2014年1月6日月曜日

倭城マラソン(22) ノンソ(農所)城

12月13日(金曜日) 午後  土城の香りノンソ(農所)倭城 


昼も過ぎたし食事でも、とキメチュクト倭城からバス停に向かった。待っても待ってもバスは来ません。今朝のプサンは摂氏3度。風もあってバスを待つ間にすっかり冷えてしまいました。40分近く待ってもバスの姿はみえず、運よく通りかかったタクシーに手が勝手に挙がりました。キメ市で知っている場所は、エーッと「バスターミナル!」。10分少々で5300ウォン(約530円)でした。

体が冷え切っているのでとにかく温かいものが欲しい。ターミナルに入った途端に目に入ったチゲの店に迷わず直行。熱々のテンジャンチゲ(味噌チゲ)がおいしかった。6千ウォン(約600円)。

午後はキメチュクト倭城の支城、ノンソ倭城を予定しています。文禄2年に鍋島直茂が築城、と伝わる以外は詳細不明。ノンソリ(農所里)という町にありますが、村の名前からシンタプ(新沓)倭城とも呼ばれています。バス便があることはわかりましたが寒さですっかり弱気になってしまいました。足は勝手にタクシー乗り場に向かいます。

ノンソリへ行ってくれというと運転手さんが「行き先の電話番号は?」と聞いてくる。ナビ任せのようです。山に電話・・・あるはずないよね。ノンソリに低い山があったらその麓で停めてくれ、と頼んだ。ノンソリはキメ市の郊外というより市街地の延長のようで、15分もかからないうちに小高い山の麓にあるガソリンスタンドで停めてくれた。
黄色い線で囲ったのがノンソ倭城  その右下はキメチュクト倭城


ガソリンスタンドで聞いた道を頼りに登るけど、道は途中で消えるのです。公園ではないので道はほとんど墓地が終着駅。墓地と林と農道をつなぎ合わせるように上ると、いちばん上もやっぱり墓地でした。辺りに山城らしい遺構は見当たりません。山を間違えたかな?心配になります。
山頂

山頂は広く見晴らしが良い 墓2基

いやーな予感が頭をよぎりますが、他に山は見当たりません。よく見ると石積みはいっさいなくなっていますが、石が散乱していて部分的に石垣の崩れた感じが残っています。しかも回りの土地はきれいに削平してあって、曲輪が幾重にも広がっているのがよく見えてきました。
石が並んでいるのはここだけ

裏込め石でしょうか?

主郭とみられる一番上の曲輪だけ周りに石が散乱している。
「倭城」から堀口健弐さんの縄張り図をコピーして使用。
山頂(主郭)から見たすぐ下の曲輪


周辺の曲輪と思われる削平地






間違いない、と確信できたのは眼と鼻の先に見える午前中にたずねたキメチュクト倭城がよく見えたことです。

ずいぶん近かったのですね。





キメチュクト倭城ができるまで秀吉軍はキメ邑城(城塞化したキメの街)を使用していたことはキメチュクト倭城の項で話した通りです。ノンソリはキメにもチュクト倭城にも近い。両方とも肉眼で見えます。

キメチュクト倭城がキメ地域をある程度支配していた可能性を考えると、このノンソ倭城も軍事目的以上の任務を担っていたかもしれませんね。総石垣が多い倭城の中で珍しい土の城です。ただ空堀や堀切、土塁といった土の城には当然あるものが見当たらなかったのが気になりました。

麓のガソリンスタンドで待ってもらっていたタクシーで再びキメ市内のバスターミナルへ。料金は待ち時間(40分ぐらいか)に心づけを加えて20000ウォン(およそ2000円)渡しました。城跡のある小山を探してくれた上に、とても気持ちの良い運転手さんでした。

キメからゴジェド(巨済島)のゴヒョンまでは直通バスがありません。トンヨン(統営)で乗り換えます。バス料金は15400ウォン(約1540円)。近いのにやや高め。理由はわかりません。

トンヨンといえば李舜臣が水軍の本拠を置いたハンサンド(閑山島)が近いので、あたりは李舜臣だらけ。観光の目玉はカキと李舜臣なのです。水軍が匂ってきます。亀甲船が見えますか?

