有子山(ありこやま)城は兵庫県豊岡市出石(いずし)町の有子山(標高321メートル)頂上にある。出石の街のどこから見上げても石垣が見えます。
出石城の後の山頂に見える曲輪 |
出石は古くは但馬の国衙が置かれていたと伝えられ、早くから開けた土地です。有子山城は永禄12年(1569年)但馬の守護、山名裕豊(やまな すけとよ)が建てた城で、居住する館は麓にあった。天正8年(1580年)豊臣秀長の攻撃を受けて落城するまで但馬の中心として機能した。
豊臣秀吉の治世下、城主は幾度か変わったが、慶長5年(1600年)に城主だった小出吉政は関ケ原での報奨として出石6万石を安堵された。後を継いだ息子の吉英は山頂の城を捨て、麓に城を築いた。現在の出石城と城下町の始まりである。
有子山城は織田信長が全国制覇を目指して走っていたころから、秀吉の時代が終わるまでを生き抜いた城だった。今でも山頂の曲輪や石垣に戦国の面影が色濃く残っている。
出石城は有子山の麓に急な崖を背景に築城されていて、総石垣の美しい城です。私は江戸期の石垣より秀吉の時代の石垣が好きなので、目は自然と麓を越えて山頂を向いてしまう。きょうの天気予報は雨。できるなら降る前に降りて来たい、と急いで有子山を登った。
尾根を横切る堀切 |
ロープは延々と続く お世話になりました |
険しい山城はいくつか登りましたが、ロープを張った登城路は初めてです。ロープに捕まらないと立っているのも難しいくらいに斜面が急で、正直いって怖かった。
「主郭まで900メートル」「主郭まで800メートル」とまるで叱咤激励する声が聞こえてきそうな案内板を見ていると、確実に高度は上がっているのは分かるけど、その100メートルがなかなか進まない!
この日は「文化の日」で祭日。「お城まつり」と銘打った城下町出石の晴れの舞台で、近隣から多くの観光客が押し寄せています。駐車スペースの確保が大変でした。
高度を稼ぐにしたがって祭りの喧騒がだんだんを遠くなります。眼下の景色もどんどん広がります。山間のわずかな空間に息づく出石城下のこじんまりした佇まいが暖かく、かわいい。
突然右手の崖に石垣の段が見えてきた。こんな険しい崖にどうやって石垣を築いたのか不思議でなりません。恐らく土砂が崩れるのを止める「土留め」が目的だろうと考えていましたが、後で縄張り図で確認したら「井戸曲輪」と書いてある。どこに井戸があるのだろう、見えなかった。
「井戸曲輪」 急な崖に4,5段の石垣が見える |
黄色い線が現在の登城路 主郭に設置された案内板 |
まず目に入る第六曲輪 |
上から見ると |
第三曲輪を取り巻く石垣 上方に見えるのは主郭 |
第三曲輪の石垣は一番高く、周囲も長い |
主郭の石垣 右手は虎口の階段 |
白っぽい石を使った石垣は苔むし、全体的に柔らかな印象を与える。幅のさほど広くない尾根いっぱいに曲輪が登って行く。主郭はかなり広い。出石の街と周辺の山が一望に見渡せてまるで天下をとった気にさせる。しかし高所恐怖症の兵にはつらい戦場だったに違いない。
これだけ高いと祭りの音も小さく聞こえる。街がここからよく見えるということは町からもこの城がよく見えるということだろう。
主郭から見た出石の街 |
主郭と千畳敷を隔てる巨大な堀切 |
千畳敷は一番広い |
下の段は第二曲輪 |
有子山城は出石城が築かれた後、まったく使われなかったというが、さもありなんと思う。あの急峻な道はできるなら避けたいのが本音でしょう。
ところが私が登ってきた道、出石城の後ろから直登するあの道は当時の登城路ではなくて、別にあるそうです。出石観光協会にメールで問い合わせたら「本来の登城路は通行不能な状態で、しかも現在の登山道よりさらに急峻」だという信じられない返事がかえって来た。
あれより急な道ってあるのだろうか?エレベーターでも使ったか・・・。
麓の出石城 石垣は高く、広くなり趣は一変する |
出石城は有子山の急な崖を背にした総石垣の美しい城だ。白塗りの壁や櫓があるが、復元されたもので観光地出石の目玉となっている。この日、お城まつり」のため大変な人出で町中の移動すら難しい。ゆっくり散歩したい街ですが、今回は有子山城が目的なので次回に期待したい。
後に信濃の上田城から移ってきた仙石政明(せんごく まさあきら)が信濃のソバ職人も一緒に連れてきたそうで、出石はソバが名物。せめてソバでも、と思ったけどこの人出で蕎麦屋はどこも長蛇の列。雨も降り始めたことだし、ソバも次回にしよう。
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