻まれていた文章とは
此書物後世二御らんしられ
御物かたり可有候
然者五月二十四日
然者五月二十四日
いきおこり 其のまゝ前田
又左衛門尉殿 いき千人はかり
いけとりさせられ候也
御せいはいハはつつけ
かま二いられあふられ候哉
如此候 一ふて書とゝめ候
ここに記すこと、後世の人の目に留まり
広く知られるようにして欲しい
というのは5月24日
一揆がおきて前田利家殿が
千人ほど生け捕りにし
罰として磔にしたり、釜ゆでにしたのです
その事実をしかと書留めておきますこの文章を詳細に読み解く能力はありませんが、見るだけで伝わるものがあります。展示してあったのはレプリカ(実物は貸し出し中でした)だったのでどこまでオリジナルに忠実かはわかりませんが、刻まれた字が達筆なのに驚きました。また文章も落ち着いているように私には思われました。
一揆に参加した農民か、目撃した住民が怒りに任せて書きなぐった、という体ではないようです。しかも教育を受けた人ではないでしょうか。前田又左衛門尉 殿、と丁寧に敬称をつけて書いているところを見ると織田方の人物と思われる。
瓦は自分で焼いたとは考えられないので、信頼できる職人に指示したに違いない。恐らくはそうした任務をまかされた、それなりの地位の人ではないか、と想像します。
でもなぜ城内の地中に埋めたのか?あまりにひどい、と憤ったことはわかるが、二度と陽の目を見ない可能性もある地中に埋めたのはなぜでしょう?
瓦が同時代に作られたものであることははっきりしているそうです。後世のねつ造ではないようです。その必要も思いつきません。あれこれ想像しても誰が、どうして?に思いつく力のないのが恨めしい。後は小説家の腕に頼るしかない?
そこから2,3キロのところにある小丸城跡に向かった。山城、せいぜいで平山城が一般的だった時代にこんな平城をつくるとは、とまず周りから2,3メートルしか高くない主郭を見て驚いた。周りに適当な高さの小山がいくらでもあるのになぜここに・・・。
主郭虎口 |
内側から見た主郭虎口 |
上に載せた石(真横から撮影) |
主郭はおよそ40m X 50mの方形をしていて、周辺に堀跡とみられる窪地が見られる他は一面の畑だ。道路の反対側にも城郭遺構では、とみられる土地の形が伺えるが、私有地のようで入るのが憚られる。後で調べると瓦が発見された隅櫓があるのはそこでした。
虎口から見る主郭 |
城郭が取り壊された後は地元有力者の庭園に利用されたのでは、と思われるくらい、広さといい石垣の配置といい、様になっていてきれいです。城跡、と表示してなかったっら庭園にみえるでしょう。
主郭 |
主郭脇(北側)の堀跡 かなり埋まっている |
主郭脇(西側)にわずかに見える堀跡 |
城跡を横断する道路から見た現在の城跡 瓦は道路の反対側から発見 |
またしても瓦を想う。
凄惨な殺戮にまったく無縁な静けさしか今は感じられません。しかしひょっとすると文章の続きを刻んだ別の瓦がどこかに埋まっているのではないか?発掘、あるいは何かの拍子にひょっこり発見されるのではないか、と期待してしまう。
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