トンヨンから橋を渡ればゴジェ(巨済)市のゴヒョン(古県)。巨済島全体が現在はコジェ(巨済)市です。ゴヒョンには市役所があるのでバス便はきっとたくさんあるでしょう。近くにモテルを探すと観光地だからでしょうか、宿泊費も40000ウォン(約4000円)と高かった。


倭城マラソン(21) キメチュクト(金海竹島)城

平成25年12月13日(金曜日) 午前   伽耶の町キメチュクト(金海竹島)倭城


きょうはプサンのすぐとなり、キメ(金海)市の倭城を二つ攻略。

キメ市はご存知国際空港のあるところで、街が大きくなった結果プサンとつながってしまいました。今はほとんど同じ都市です。 はるか昔、古墳時代には金官伽耶(任那)の中心で当時の倭国(日本)との因縁きわめて深い場所です。

まず向かうのはキメチュクト(金海竹島)倭城。

プサンの西部バスターミナル(ササン)からチュンニム(竹林)行のバスが出ています。20分ぐらい、1300ウォン(130円)。カラク(駕洛)小学校の前で下車。プサンの空の玄関口、キメ国際空港は眼と鼻の先にあって、上空をひっきりなしに飛行機が行き交います。

黄色く囲った部分がキメ市の中心。オレンジ色でマークしたX印がキメチュクト倭城。
プサン駅でもらったおなじみの観光地図です。

かつてはキメ市でしたが、今はプサン市に編入されています。名前に「金海」はふさわしくないのですが、「金海」にあった意味は大きいのでそのまま使います。

朝鮮出兵が始まって1年後の文禄2年(1593年)に鍋島直茂らが築城、と伝わっています。また伊達政宗が半年間朝鮮半島に滞在した時(3月~9月)に築城に携わったのは、昔から言われていたヤンサン(梁山)倭城ではなくてこのキメチュクト倭城だと見られています。
現在赤い線の部分に高速道路が通っています。城は大きく①と②の二つの部分からできている。
「倭城の研究」3号から高田徹さんの縄張り図を複写。

バス停から見た城跡① 周辺から見るとかなり高い。海抜50メートル
城址はカラク小学校のすぐ後ろ。まず城址①から回りましょう。

城址①は一面畑と墓地になっています。しかも冬は枯葉や枯れ木に埋もれていて遺構がとても見にくくなっているのが残念でした。実は2009年の11月にも来ているのですが、その時よりさらに遺構は見にくくなっています。手入れはほとんどされていません。
①の西から東、主郭方面を見る 左の崖下にも曲輪が広がる。

主郭への虎口

虎口にわずかに残る石垣
北側の崖に沿った石垣

見にくいけど石垣が長く続くのはここだけ
①の東側は大河ナクトンガン(洛東江)に接している。
北側を周回する曲輪への虎口はここ

内枡形虎口 上の曲輪面の高さがよくわかります。

右から入って左へ抜ける。

石垣は主郭周りと東側から主郭へ入る虎口にある程度残っています。その他北側のひくい崖に沿った石垣もまとまって残っています。そのほか部分的に残る石垣が散発的に見られるだけで、石垣の残り方はあまり良いとは言えません。北側の石垣の下に広がる曲輪への虎口も比較的形がはっきり残っています。

倭城のほとんどが墓地として使用されていますが、キメチュクト倭城はほぼ全域が墓で埋めつくされているようです。圧巻です。

お墓が多いだけに大々的な開発は避けられるでしょうが、周辺は住宅が密集していて周辺の遺構は無くなるでしょう。もう少し詳しい情報が欲しい倭城ですが、発掘の可能性は新たに高速道路でもできない限り期待できません。
鳥肌がたつくらい墓、墓、墓・・・。   前方に城跡②が見えています。

