ひときわ高い丘の上に、石垣が遠くからも望まれる。今でも目立つくらいですから400、500年前ならもっと目を引いたに違いありません。近づいて麓から見上げるともっと威圧的な勝連(かつれん)グスクです。
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石垣は遠くからも目を引く |
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高さが威圧的 |
城跡からは中国の陶磁器類が大量に発掘されていて、幅広く海外と交易していたことがうかがわれます。その他東南アジアの陶器類、本土や高麗(朝鮮)系の瓦、中国、本土の小銭、玉類、同製品、鉄製品、甲冑なども出土しています。
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麓の休憩所で見た城跡の模型 左下/四の郭 その上/三の郭、二の郭(間に段差あり) 右上/一の郭 |
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登り石垣(左側) |
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登り石垣(右側) |
琉球の古謡「おもろそうし」では勝連の繁盛が日本の京都や鎌倉にたとえられていて、城下には人も多く、商業活動は盛んだったようです。
15世紀半ば、勝連グスクの按司となった阿麻和利は、統一王朝を打ち立てたばかりの尚巴志に対抗しようとしますが、尚巴志はやや離れた座喜味グスクにいる護佐丸を、近くの中城グスクに送り込んで対応に当たらせました。
中城グスクから勝連グスクまでおよそ13キロ。車なら30分、歩いても3時間くらいの近さです。
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上の郭に行くには長い坂や階段を登らされる 敵兵士を疲労させるためと上方と背後から攻撃のため
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「三の郭」への入口 |
しかし1458年、護佐丸が命を落としたのに続き、阿麻和利もまた間もなく尚巴志に滅ぼされてしまいます。出来たばかりの第一尚王朝に最後までたてついた有力按司の拠ったグスクがこの勝連グスクでした。
護佐丸、阿麻和利がともに命を落としたことで第一尚王朝に対抗する勢力がなくなってしまい、結果として王朝の安定につながったとみられています。この辺りに何やら本土の「戦国時代」に似た非情なざわめきが聞こえてくるようです。
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手前が「三の郭」 儀式などをおこなった場所と見られる |
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「二の郭」 右側の段を下れば「三の郭」 首里城正殿のような建物跡と思われる 奥に「一の郭」へ登る長い坂が見える |
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「二の郭(下)」から「一の郭」への入口 ここでも長い坂(左)を登らされる |
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いちばん高い「一の郭」から見た麓
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「一の郭」玉ノミウヂ御嶽 按司の守り神を祀った拝所 大きな岩は勝運を守る霊石 |
阿麻和利の死後勝連グスクは廃城になったとみられている。今も勝連グスクは柔よりパワーを感じさせる。標高約60メートル~98メートルの台地上に広がる城跡は総面積11,897平方メートル。
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