2013年2月20日水曜日

小田原城 御用米曲輪から庭の跡

 
   小田原城の御用米曲輪の発掘で予想以上に中世の遺構が出てきている。さらに発掘を進めてみないことには分からないが「北条五代が見えてきた」と、周りの眼はらんらんと輝きだしている。

   昨年の8月開催された現地説明会では「城主の館」級の建物跡が注目されたが、その後新たに庭の遺構が見つかったと聞いて「これは見ておかねば」と駈けつけた。発掘されたものは原則埋め戻すことになっているので、この機会を逃すと見られなくなってしまう。見られるうちに眼に焼きつけておこうと16日土曜日、現地説明会に出かけた。

   庭の遺構は御用米曲輪の3か所で見つかった。石を敷いた水路や掘、池、さらに池に続くと見られる土手が見つかっている。この3か所がどうつながるか、はさらに掘り進めなければならないが、曲輪の本丸側にかなり大きな庭園が広がっていた可能性があるという。福井県の一乗谷朝倉氏館の庭園に似ている、と説明された。一乗谷の庭園といえばかなり豪華な造りだったように記憶している。早く全体が見てみたい。

本丸下で見つかった庭の遺構 便宜上1,2,3と表記  ちなみに手前は江戸期の蔵跡
庭の遺構①は堀につながっている

堀とつながる石組の水路と地下蔵のような石積み 中からかわらけが多数出た


踏み台のようなこの石は・・・今のところ用途は不明
庭の遺構②は石組水路  玉石と砂利



一乗谷と比較されている庭の遺構



庭の遺構③は池

池に続く水路

昨年見つかった障子掘は埋めて水路になっていた。

池との境 土止めと砂利

五輪塔が利用されている珍しい土止め

   昨年の発掘で城主の館「御主殿」と見られる建物の礎石が見つかったためにさらに発掘範囲を広げて調査した結果、この建物は3間×6間以上、と小ぶりで細長い形をしていることが分かった。前回の調査で1間が6尺2寸5分(およそ189cm)であることが分かっているので、およそ5m70×11m以上の建物ということになる。
1間は現在の1間よりすこし長い。そのため「御主殿」級の建物に付随する小規模な建築物と見られるという。何回か建て替えられていることも分かった。

「御主殿」級に付随すると見られる建物の礎石


参考までに昨年8月の同じ場所です。  

横には石を敷いた通路が


   とすると「御主殿」に相当する建物は、この小型の建物と庭園の間にあると考えられる。御用米曲輪の半分を占めるほどの建物と庭園は相当広い。小田原城内に住み、最大の権力を持っていたのは・・・氏政だろうか。小田原市はさらに発掘を予定しているという。

    この曲輪は江戸期に米蔵が置かれていて、幕府からもらった米を貯蔵していたので御用米曲輪と呼ばれていた。明治になって建物は解体され、跡地は長く御用邸として利用された後、神奈川県、さらに時代が下って野球場、駐車場と目まぐるしく姿を変えている。野球場がすっぽりと入るくらいなので、その広さが察せられる。

   
   北条時代の城郭は詳細な位置や建物の状況等、実は明らかになっていないものが多いという。ひとつには徳川の世になって北条時代のさらに上に建物を置き、土塁に手を加え、石垣を加えたので当時の姿は変更されたり、消えたり、見えなくなってしまったからだ。しかも江戸時代の遺跡は壊すわけにゆかないので北条時代まではなかなかたどりつけない。今回は江戸期の遺構の間から幸運にも北条が顔を出して明らかになった部分が多いのだが、今後もこの制約は続くのだろうか。

   発掘しだいで、これまでの認識を大きく変える可能性があると実感する得がたい体験だった。この日の現地説明会は10時、13時の2回、担当者による説明があったが合わせて1000名を越える人が参加したという。小田原北条氏への関心の高さは当然、と思いながらも驚いた。2回とも参加した人も多かったようだ。



昨年8月発掘された瓦積塀  今はすでに埋め戻されていて見られない


   小田原市も心のこもった対応をしてくれた。現場は足場がぬれて少し悪かったのにビニールシートを敷いて歩きやすくしてあった。大変な労力だったに違いない。おかげでドロに足を取られて転ぶこともなく快適に見て回れた。

   また小田原駅から現場までの数ヵ所にて「御用米曲輪」と書いたプラカードを持った人を配置するなどニクい心遣い。寒い中大変だったでしょう。心からお疲れ様。

2013年2月18日月曜日

やる気満々 浄福寺城

名前がいいですね、浄福寺城。 といっても後世になってつけた名前で、
正確な名前は分からないらしい。

小田野城から見た浄福寺城  右手前方


   というより当時(16世紀)は城に名前をつけなかったようで、この城も案下城、千手山城、松竹城、新城(にいじょう)などと所在地の名で呼ぶことが多かったようだ。由井城もこの城、と見る説もある。誰がいつどういう目的で建てたか、今のところはっきり分からないようだ。