墓のはるか向こうに見えるのはキメ市街

城址①と城址②はつながっていません。現在は②の東側を高速道路が走っていて、おそらくこの道路建設で②の土地が削られたようです。2009年に初めて来た時、ちょうどトンネル工事の最中で②に立ち入ることはできませんでした。今回初めてなのでいちばん期待していた個所です。
2009年11月 高速道路のトンネル取り付け工事
①の同じ場所から見た②  今回撮影


①も②も東側が一番高く、西へ向かって低くなって行きます。②の最高所は海抜50メートルぐらい。同じような形の丘が連続しているわけで、この二つの部分が城としてどのように補完しあっていたかは形からは想像できません。①が総石垣と見られるのに対して②は崩れた石垣の痕跡が見られる程度で、ほぼ土の城です。二つとも単独で機能できる規模です。

何か謎めいた存在の城跡②ですが、キメの平野を一望できる位置は素晴らしい。①の全体像はここからしか見られません。
ここから登ります。 削り取られた石垣は多そうですね。
城跡②の最高所  庭園かと思いました。

周辺の曲輪は畑  前方の森は城跡①

竹藪の中に曲輪が広がっていますが、入れません。

城跡②から見た城跡① 手前から3つの曲輪を通って主郭へ登ります。両サイドを入れると大変な広さです。

②の最上部にある石の庭園のような遺構から西に向かって下る曲輪群は竹藪におおわれていて下までたどり着けませんでした。おそらく麓から登る道があるはずですが、見つかりませんでした。

大変広大な地域に広がる城です。大まかに縄張り図を計測すると①と②を合わせた延長は約1,000メートル、ソセンポ倭城の東西の長さは約850メートルなのでキメチュクト倭城の方がやや長いようです。幅はソセンポの方があります。長さで城の規模は決められませんが、簡単な比較にはなるでしょう。占領時はキメ地方の中心的な城であったことが十分察せられる規模です。

城跡を歩くだけで広さを十分に実感できます。端から端に移動するだけで1キロですから、疲れます。文禄の役で築城された城にしては規模も大きく、初めから大きく作られたのか、時間とともに拡大されたのかは不明です。もっとゆっくり歩き回りたいと思わせるものがありますが、急峻な場所も多く歩きにくいのです。さらに墓と畑で埋め尽くされているうえ、広い。

ラクトンガン(洛東江)に面して半島内部への水上交通を取り仕切る重要な位置にあるだけでなく、この地方の政治的な中心であるキメを抑えることも意図したものとみられます。秀吉占領軍ははじめ朝鮮のキメ邑城を使用していました。朝鮮王朝の公式記録である『宣祖実録』に1595年にキメを視察した人の話がのっています。(中西豪「朝鮮側資料に見る倭城」朝鮮学報125、1987年)それによりますと倭城ができた後、キメ邑城には収税の役人を200人残して他はすべて倭城に移ったこと、倭城の周辺に集まった朝鮮人の家屋は600を数え、商取引でにぎわっていたことが記されています。収税というからには税を取り立てていたのですね。

地元の朝鮮人の家が600戸あったのなら日本人の住居もそれぐらいあったろうし、キメチュクト倭城の周りはかなりの賑わっていたとみられます。戦の話は日本側資料にもいくらか残っていますが、戦以外の占領地の様子は朝鮮側の資料でしか確かめられないのが残念です。


