中城グスクの石垣が醸し出す柔らかな曲線はとても印象的です。また第二次世界大戦中のアメリカ軍による被害をあまり受けていないため、築城当時の貴重な姿を多く残しているといわれます。
1853年に浦和沖に姿を現して日本を震撼させた「黒船」、その一行が日本に来る前に沖縄に寄港していて、その際に中城グスクを訪れたのですが、石垣を積み上げる技術を褒め称えた話が残っています。
実はこのグスクも護佐丸とゆかりが深い。1440年琉球国王の命により勝連(かつれん)グスクの阿麻和利に対する備えとして座喜味グスクの護佐丸が中城グスクに移りました。北の郭と三の郭はその際、護佐丸が追加した、と伝わっています。最長250m、最大幅83mと大型のグスクです。
城跡から南方 知念半島を望む |
正門の裏手のカンジャ―ガマ(鍛冶屋跡) 武具を作っていたとも伝わる |
正門(西向きの櫓門) 表の道路に向かって狭間がつくられている |
護佐丸とはどのような男だったのでしょうか。肖像画が残っていないので、容貌はわかりません。城づくりに長け、戦に長けた人物と評されています。山田グスク、今帰仁グスク、座喜味グスク、そしてこの中城グスク、と護佐丸が関係したグスクは世界遺産に含まれる3グスクを含む4つの代表的なグスクです。そしてこの地で亡くなりました。1458年、阿麻和利と戦う最中(1458年)に自刃して果て、グスク近くに葬られています。
「南の郭」から「一の郭」を見る |
一番広い「一の郭」 正殿があったグスクの中枢 現在 北側の石垣を調査、修復中 |
「二の郭」 |
石垣とは思えないソフトな曲線があちこちに |
中城グスクのすぐ外に墓があるというので、入場券売り場の女性に道順を教えてもらって探しましたが、残念ながらたどり着けませんでした。標識ぐらいあるだろう、と思ったのが甘かった。道に迷ってしまいました。
数百年に亘って語り継がれるほど地元に溶け込んだ人物ではなかったのかも…。それとも標識、見落としただけか?
0 件のコメント:
コメントを投稿