2014年1月6日月曜日

倭城マラソン(21) キメチュクト(金海竹島)城

平成25年12月13日(金曜日) 午前   伽耶の町キメチュクト(金海竹島)倭城


きょうはプサンのすぐとなり、キメ(金海)市の倭城を二つ攻略。

キメ市はご存知国際空港のあるところで、街が大きくなった結果プサンとつながってしまいました。今はほとんど同じ都市です。 はるか昔、古墳時代には金官伽耶(任那)の中心で当時の倭国(日本)との因縁きわめて深い場所です。

まず向かうのはキメチュクト(金海竹島)倭城。

プサンの西部バスターミナル(ササン)からチュンニム(竹林)行のバスが出ています。20分ぐらい、1300ウォン(130円)。カラク(駕洛)小学校の前で下車。プサンの空の玄関口、キメ国際空港は眼と鼻の先にあって、上空をひっきりなしに飛行機が行き交います。

黄色く囲った部分がキメ市の中心。オレンジ色でマークしたX印がキメチュクト倭城。
プサン駅でもらったおなじみの観光地図です。

かつてはキメ市でしたが、今はプサン市に編入されています。名前に「金海」はふさわしくないのですが、「金海」にあった意味は大きいのでそのまま使います。

朝鮮出兵が始まって1年後の文禄2年(1593年)に鍋島直茂らが築城、と伝わっています。また伊達政宗が半年間朝鮮半島に滞在した時(3月~9月)に築城に携わったのは、昔から言われていたヤンサン(梁山)倭城ではなくてこのキメチュクト倭城だと見られています。
現在赤い線の部分に高速道路が通っています。城は大きく①と②の二つの部分からできている。
「倭城の研究」3号から高田徹さんの縄張り図を複写。

バス停から見た城跡① 周辺から見るとかなり高い。海抜50メートル
城址はカラク小学校のすぐ後ろ。まず城址①から回りましょう。

城址①は一面畑と墓地になっています。しかも冬は枯葉や枯れ木に埋もれていて遺構がとても見にくくなっているのが残念でした。実は2009年の11月にも来ているのですが、その時よりさらに遺構は見にくくなっています。手入れはほとんどされていません。
①の西から東、主郭方面を見る 左の崖下にも曲輪が広がる。

主郭への虎口

虎口にわずかに残る石垣
北側の崖に沿った石垣

見にくいけど石垣が長く続くのはここだけ
①の東側は大河ナクトンガン(洛東江)に接している。
北側を周回する曲輪への虎口はここ

内枡形虎口 上の曲輪面の高さがよくわかります。

右から入って左へ抜ける。

石垣は主郭周りと東側から主郭へ入る虎口にある程度残っています。その他北側のひくい崖に沿った石垣もまとまって残っています。そのほか部分的に残る石垣が散発的に見られるだけで、石垣の残り方はあまり良いとは言えません。北側の石垣の下に広がる曲輪への虎口も比較的形がはっきり残っています。

倭城のほとんどが墓地として使用されていますが、キメチュクト倭城はほぼ全域が墓で埋めつくされているようです。圧巻です。

お墓が多いだけに大々的な開発は避けられるでしょうが、周辺は住宅が密集していて周辺の遺構は無くなるでしょう。もう少し詳しい情報が欲しい倭城ですが、発掘の可能性は新たに高速道路でもできない限り期待できません。
鳥肌がたつくらい墓、墓、墓・・・。   前方に城跡②が見えています。

墓のはるか向こうに見えるのはキメ市街

城址①と城址②はつながっていません。現在は②の東側を高速道路が走っていて、おそらくこの道路建設で②の土地が削られたようです。2009年に初めて来た時、ちょうどトンネル工事の最中で②に立ち入ることはできませんでした。今回初めてなのでいちばん期待していた個所です。
2009年11月 高速道路のトンネル取り付け工事
①の同じ場所から見た②  今回撮影


①も②も東側が一番高く、西へ向かって低くなって行きます。②の最高所は海抜50メートルぐらい。同じような形の丘が連続しているわけで、この二つの部分が城としてどのように補完しあっていたかは形からは想像できません。①が総石垣と見られるのに対して②は崩れた石垣の痕跡が見られる程度で、ほぼ土の城です。二つとも単独で機能できる規模です。

何か謎めいた存在の城跡②ですが、キメの平野を一望できる位置は素晴らしい。①の全体像はここからしか見られません。
ここから登ります。 削り取られた石垣は多そうですね。
城跡②の最高所  庭園かと思いました。

周辺の曲輪は畑  前方の森は城跡①

竹藪の中に曲輪が広がっていますが、入れません。

城跡②から見た城跡① 手前から3つの曲輪を通って主郭へ登ります。両サイドを入れると大変な広さです。

②の最上部にある石の庭園のような遺構から西に向かって下る曲輪群は竹藪におおわれていて下までたどり着けませんでした。おそらく麓から登る道があるはずですが、見つかりませんでした。

大変広大な地域に広がる城です。大まかに縄張り図を計測すると①と②を合わせた延長は約1,000メートル、ソセンポ倭城の東西の長さは約850メートルなのでキメチュクト倭城の方がやや長いようです。幅はソセンポの方があります。長さで城の規模は決められませんが、簡単な比較にはなるでしょう。占領時はキメ地方の中心的な城であったことが十分察せられる規模です。

城跡を歩くだけで広さを十分に実感できます。端から端に移動するだけで1キロですから、疲れます。文禄の役で築城された城にしては規模も大きく、初めから大きく作られたのか、時間とともに拡大されたのかは不明です。もっとゆっくり歩き回りたいと思わせるものがありますが、急峻な場所も多く歩きにくいのです。さらに墓と畑で埋め尽くされているうえ、広い。

ラクトンガン(洛東江)に面して半島内部への水上交通を取り仕切る重要な位置にあるだけでなく、この地方の政治的な中心であるキメを抑えることも意図したものとみられます。秀吉占領軍ははじめ朝鮮のキメ邑城を使用していました。朝鮮王朝の公式記録である『宣祖実録』に1595年にキメを視察した人の話がのっています。(中西豪「朝鮮側資料に見る倭城」朝鮮学報125、1987年)それによりますと倭城ができた後、キメ邑城には収税の役人を200人残して他はすべて倭城に移ったこと、倭城の周辺に集まった朝鮮人の家屋は600を数え、商取引でにぎわっていたことが記されています。収税というからには税を取り立てていたのですね。

地元の朝鮮人の家が600戸あったのなら日本人の住居もそれぐらいあったろうし、キメチュクト倭城の周りはかなりの賑わっていたとみられます。戦の話は日本側資料にもいくらか残っていますが、戦以外の占領地の様子は朝鮮側の資料でしか確かめられないのが残念です。


3 件のコメント:

  1.  竹島倭城は今でこそ“平山城”のような姿をしていますが、朝鮮時代後期(17~19世紀)に描かれた古絵図によると、洛東江に浮かぶ島に描かれています。往時は文字通り竹の生えた島だったのでしょう。

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    1. あの大河なら流れは簡単に変わるでしょうね。船着き場の跡でもどこかに隠れているのでしょうか。

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    2. 島としてイメージを描きなおすと、また違った風に見えてきます。どこまで水が来ていたかは、発掘しても難しいかもしれませんね。

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