2014年1月5日日曜日

パゴジン(方魚津)に匂う昭和の商店街

12月12日(木曜日) 午後

プサンに出発する直前、『釜山日報』という地元の新聞の日本語ネット版に出ていた記事に興味を惹かれました。

ウルサン市の東端、パゴジン(方魚津)という港町は日本統治時代は漁業で栄え、今も当時の家屋が残る通りを『敵産家屋通り』として整備し観光に役立てようとしている、という話です。街の一角には樹齢1000年と伝わるクロマツがあり、当時出征する兵士はこの木の下に湧く水を飲んで無事の帰還を祈ったという。『龍の木』という、いかにも元気をもらえそうな名前です。

パゴジン港は16世紀ごろの日本人居住地ヨンポ(塩浦)の近くなのも心惹かれた理由のひとつです。ヨンポは現在、現代自動車の工場になっていてかつての面影は期待できません。代わりに近くの港の雰囲気でも味わってみたい、と思いました。

ウルサン倭城を回った後、さてどうやってパゴジン港まで行こうか、バスは無理だろうからタクシーにするか、と考えながらバス停に行くと『ハクソン公園』から直通バスが出ているのです。エエッ、ウソでしょ!

イムランポ倭城からソセンポ倭城へ、さらにソセンポ倭城からウルサン倭城へ、困ったときの「神の手」直通バスがまた舞い降りて、呼んでいます。これで三回目。

というわけで倭城はお休み。
『敵産家屋』に関心のある人だけいっしょに、オイデ。



パゴジン港

桟橋に広がる魚介類市場



イヌが時折通りを横切るだけで、やたらカモメの声が耳につく、魚臭い活気のない防波堤を想像していたのが大きな間違い。漁船が所狭しと港を占領し、桟橋から続く広場には魚を売る屋台がズラーッとならんでいます。売り子の女性たちの声があちこちから飛んできます。

周りの通りはバスやらタクシーやらが動き回って樹齢1000年は似合いそうにありません。諦めてこのままプサンに帰ろうか、と路地を回ったとたん動物的な感覚で日本が匂います。商店街の通りのカーブの仕方、店の佇まい、どこか表通りの韓国とは感じが違うのです。ほぼ間違いない、と思ったものの自信はない。ちょうど昼過ぎでお腹もすいたので、まずは腹ごしらえ。

カルビタンを食べながら『敵産家屋』というオソロシイ響きの通りと『古いクロマツ』がないか尋ねると、女将がとても丁寧に「お向かいの不動産屋さんに聞いてきます。日本からいらっしゃったのですか?」まじまじと見つめられてしまった。

どうもかつてここに住んでいた日本人が昔をしのんでやってきた、と勘違いされたらしい。そんな歳に見えたか・・・。でも入り組んだ韓国語はできないので甘んじて誤解を受けておいた。

女将は長い間帰ってこないので二三軒回ったのかもしれません。支払いを終えると「すぐそこらしいですよ。」と先に立って案内してくれる。後についてゆくとやっぱりさっき「感じた」通りだった。クロマツの場所も教えてもらった。

とても親切な女将です。頭を下げてお礼を言うと、向こうもさらに頭を下げて「お気をつけて。」 ウルサンって良いところですねぇ。カルビタン、おいしかった。

この女将を見ながらふと思いました。韓国の女性はあまりお辞儀をしないようですね。だからこの女性が特に丁寧に見えたのかもしれません。ふんぞり返って相手をポンポンポンと言い負かす、韓国ドラマによく出てくるコワイ女性はソウルの人にちがいありません。


この辺り一帯に日本の古い家が残っている、と聞いただけ。「これです。」と特定してはもらえなかった。

印象だけで確証はありません。


どれが敵産家屋かはピンポイントにわかったわけではありません。家屋のたたずまいや通りが醸し出す空気みたいなものだけで、私はナットクしました。うーん、ここを観光名所にするならかなり手を加えないといけないみたいですね。

