2014年1月9日木曜日

プサン鎮城の犠牲武官

平成25年12月16日(月曜日) 午前

一度は訪ねたいと思いながら機会がなかった『鄭公壇(ていこうだん)』に行くことにしました。簡単に行けると思うのがかえって仇になることがあります。その典型的な例で、地下鉄プサン駅から3つ目、チャッチョン(佐川)駅のすぐ横です。今回もプサンに到着したその日、プサン倭城に行こうと降りたあの駅です。行こうと思えばいつでも・・・確かに。

『鄭公檀』というのは文禄の役の口火を切ったプサン鎮城攻略で亡くなったチョンパル(鄭撥)僉使を祀る慰霊碑です。僉使は官名。プサン鎮城の南門があったといわれる場所に作られています。プサン倭城の真下になります。チョンバルはプサン鎮城を守備する水軍武官で戦闘中に被弾して亡くなったと伝えられています。
正面

朝早いせいか戸が閉まっています。合掌してそのまま帰ろうかと思ったら、わずかに隙間が開けてありました。来訪者はいつでもどうぞご自由に、という配慮と見えた。人気のない禅寺を訪ねたようで、静寂と整頓された秩序が支配しています。
ともに犠牲となった人たちの碑

さらに登ります。

チョンバル将軍 慰霊碑


チョンパルと同時に命を亡くした部下の慰霊碑も並んでいます。昨日詣でたタデポ城のユンフンシンもそうですが、倭城に関心を持ってわざわざ日本からやって来た者をどう見ているのでしょうか。420年前のこととはいえ、慰霊碑を見るとやはり「犠牲になった生身の人間」を感じます。南無阿弥陀仏。
目にすることが少なくなった瓦屋根 正面の門の内側


すぐ近くにチャソンデ倭城の森が見えます。プサン鎮城からチャソンデへ、朝鮮水軍時代を経て鄭公檀の現代まで、幾層もの時代が詰まった空間です。

戸をわずかに開けたまま、帰ります。
鄭公檀の隣の坂  急な坂をのぼりつめるとプサン倭城



プサンを中心に回った倭城訪問の旅は今回これで終わります。

キメ空港に向かおうと地下鉄ソミョン(西面)駅で地下鉄を待っている時のこと。2号線「~方面」に出ている名前4つのうち3つまで倭城のある地名なのです。トクチョン(徳川)、ホボ(孤浦)、ヤンサン(梁山)。トクチョンにはクポ(亀浦)倭城、ホポの倭城は消滅、ヤンサンは昨日行ったばかり。プサン市内にだけで八か所あります。

こうやって地下鉄の行き先にずらっと並ぶのを見ると改めて、多いなぁ。

       沙上        徳川       孤浦       梁山 





タデポ(多大浦)城の石積み

12月15日(日曜日) 午後

ヤンサン倭城からの帰り道、夕方まで少し時間があるのでタデポ(多大浦)に寄ることにした。

1592年4月13日にプサン鎮城が小西行長、宋義智らによって陥落した日、秀吉軍の一部が近くのタデポ(多大浦)城にも向かい、陥落させています。その後おそらくはこの城にも兵を置いたとみられています。タデポ城は消滅していますが、石積みが住宅の一部として残っていると「倭城の研究」6号で読んだので、機会があれば見たいと思っていました。
ここがタデポ港         X はプサン鎮城

高麗、朝鮮時代を通して倭寇の侵入に悩まされた朝鮮半島では、進入路(港)に城がたくさん作られました。しかし遺構が明確に残るものはあまりないようです。あったとして復元されていたりして昔の面影になかなか接することができません。皮肉なことに倭城の方が不完全とはいえ、遺構を残しています。

石積みの一部であっても見てみたいのと、タデポの街も見てみたかった。

地下鉄が間もなく開通する予定だと聞いていますが、今はまだターミナル駅の「シンピョン(新平)」からバスに乗らなければなりません。10分ぐらい。
タデポ港


タデポは取れたての魚のように元気に満ちた港です。狭い道路をバスがひっきりなしに通ります。タデポ城があったところは現在学校になっていて、この学校を取り巻くように石積みがあった、と伝えられています。このあたりだろう、と検討をつけて路地を覗いてみますが、なかなかそれらしい石積みが見えません。
立派な石です。



