2014年1月8日水曜日

倭城マラソン(23) チャンムンポ(長門浦)城

12月14日(土曜日) 午前  眠るようにチャンムンポ(長門浦)倭城


きょうはチャンムンポ(長門浦)倭城を攻略します。ゴジェ市内バス30番、バスターミナル出発08:32。島の北端グヨン行です。1時間に1,2本の割で出ています。

降りるバス停は「グナンポ」。漢字はわかりません。Gun-Hang 浦という意味です。ゴヒョン(古県) から距離は15キロぐらいで30分ほどかかりました。

バス停近くの標識

コジェド(巨済島)の倭城は遺跡として認定されていない、と思っていましたが思い違いかもしれません。バスを降りたら案内版が設置されているのです。3年前にソンジンポ(松真浦)倭城へ行った時は場所を探すのが大変。たどり着くだけでもうグッタリ。倭城について尋ねても「何ですか、ソレ?」ですから。

チャンムンポ倭城はここからさらに15分歩きます。

まさか、脇道の入り口にも表示。どうしたのでしょう、倭城の価値が認められたのでしょうか?

それにしても朝の空気は冷たい。でもさわやかで気持ちのよいこと。誰かいる、と思ったら子ジカが一匹ひょこひょこ前を駆けて行くではありませんか。生き物がいるだけで元気が出ます。だって周りはホラ400年前の・・・。

突然行く手に石垣が現れました。昨日は崩れかけた石垣ばかり見てきたので原型をとどめた石垣に感激してしまいます。でもお城のどの部分なのでしょうか?
ちわかりにくいので黄色の線を入れました。1メートルの高さの石垣で、丸く囲ったところは食い違い虎口。

城跡は2か所に分かれていて①と②と表記します。オレンジ色は天守台。
堀口健弐さんの縄張り図を「倭城」からコピーして使用

黄色の線は上の写真の黄色い線。  X を始点に緑の線を登ります。
キムチュクト倭城を見た後はとてもコンパクトな城に見えます。②は幅30メートル、長さ400メートルほどですが、主要な曲輪だけなら300メートルに満たないでしょう。主郭には小粒ながら天守台が設けられています。海際からせり上がる斜面に建てられているので、まず第二の主郭ともみられる海岸に近い広い曲輪(X印)まで降りて、兵士になった気持ちで主郭に攻め登ってみましょう。
段々になって海岸に向かって降りる曲輪。

海岸側の虎口

曲輪としては一番広い第二の主郭


平場がしばらく続いて急な傾斜となる。


かなり屈折が激しい。


虎口が続きます。


虎口の形態はかなりはっきり残っている。


主郭の天守台 石垣は低いけど海抜は高いので海からはよく見えたでしょう。

無事通り過ぎた虎口はいくつあったでしょうか?3つ?4つ?次から次と続いたようです。しかも傾斜のきついこと。ここを無事通り過ぎることは至難の業です。

ところが、さらに難関が続きます。
このさらに上方にもうひとつ曲輪群①があります。ここから海抜で30メートルほど高い尾根の上です。②よりやや短め(220メートルくらい)ですが、幅は同じくらいで細い。

①の天守台

石垣はひときわ高く3メートルを超える。 ②の天守台より広い。

天守台下の曲輪 いちど下ってさらに高くなる

盛り上がっているのがわかりますか?登り石垣です。

登り石垣の途中で露出した石垣

コジェド(巨済島)は日本から朝鮮半島に向かうとプサンに着く直前に通り過ぎる島です。朝鮮半島では二番目に大きい島です。文禄の役が始まった当初、朝鮮水軍と海戦を交えたのはこの島の周りです。李舜臣の巧妙な戦略によって秀吉軍の敗北が続きました。

そのため主要な港湾を抑えるとともに敵が港湾を使えなくするために、多くの城を設けました。コジェドの北側にはチャンムンポ(長門浦)倭城、ソンジンポ(松真浦)倭城、ヨンドゥンポ(永登浦)倭城が並び、本土沿いの倭城と連携して周辺海域の封じ込めを狙いました。

当時の船は陸地づたいに航行するので港を抑えられると動けなくなってしまいます。

このうちチャンムンポ倭城とソンジンポ倭城は一つの湾の入り口を両方から抑える形をとっています。ソンジンポへは2011年の3月に行きました。大変険しい傾斜に立つ城で遺構の崩落の激しさが目立ちました。湾の反対側にあるチャンムンポ倭城にも行こうとしましたが、アクセスを誤って公立の海洋研究所に入ってしまい、追い返されてしまいました。
チャンムンポ倭城(左)とソンジンポ倭城(右)の位置する山
2011年3月撮影
今回は3年ぶりの再挑戦でした。規模も小さく、石垣も1~3メートルと低いですが、縄張りがはっきりとわかります。急な傾斜をぐいぐい登らせる連続した虎口に驚きました。海上からみた景観はさぞ威嚇効果があるのではないでしょうか。廃城になってからまるでそのまま眠り続けたように形が残っています。

登り石垣はこれまで見てきたものに比べると高さも厚さも小規模です。今はほとんど残っていませんが元々は石積みがあったかもしれません。この登り石垣を伝って出発点まで降りてみました。歩きやすいですよ。平時は通路を兼ねていたのかもしれませんね。

文禄3年(1594年)9月29日、福島正則がチャンムンポを攻撃した李舜臣水軍を敗りました。その時の状況を記した朝鮮側の資料には「二つの城には壁がめぐらされ見張りの塔が立っていた。」と海上から見た倭城の姿が描写されています。天守がはっきり見えたのでしょうね。登り口の案内板に載っていました。

文禄2年(1593年)といいますからこの海戦の前年に福島正則が築城したと伝わっています。



ゴヒョンに帰るバスの中から撮りました。

慶長2年(1597年)日朝両水軍の激しい海戦が展開された漆川梁(橋のかかっている海峡)です。山並みはチルチョンド(漆川島)。

李舜臣を欠いた朝鮮水軍が決定的な敗北を喫し、李舜臣再登場を促した海戦です。チャンムンポ倭城のすぐ南です。

2 件のコメント:

  1.  グンハンポは漢字表記ではおそらく「軍港浦」です。日本統治時代には、この入り江に日本海軍の艦隊泊地がありました。日露戦争の日本海海戦では、鎮海や巨済島に分散していた日本海軍の艦艇がバルテッィク艦隊迎撃に向けて出港していきました。
     戦勝を記念して東郷平八郎の像が立っていた時期もあったと聞いていますが、さすがに現在では撤去されています。
     

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    1. 旧日本海軍がロシア艦隊を待機したのは鎮海港だとは聞いておりましたが、巨済島もですか。漢字が分からなくて困っておりました。文禄、慶長と明治が並んでいるのですね。なんとなくリアルな名前なので驚きました。ありがとうございました。

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