『噂』のクロマツ

ウルサン市東区指定の保護樹、推定樹齢1000年



クロマツは思ったより小さいので半信半疑でしたが、『龍の木』とかいてあります。何か御利益のある水もあるようなので、ここだと思う。

残念ながら出征兵士の気持ちを思い起こす雰囲気はありません。





ところで帰りのバスから見た光景ですが、延々と続く現代自動車の工場の大きさに圧倒されました。『現代自動車ナントカ門前』というバス停がいくつあったことでしょう。時々通り過ぎる門の中には新車がずらりと並んでいます。港に併設された工場なので新車はそのまま船に積まれて世界各地に運ばれて行くのでしょう。韓国の並々ならぬパワーを見てしまいました。





倭城マラソン(20) ウルサン(蔚山)城

12月12日(木曜日) 午前   直通バスお出迎えウルサン(蔚山)倭城 


ソセンポ倭城を下ってチナのバス停にゆき、ウルサン市内行き715番のバスを待った。いま韓国のバス停にはバスが何分後に到着するか表示されるようになっています。これまでバス停に時間表がない場合が多くて不便でしたが、今は大変助かります。土地の事情に疎い私のような者は安心してバスを待つことができるようになりました。バスにしては珍しくほぼ定刻、9時5分到着。

驚いたことにバスの横腹に表示された経由地の中にハクソン コンウォン(鶴城公園)の名があるではありませんか。万歳!信じられません。再び神の手です。ハクソン公園というのはウルサン倭城の跡を公園にしたところで、715番のバスにすわれば黙っていてもウルサン倭城に行けるというわけです。ソセンポ倭城からウルサン倭城に向かう直通バスがやってきたのです。

しかし長い。45分ぐらいかかったでしょうか。混んでいる上に各駅停車、さらに市内に入ってノロノロ運転が続きました。

ウルサンは巨大な街です。現代自動車など重工業を中心に発達した都市で、人口は100万人。街中を流れるテファガン(太和江)は幅の広い、水をなみなみとたたえた大河です。ウルサン倭城はこの大河の河口に近く、川に近い標高50メートルほどの小山を利用した城です。
主郭から眺めたウルサン市内とテファガン

バスがテファガンを渡るとまもなく木々の緑におおわれて、ポコンとした小山が見えてきて城跡だとすぐ分かりました。5年前に来たことがあって見覚えがあったのと、見るからに日本の山城の形をしているのです。その時は遺構が少ない上に崩壊が激しい、という印象しかありませんでした。手入れの行き届かない町はずれの公園のようで、その後再び足を向ける気になりませんでした。

ところが今回、装いも新たにあか抜けた都会的な公園になっているではありませんか。

石垣はあいかわらず崩壊したものが多いのですが、あるがままを手を加えずに見せてくれるのがかえって自然で良いのです。追加された現代的な石列との相性も良い。公衆トイレも細竹でとり囲むなど細かい演出がしてあって心憎いくらいです。


三の丸の直下

細竹が周りを囲むトイレ

ここも健康志向の中高年のメッカであることに変わりはありません。二の丸、三の丸は石垣が石になっていて曲輪は運動場に姿を変えています。主郭の周りだけ石垣が残っていますが、曲輪面はやはり運動場で、虎口がかろうじて形を残しています。

① 主郭    グリーンの矢印は大手虎口から主郭虎口    黄色の線は登り石垣
倭城研究シンポジウムⅡ「倭城」の堀口健弐さんの縄張り図を複写
ウルサン倭城の真南 川まではかなりの距離。

大手虎口の南、数百メートル離れてテファガンが流れ、城は川に面していたと伝えられています。今は5百メートルほど離れているのを見ると、川の流れが変わったのでしょうか。やや遠いけど川べりまで城の内だったのかはわかりません。城から簡単に外洋に出られたのです。

大手虎口から主郭の虎口までは道がついています。石が敷かれていますが最近整備されたものかて元々あったものかは不明です。かなり急峻です。
ウルサン倭城の東側 大手虎口に続く石垣