今も役立っているのが良いですね。

狭い路地でも公道として使っている場所もあるので、誰かの家かな、と思いながら入ってゆくと、ありました。石積みの方向に目を向け、さらにその先を探すと同じような石積みが見つかりました。それ以上は個人の家の中になるので入れません。ひょっとして目につく以上に遺構が残っているかも知れません。
ユンフンシンを祀る尹公檀



石積みだけでしたがオリジナル(と信じて)を見られて充分です。城を守って秀吉軍の襲撃で亡くなった担当武官、ユンフンシン(尹興信)の慰霊碑がすぐ後ろの丘の上にあります。高台にあるので詣でがてら街の佇まいを眺め、帰りのバスに乗りました。


倭城マラソン(24) ヤンサン(梁山)城

12月15日(日曜日) 午前  短命のヤンサン(梁山)倭城


ヤンサン倭城を攻めるのは初めてではありません。行くたびに見落としたものがあって「また来よう。」と3回目になってしまいました。ヤンサンはキメと同じようにプサンの隣の市ですが、ひとつの大都市圏を作っています。プサンからは列車でも地下鉄でも来られます。

きょうはプサン駅から韓国のJR,Korail の列車で行きます。

ところが Korail がストライキ中で間引き運転をやっています。もっと早く出発したかったのですが、9時25分発のムグンファ号まで運転中止。朝食をすませてもしばらく部屋で休む時間がありました。連日の城攻めで少し疲れが出てきたので実はホッとしました。
ナクトンガンの岸辺黄色く○でかこったのがヤンサン倭城
 真下の X はクッポ倭城  中間のホポ倭城は消滅

列車はナクトンガン(洛東江)に沿って北上、30分弱でムルグム(勿禁)駅に到着。ここから12,3分歩いてラクダのコブのような山に向かいます。慣れた道になりました。

どんな城でもしばらく歩きまわると自分なりのとらえ方というかイメージが出来上がるのですが、ヤンサン倭城は自分の中で焦点が定まらないのです。どういう城なのか、とらえどころがないのです。まだ見ていないところが2か所ありますが、そのせいでしょうか。北の斜面に掘られた空堀と南側の居住区です。
今回の登城ルート
「倭城」から堀口健弐さんの縄張り図をコピーして使用


ラクダのコブからコブの稜線に沿って曲輪群が長く伸びています。今日の城攻めはヤンサン倭城しか予定に入れてありません。時間をかけてじっくり見たいですね。
ムルグム駅を出て南を見るとすぐわかります。比高110メートル。

慶長2年(1597年)の後半に黒田長政が築城、父の黒田官兵衛とともに在城しました。しかしその年から翌年にかけウルサン籠城戦が勃発します。援軍の到着が遅れたのをきっかけに、半島の沿岸に沿って長く伸びた防衛線を縮小しようとする動きに発展します。その流れでこのヤンサン倭城も築城した翌年に廃城になりました。使用期間は数か月ではないでしょうか。倭城では最も短命です。

ほとんどの倭城が海岸線に沿って海に面しているのに対してヤンサン倭城は北を向いています。北から敵の襲来を予測したものと見られます。山の北側斜面が比較的緩やかなので、尾根上の長い曲輪の真下を長い空堀で補佐しているのはそのためとみられています。
ハイキングコースが整備されています。南側斜面への取り付き。

尾根上の曲輪群は両脇の登り石垣を除くと長さおそよ500メートル、幅は15~30メートルと細長い。主郭だけやや広め。石垣の状態は悪く、崩壊している部分が多い。高さも1メートル前後が多く、主郭周りで2~3メートル。篠竹と墓に埋め尽くされた個所が多く、移動が実に難しい。

主郭の石垣は枯葉におおわれて判別しにくくなっていますが、ちょっと手を入れればもっとはっきり見えてくるのではないでしょうか。天守台の周りの石垣はかなり崩壊が激しいようです。
城域内はほとんど竹と墓。

主郭 西側の虎口


形は分かりにくくなっています。

石垣は枯葉で見えなくなっています。カーブ、わかりますか?