   「よくわからない」城跡は浄福寺城に限ったものではない。分からないからこそ自分の想像世界を広げられるので、「よくわからない」も実は悪くない。


浄福寺の裏山が城跡

八王子城の北、千手山(360m)頂上に主郭を置く山城。

比高およそ150m。

   東京都教育委員会が7年前(2006年)に出した「東京都の中世城館」に掲載された復元図を見ると、急峻な地形をうまく利用して造ったことが写真を見るよりよくわかる。写真では腕のせいもあるが、立木や灌木に邪魔されて地形をはっきりとらえられない。

黄色/登り口    オレンジ色/私たちの登ったルート    ブルー/主郭

   浄福寺の墓地から観音堂へ向かう道から登り始める人が多いようだが、恩方第一小学校の道路を挟んだ反対側にも登り口の案内がある。私たちはさらに奥のもう一つの尾根から登った。どの道も取りつきから急勾配で私が兵士ならこの時点で城攻めをあきらめて、村に帰ってしまうかもしれない。

右からも左からも矢が・・・




   急な登りは長い。途中、前後左右から矢が飛んできそうな入り組んだ虎口をなんとか通り抜けたかと思ったら、両側は再び急な崖になる。やや大がかりな虎口と思われる箇所は主郭以外ではここだけのようだ。そうすると敵の侵入を想定したのはこの尾根伝いだったのでは。


東西の尾根のあちこちに切られた堀切




人が歩くと堀切の大きさがわかります

   尾根を登りきると東西に走る別の尾根につながり、この尾根上に主郭のほか、何箇所か平場や曲輪が設けてある。その間も深い堀がザックと切ってあって敵の動きを制しようとするすさまじい意気込みが伝わってくる。

この先にさらに2本続きます
 
矢印の先に連続した縦掘り
 
 
籠城戦などもってのほか、短期間に敵を壊滅せん、さあ来い、というあくまでも前向きで激しい戦闘意欲が今もってただよって来る。籠城に欠かせない水場が今のところ見つかっていないことで、やっぱり、と思ってしまう。城としては決定的な欠陥として水場は初めからなかったのか、当時はあったけどそのうち水が出なくなり、埋もれてしまったのか。



主郭へのつらいアプローチ


主郭の中心の高み
主郭の高みから見た腰曲輪


   主郭は1メートル弱の高さの円形の周りを幅10メートルほどの曲輪が取り囲んでいる。主郭にいたるルートはかなり急で、息が切れる。這いつくばらなければならない箇所もある。這いつくばったり尻をつくのは実はここだけではなく、周辺にいくつかあって、高齢の参加者の中には、途中で座り込んでしまう人もいた。
 
でもここには他の城にはない得難い魅力がある。何だろう、それは。今回が4回目だけど来るたびにこれまでに見えなかったものが見えてくる。
また来たい、と思わせるものがある。

あちこちに見られる堀切
堀切に掛る土橋
どうやら自然の岩盤を利用したようだ

   















   

   山のあちこちの土に刻まれた「来るなら相手になる」という壮絶な意志が語りかけて来るからだろうか。そんな力強い意志で造られた、巧妙な縄張りも役に立たなくなって、城は放棄されたのだろうか。八王子城と運命をともにしたのだろうか。主郭からは南に八王子城の森が木々の間に見えている。
   城の真下を通るのは陣馬街道。中世には甲斐と武蔵を結ぶ幹線道路だった。

   八王子城主の北条氏照との関連がカギになるようで、氏照が建てた、いや氏照が婿養子に入る前の大石氏が建てた、と諸説ある。八王子城の搦め手を守備するのにちょうどよい位置にあるが、秀吉軍の攻撃(1590年)にさらされたのだろうか。

   今回は「八王子城とオオタカを守る会」が10日に開催した見学ツアーに参加した。「八王子城とオオタカ」はこれまで10数年、冬季限定で八王子城を多角的に紹介してきているが、ここ数年は小田野城と浄福寺城も対象に入れている。

   この会の八王子城見学ツアーに参加して八王子城の魅力に取りつかれた人も多いという。しかし「八王子城を広く知ってもらう」という初期の目的は達成された、と3月に予定されている搦め手からの登城ツアーをもって終了が決まっている。

   分かりやすい説明付き、登山ロープまで持参する「楽々」浄福寺城ツアーもしたがってこれが最後。参加人数は26人、といつもより多かった。
   
   誰が何のため・・・。どこかに隠れた古文書、残ってないだろうか。
天気が良ければまた登るか。



2013年2月4日月曜日

八王子城 谷間に隠れた石積み

   八王子城では水路状敷石のほか、もうひとつ気になっていた石積遺構があった。山上曲輪群から「馬冷やし」に向かい、「詰めの城」に至るルートではなく右へ無名曲輪をとりまくように進んだすぐ左側の崖に残る石積だ。

   これはロープが設置してあるから場所はすぐわかる。急な崖に次々と高さ40~50センチ幅1.5メートルから2メートルの石積みがロープにぶら下がりながら見えてくる。3~5メートル間隔で5,6か所ある。




石積みはどれも高さ30~40cm 幅2~3メートル



   ロープがなければ降りるのに気を使いすぎて石積みには気がつかないほど急な崖だ。存在が確認されたのは比較的最近、という。さもありなん。










   見るからに「土留め」、との考えが頭をかすめるが同時に・・・「何のため?」と疑われる。他の面に比べてやや窪んでいるとはいえ、上から水が流れるわけでもなく特に窪みが激しいわけでもない。周りに石積みはない。ここだけ石を積んだ理由は何なのか?