大手虎口に続く石垣

大手虎口

主郭虎口への通路
主郭の枡形虎口

傾斜はかなり険しい

上から見た枡形虎口

枡形を説明する案内板

文禄の役に築城されたものに比べ慶長の役になって作られた倭城は、ウルサン倭城もそうですが、武力を示す牢固な造りと、権力を見せつけようとする華やかさが共存しているように私には思えます。スンチョン(順天)倭城がひとつの典型です。

ウルサン倭城も主郭の大手虎口を真ん中にして登り石垣が両手を広げたように両脇を下っています。かなり削られて全体像が捉えにくくなっていますが、はっきりと登り石垣であることは分かります。さらに主郭を取り巻く石垣がかなり原型をとどめているようで、麓を周回する散歩道をたどりながらはるか上の方に残る石垣でウルサン倭城の往時の姿を追うことはできます。
かなり急な斜面を登る石垣

近くで見ると・・・。ソセンポ倭城ほどではないが大きい。

テファンガンから見える「威容」を十分計算に入れた雄姿は今も十分感じることができます。城の周りも広く活用されたようですが現在は完全に住宅地になっています。








主郭の内部は運動場になっていても周りを取り巻く石垣が残っているのはプサンのチャソンデ倭城と似ています。しかしウルサンの方がはるかに規模は大きい。石垣がしっかり残っている印象は五年前にもありましたが、虎口を通る路をつけて歩けるようにしたことで全体がはっきり見えるようになっています。
この斜面、私は登れませんでした。白いシャツの男性は管理人。

主郭を回る石垣



ウルサン倭城は完成する直前の慶長2年(1597年)12月22日、まだ戦闘態勢が整わない内に明と朝鮮軍の奇襲を受けました。そのため援軍が到着するまで水や食料が不足して悲惨な戦闘を余儀なくされました。攻撃した明、朝鮮にも膨大な犠牲がでました。両サイド合わせた犠牲者は数千人に上ると言われています。これほど整備された都心の公園になっているのを見ると馬の肉まで食った、と伝わるほど厳しい耐久戦があった城の面影はありません。

結果として日本は援軍が到着したために戦いには負けなかったので、この城は朝鮮半島の人にとって早く忘れてしまいたい戦闘であったはずです。「勝った」戦は語り継ぎたいけど「負けた」戦は忘れてしまいたいのが人の心ではないでしょうか。

とはいいながら、秀吉の朝鮮出兵には勝った負けたの線引きができないものが多く、勝ち負けで見てしまうと焦点がぼぼやけてしまう戦争だったのではないでしょうか。

文禄慶長の役の歴史的な評価はいずれ固まるでしょう。それまでは違った見方や、国による解釈の違いは残るかもしれません。不明な部分があまりにも多いからです。韓国でもこれまで『壬申倭乱』(壬申の年に倭国が起こした乱)と称してきましたが、東アジア全体の出来事として『壬申戦争』に修正しようという考えがある、とも聞きました。

韓国では今でも豊臣秀吉は大悪人です。倭城に歴史的価値があるか、と聞かれれば否と答える人が多いでしょう。しかしはるか昔のこと、倭城があることすら知らない人が多いのも事実です。好ましくない遺構であっても再利用を認めるようになった背景には、世界に存在と実力を認められるようになったと自負する韓国の揺るぎない自信があるように思います。

侵入された韓国で侵入した国の遺構を残すようになったことは喜びたい。

壮絶を極めたウルサン籠城戦の舞台はシャレた都会の公園に生まれ変わりました。倭城の石垣が公園を飾る装飾品として生かされています。ウルサン倭城はこれ以上の崩壊が避けられるでしょう。お城好き、歴史マニア、中世史ファンにとって築城名人と言われた加藤清正の城がひとつ、消滅を免れたことがなによりもうれしい。

スンチョン倭城については; http://yorimichi2012.blogspot.jp/2012/10/blog-post_26.html