天守台の周り

崩れてきています。
天守台内部 崩れた石を集めたのでしょう。

曲輪に沿って走る空堀は300メートルぐらいはあるでしょうか。かなり埋まって浅くなっていますが、形ははっきり分かります。



南側の居住区へ降りる道は登ってきた道の反対側にあります。かなり下ると村というか町というか、静かな集落に出ます。まとまった石垣は見当たりません。おそらく民家が使用したり利用することで、石垣は全体としての形を失ってしまったのではないでしょうか。それにしてもー

人の姿が見えません。

日曜日なのにみんなどこへ行ったのでしょうか。年配の人でもいれば尋ねることもできたでしょうに・・・また来るか。

それらしく見えますが、手が加わっているようで確証はありません。


この集落は南側を向いていて、北側の崖は半円形に取り囲む形になってきわめて安全で居心地の良い空間にあります。さんさんと降り注ぐ陽の光を浴びていると昼寝でもしたくなります。

前方にはホポ(孤浦)倭城が肉眼で確認でき(城跡は消滅)、その先にはクッポ(亀浦)倭城も近い。ナクトンガンの向う側に見える小山にも砦遺構があるといわれています。

黒田官兵衛、長政父子はおそらくこの城を気に入っていたのではないでしょうか。周りにこんなに仲間がいる上に陽が照ると・・・。

尾根から見たナクトンガン ①ホポ倭城(消滅) ②クッポ倭城  ➂砦跡
集落を取り巻く背後の尾根





























石垣などの遺構は埋もれたのか、持ち去られたのか、見えないだけなのか、とにかく消えつつあります。尾根の曲輪はヘリポートがあったり、運動具が置いてあったり、多角的に利用されています。南側は住宅地ですが、北側は公共施設を建設中で、かなり削り取られています。行くたびに都市化の波が見えるようで、残念です。でも想像する意力さえあればたっぷり楽しめます。まだまだ。

プサン駅~ムルグム駅 
ムグンファ号が一日に数本 約30分 料金2600ウォン(約260円)


2014年1月8日水曜日

倭城マラソン(23) チャンムンポ(長門浦)城

12月14日(土曜日) 午前  眠るようにチャンムンポ(長門浦)倭城


きょうはチャンムンポ(長門浦)倭城を攻略します。ゴジェ市内バス30番、バスターミナル出発08:32。島の北端グヨン行です。1時間に1,2本の割で出ています。

降りるバス停は「グナンポ」。漢字はわかりません。Gun-Hang 浦という意味です。ゴヒョン(古県) から距離は15キロぐらいで30分ほどかかりました。

バス停近くの標識

コジェド(巨済島)の倭城は遺跡として認定されていない、と思っていましたが思い違いかもしれません。バスを降りたら案内版が設置されているのです。3年前にソンジンポ(松真浦)倭城へ行った時は場所を探すのが大変。たどり着くだけでもうグッタリ。倭城について尋ねても「何ですか、ソレ?」ですから。

チャンムンポ倭城はここからさらに15分歩きます。

まさか、脇道の入り口にも表示。どうしたのでしょう、倭城の価値が認められたのでしょうか?

それにしても朝の空気は冷たい。でもさわやかで気持ちのよいこと。誰かいる、と思ったら子ジカが一匹ひょこひょこ前を駆けて行くではありませんか。生き物がいるだけで元気が出ます。だって周りはホラ400年前の・・・。

突然行く手に石垣が現れました。昨日は崩れかけた石垣ばかり見てきたので原型をとどめた石垣に感激してしまいます。でもお城のどの部分なのでしょうか?
ちわかりにくいので黄色の線を入れました。1メートルの高さの石垣で、丸く囲ったところは食い違い虎口。