   そこまで詮索しなくても、と元来大まかな性格が頭をもたげる・・・が気になる。

崖下の谷底
谷から崖を見上げる


   崖の下まで降りてみるがただの谷間にしか見えない。沢状になって石がゴロゴロ集まってはいるが激しい降雨時以外は水も流れそうにない。周辺を歩いても「土留め」がある場所は他に見当たらない。なによりも「土留め」を必要としたほどには周辺に崩壊の跡が見られないのが不思議だ。

   八王子城の探索が楽しいのは実はこうした「謎」が多いからかもしれない。

   すぐに「これはねぇ」と反論の余地のない説明をされると・・・かえって反発するかも。もう少し黙ってつき合って見るか。

八王子城  「謎」の水路状敷石

   八王子城といえば「御主殿」をとりまく華麗な石垣と石を敷きしめた階段が思い浮かぶ。ところが深沢山全体を城郭として利用した八王子城には他にも広く石積遺構が残っている。

   一回で全部見ることが出来ないくらい広く分布しているが、八王子城に何回か足を運んでもどういうわけかこれまで見る機会がなかった遺構がある。用途、目的が不明で「謎の」と枕詞をつけられることが多い「水路状敷石」だ。険しい斜面にあってアクセスが容易でないのと、グループで動く場合はすでに痛みが激しい遺構をさらに傷つけないように、との配慮もある。

   でもどうしても見てみたい。縄張り図を頼りに「水路状敷石遺構」を目指した。

崩れた水口
















   

   場所は深沢山の山上に広がる曲輪群のやや下、ちょうど無名曲輪の下あたりだが、無名曲輪からだとほぼ直角に落ちる崖を降りなければならない。そのため御主殿から一歩奥に周りこんだ沢をたどって下から登ることにした。沢といってもほとんど水が流れていないがこの沢には水口遺構が2か所残っていて、ひとつは破壊されているものの原形をとどめている。もう一つはほぼ完全に残っている。

   水路状敷石はこの水口と関連する遺構と思われるが、確証はない。そもそも沢は城内にいくつも見られるが水口状の遺構を備えているのはここだけのようだ。





    ほぼ完全な2個目の水口遺構は一個目を20メートルくらい登ったところにある。











ダム状の石積みか?



   面白いことにその上流にも崩れた石積みを思わせる形骸が数か所ある。これも水口か?水はチョロチョロとわずかに見える程度。傾斜は45度くらい、かなり険しい。



   石がごろごろしていて歩きづらい。私は登山靴を装備して来たので足場は心配ないが、普通のスニーカーなら足を痛めるかもしれない。一か所どうしても足をかける場所が見つからず、しばし空を見上げてため息をついたが、ロープが張ってあるのを見つけ、ロープと脇にあったツタにつかまって岩場をよじ登った。

   二番目の水口から25分くらいで水路状敷石にたどり着いた。



   敷石はストンと途切れた断面を見せているのをみると、もっと下流に延びていたのが壊れてしまったようにも見える。ダム状の石積みがあったが崩壊したのかもしれない。

弓なりにたわむ水路状の敷石



敷石のサイドは盛り上がっているように見えるが・・・


   敷石は幅1メートル50~70くらいで、緩い円弧の底の形をしている。枯葉が多くて初めは石敷の様子がよく見えなかったが手で枯葉をよけるときれいに石の敷かれた様子が見えてきた。



   敷石はそのままおよそ20メートルぐらい緩い傾斜を登って、土留めと思われる石積みに突き当たっている。この石積みに水口はない。無名曲輪は縄張り図によるとさらにこの上になるはずだが、何も見えない。ただ上方に覆いかぶさる木々の繁みの背後が明るいので頂上が近いとわかる。

この地点からの傾斜は50度ぐらいだろうか。直角に近い。見上げると後ろにひっくり返りそうになる。ロープが下がっていないところを見ると無名曲輪から下りてくる人はやはりいないと見える。

   水を流すため、としか思えない敷石だが、どこから水が来るのかは不明。大雨が降った時を想定しているのか?どうしてここにだけ造ったのだろうか?水の量ならここよりもっと多い沢もあるようだが?

   戦国末期、北条氏照が造ったものか、後世に加えられたものか・・・。水路としか見えない敷石だが、この深さだとチョロチョロした水しか流せない。やはり「謎」というしかない。それにしても、あちこちにめくれた石が転がって遺構としては崩壊の兆しが痛ましい。八王子城の石積みには得がたい味がある。なんとか打つ手はないものか。

   忽然と山中に現れる石造りの遺構にあれやこれや想像をめぐらせながら下る道は早かった。20分ぐらいで下の渓流に着いた。