2014年1月5日日曜日

倭城マラソン(20) ウルサン(蔚山)城

12月12日(木曜日) 午前   直通バスお出迎えウルサン(蔚山)倭城 


ソセンポ倭城を下ってチナのバス停にゆき、ウルサン市内行き715番のバスを待った。いま韓国のバス停にはバスが何分後に到着するか表示されるようになっています。これまでバス停に時間表がない場合が多くて不便でしたが、今は大変助かります。土地の事情に疎い私のような者は安心してバスを待つことができるようになりました。バスにしては珍しくほぼ定刻、9時5分到着。

驚いたことにバスの横腹に表示された経由地の中にハクソン コンウォン(鶴城公園)の名があるではありませんか。万歳!信じられません。再び神の手です。ハクソン公園というのはウルサン倭城の跡を公園にしたところで、715番のバスにすわれば黙っていてもウルサン倭城に行けるというわけです。ソセンポ倭城からウルサン倭城に向かう直通バスがやってきたのです。

しかし長い。45分ぐらいかかったでしょうか。混んでいる上に各駅停車、さらに市内に入ってノロノロ運転が続きました。

ウルサンは巨大な街です。現代自動車など重工業を中心に発達した都市で、人口は100万人。街中を流れるテファガン(太和江)は幅の広い、水をなみなみとたたえた大河です。ウルサン倭城はこの大河の河口に近く、川に近い標高50メートルほどの小山を利用した城です。
主郭から眺めたウルサン市内とテファガン

バスがテファガンを渡るとまもなく木々の緑におおわれて、ポコンとした小山が見えてきて城跡だとすぐ分かりました。5年前に来たことがあって見覚えがあったのと、見るからに日本の山城の形をしているのです。その時は遺構が少ない上に崩壊が激しい、という印象しかありませんでした。手入れの行き届かない町はずれの公園のようで、その後再び足を向ける気になりませんでした。

ところが今回、装いも新たにあか抜けた都会的な公園になっているではありませんか。

石垣はあいかわらず崩壊したものが多いのですが、あるがままを手を加えずに見せてくれるのがかえって自然で良いのです。追加された現代的な石列との相性も良い。公衆トイレも細竹でとり囲むなど細かい演出がしてあって心憎いくらいです。


三の丸の直下

細竹が周りを囲むトイレ

ここも健康志向の中高年のメッカであることに変わりはありません。二の丸、三の丸は石垣が石になっていて曲輪は運動場に姿を変えています。主郭の周りだけ石垣が残っていますが、曲輪面はやはり運動場で、虎口がかろうじて形を残しています。

① 主郭    グリーンの矢印は大手虎口から主郭虎口    黄色の線は登り石垣
倭城研究シンポジウムⅡ「倭城」の堀口健弐さんの縄張り図を複写
ウルサン倭城の真南 川まではかなりの距離。

大手虎口の南、数百メートル離れてテファガンが流れ、城は川に面していたと伝えられています。今は5百メートルほど離れているのを見ると、川の流れが変わったのでしょうか。やや遠いけど川べりまで城の内だったのかはわかりません。城から簡単に外洋に出られたのです。

大手虎口から主郭の虎口までは道がついています。石が敷かれていますが最近整備されたものかて元々あったものかは不明です。かなり急峻です。
ウルサン倭城の東側 大手虎口に続く石垣

大手虎口に続く石垣

大手虎口

主郭虎口への通路
主郭の枡形虎口

傾斜はかなり険しい

上から見た枡形虎口

枡形を説明する案内板

文禄の役に築城されたものに比べ慶長の役になって作られた倭城は、ウルサン倭城もそうですが、武力を示す牢固な造りと、権力を見せつけようとする華やかさが共存しているように私には思えます。スンチョン(順天)倭城がひとつの典型です。

ウルサン倭城も主郭の大手虎口を真ん中にして登り石垣が両手を広げたように両脇を下っています。かなり削られて全体像が捉えにくくなっていますが、はっきりと登り石垣であることは分かります。さらに主郭を取り巻く石垣がかなり原型をとどめているようで、麓を周回する散歩道をたどりながらはるか上の方に残る石垣でウルサン倭城の往時の姿を追うことはできます。
かなり急な斜面を登る石垣

近くで見ると・・・。ソセンポ倭城ほどではないが大きい。

テファンガンから見える「威容」を十分計算に入れた雄姿は今も十分感じることができます。城の周りも広く活用されたようですが現在は完全に住宅地になっています。








主郭の内部は運動場になっていても周りを取り巻く石垣が残っているのはプサンのチャソンデ倭城と似ています。しかしウルサンの方がはるかに規模は大きい。石垣がしっかり残っている印象は五年前にもありましたが、虎口を通る路をつけて歩けるようにしたことで全体がはっきり見えるようになっています。
この斜面、私は登れませんでした。白いシャツの男性は管理人。

主郭を回る石垣



ウルサン倭城は完成する直前の慶長2年(1597年)12月22日、まだ戦闘態勢が整わない内に明と朝鮮軍の奇襲を受けました。そのため援軍が到着するまで水や食料が不足して悲惨な戦闘を余儀なくされました。攻撃した明、朝鮮にも膨大な犠牲がでました。両サイド合わせた犠牲者は数千人に上ると言われています。これほど整備された都心の公園になっているのを見ると馬の肉まで食った、と伝わるほど厳しい耐久戦があった城の面影はありません。

結果として日本は援軍が到着したために戦いには負けなかったので、この城は朝鮮半島の人にとって早く忘れてしまいたい戦闘であったはずです。「勝った」戦は語り継ぎたいけど「負けた」戦は忘れてしまいたいのが人の心ではないでしょうか。

とはいいながら、秀吉の朝鮮出兵には勝った負けたの線引きができないものが多く、勝ち負けで見てしまうと焦点がぼぼやけてしまう戦争だったのではないでしょうか。

文禄慶長の役の歴史的な評価はいずれ固まるでしょう。それまでは違った見方や、国による解釈の違いは残るかもしれません。不明な部分があまりにも多いからです。韓国でもこれまで『壬申倭乱』(壬申の年に倭国が起こした乱)と称してきましたが、東アジア全体の出来事として『壬申戦争』に修正しようという考えがある、とも聞きました。

韓国では今でも豊臣秀吉は大悪人です。倭城に歴史的価値があるか、と聞かれれば否と答える人が多いでしょう。しかしはるか昔のこと、倭城があることすら知らない人が多いのも事実です。好ましくない遺構であっても再利用を認めるようになった背景には、世界に存在と実力を認められるようになったと自負する韓国の揺るぎない自信があるように思います。

侵入された韓国で侵入した国の遺構を残すようになったことは喜びたい。

壮絶を極めたウルサン籠城戦の舞台はシャレた都会の公園に生まれ変わりました。倭城の石垣が公園を飾る装飾品として生かされています。ウルサン倭城はこれ以上の崩壊が避けられるでしょう。お城好き、歴史マニア、中世史ファンにとって築城名人と言われた加藤清正の城がひとつ、消滅を免れたことがなによりもうれしい。

スンチョン倭城については; http://yorimichi2012.blogspot.jp/2012/10/blog-post_26.html



2 件のコメント:

  1. 今も倭城は撤去すべき傷跡と考える人が多いです。 一方、倭城を残してこそ壬辰倭乱を記憶することができるという人々もいます。 私は後者ですが、管理されていないところが多く残念です。

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  2. 壬申倭乱は日本でも充分解明されていません。遺構を残してくれてありがたく思います。

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