城跡は2か所に分かれていて①と②と表記します。オレンジ色は天守台。
堀口健弐さんの縄張り図を「倭城」からコピーして使用

黄色の線は上の写真の黄色い線。  X を始点に緑の線を登ります。
キムチュクト倭城を見た後はとてもコンパクトな城に見えます。②は幅30メートル、長さ400メートルほどですが、主要な曲輪だけなら300メートルに満たないでしょう。主郭には小粒ながら天守台が設けられています。海際からせり上がる斜面に建てられているので、まず第二の主郭ともみられる海岸に近い広い曲輪(X印)まで降りて、兵士になった気持ちで主郭に攻め登ってみましょう。
段々になって海岸に向かって降りる曲輪。

海岸側の虎口

曲輪としては一番広い第二の主郭


平場がしばらく続いて急な傾斜となる。


かなり屈折が激しい。


虎口が続きます。


虎口の形態はかなりはっきり残っている。


主郭の天守台 石垣は低いけど海抜は高いので海からはよく見えたでしょう。

無事通り過ぎた虎口はいくつあったでしょうか?3つ?4つ?次から次と続いたようです。しかも傾斜のきついこと。ここを無事通り過ぎることは至難の業です。

ところが、さらに難関が続きます。
このさらに上方にもうひとつ曲輪群①があります。ここから海抜で30メートルほど高い尾根の上です。②よりやや短め(220メートルくらい)ですが、幅は同じくらいで細い。

①の天守台

石垣はひときわ高く3メートルを超える。 ②の天守台より広い。

天守台下の曲輪 いちど下ってさらに高くなる

盛り上がっているのがわかりますか?登り石垣です。

登り石垣の途中で露出した石垣

コジェド(巨済島)は日本から朝鮮半島に向かうとプサンに着く直前に通り過ぎる島です。朝鮮半島では二番目に大きい島です。文禄の役が始まった当初、朝鮮水軍と海戦を交えたのはこの島の周りです。李舜臣の巧妙な戦略によって秀吉軍の敗北が続きました。

そのため主要な港湾を抑えるとともに敵が港湾を使えなくするために、多くの城を設けました。コジェドの北側にはチャンムンポ(長門浦)倭城、ソンジンポ(松真浦)倭城、ヨンドゥンポ(永登浦)倭城が並び、本土沿いの倭城と連携して周辺海域の封じ込めを狙いました。

当時の船は陸地づたいに航行するので港を抑えられると動けなくなってしまいます。

このうちチャンムンポ倭城とソンジンポ倭城は一つの湾の入り口を両方から抑える形をとっています。ソンジンポへは2011年の3月に行きました。大変険しい傾斜に立つ城で遺構の崩落の激しさが目立ちました。湾の反対側にあるチャンムンポ倭城にも行こうとしましたが、アクセスを誤って公立の海洋研究所に入ってしまい、追い返されてしまいました。
チャンムンポ倭城(左)とソンジンポ倭城(右)の位置する山
2011年3月撮影
今回は3年ぶりの再挑戦でした。規模も小さく、石垣も1~3メートルと低いですが、縄張りがはっきりとわかります。急な傾斜をぐいぐい登らせる連続した虎口に驚きました。海上からみた景観はさぞ威嚇効果があるのではないでしょうか。廃城になってからまるでそのまま眠り続けたように形が残っています。

登り石垣はこれまで見てきたものに比べると高さも厚さも小規模です。今はほとんど残っていませんが元々は石積みがあったかもしれません。この登り石垣を伝って出発点まで降りてみました。歩きやすいですよ。平時は通路を兼ねていたのかもしれませんね。

文禄3年(1594年)9月29日、福島正則がチャンムンポを攻撃した李舜臣水軍を敗りました。その時の状況を記した朝鮮側の資料には「二つの城には壁がめぐらされ見張りの塔が立っていた。」と海上から見た倭城の姿が描写されています。天守がはっきり見えたのでしょうね。登り口の案内板に載っていました。

文禄2年(1593年)といいますからこの海戦の前年に福島正則が築城したと伝わっています。



ゴヒョンに帰るバスの中から撮りました。

慶長2年(1597年)日朝両水軍の激しい海戦が展開された漆川梁(橋のかかっている海峡)です。山並みはチルチョンド(漆川島)。

李舜臣を欠いた朝鮮水軍が決定的な敗北を喫し、李舜臣再登場を促した海戦です。チャンムンポ倭城のすぐ南です。