2020年12月29日火曜日

広大な居館跡 平林城

戦国時代の城といえば山城、特に山頂に近い部分に造られた砦や詰めの城、といった実戦を目的に造られた部分にどうしても関心が集まります。それにひきかえ平地に近いところに設けられた領主の居住空間は残っていない場合が多い。ところが平林城(新潟県村上市)には、山頂近くの山城と共に平地の遺構が良好に残っている。しかも規模がけた外れに大きい、というので行ってきました新潟県。

甲信越、関東における上杉謙信の活躍はよく知られていますが、謙信ひとりの力によるものではなく、謙信を支え、実戦の力となった地元勢力を忘れることはできません。越後の新発田氏、本庄氏、色部氏等の名が挙げられますが、いずれも阿賀野川の北に位置することから揚北衆(あがきたしゅう)と呼ばれた人たちです。平林城は、本庄氏とともに現在の村上市を中心に活躍した国人領主色部(いろべ)氏が拠った城郭です。

村上市の南およそ10キロ、上越の春日山城の北に200 キロ近く離れた場所にある。新潟市からJR羽越本線でおよそ1時間、村上市からは10分の無人駅「平林」で降りて歩くこと20~30分。単調な里の景色にそろそろ疲れてきたころ、山城を抱く要害山の頂がまず目に入り、やがて周辺の田畑から一段と高い居館部分が見えて来る。

竹林城遠景


案内パンフ





広めの駐車場にはトイレと案内所が併設されている。縄張り図や色部氏略歴、これまでの発掘の成果等を記したパンフレットが置いてあるので、忘れずに。遠くからはやや高めの台地にしか見えなかった居館部だが、近づくと見上げるほど高い。7,8メートルはありそうな切岸がまるで威圧するように聳え立つ。

西側側面の切岸


居館跡は「岩舘」「中曲輪」「殿屋敷」と大きく3つの区域に分かれている。「岩舘」は東西200メートル、南北90メートルといちばん大きく、中はさらにいくつかに分かれていることから家臣の宅地だった可能性もあります。一面に木々が繁茂していて遠くまではちょっと見にくいのですが、地表面の凹凸は少ないようで、木さえなければまるで運動場に立っているような気がする。周りを固める土塁の高さが目につく。

案内所で入手したパンフ「平林城跡」に掲載された縄張り図


縄張り図によると周囲は川と水堀に囲まれていたようだが、川は常時水があふれていたのではなく、雪解けや雨後以外は流れも小さく、辺り一帯は湿地帯だったらしい。現在も見たところ水流は少なそうだ。

「岩舘」から「中曲輪」に向かって歩いている時、左の崖下に大きな虎口が見えるではないですか。幅広の通路がせり上がりながらクランクする様子は絵にかいたような枡形虎口。一瞬自然の地形か、とも思いましたが案内パンフには「人が歩くところには石が敷かれ、その脇から排水のための溝が発見」と書いてあるのをみると、やはり人の手による虎口なのですね。土の城でこれだけ大きく、しかもはっきりと形の分る虎口は初めて見ました。弁天虎口と表記されている。
弁天虎口  後方は「中曲輪」


弁天虎口を登ると「中曲輪」で、縦横80メートルの正方形に近い形をしている。現在発掘調査が行われていると見えて、ちょうど数人が作業をしているところに遭遇しました。それまでクマよけの鈴をチリン、チリン鳴らしながら歩いていたのですが、これだけの人がいるのなら、クマも出てこないだろう、と鈴をリュックに引っ込めました。さぞうるさかったでしょう、すみません。駐車場に数台の車が止めてあったのは、発掘作業を担当する人たちの車だったのですね。これだけ見学に来る人がいるとは、ずいぶん人気のある城跡だなあ、と思っていました。

「中曲輪」で進行中の発掘調査





 発掘調査は昭和49年に初めて行われた後、平成11年から10回続けられているそうです。いろんな発見があった中で興味を引かれたのは「岩舘」の西の端、北虎口から東虎口に至る城内道が見つかったことです。しかも幅は6メートルもあって土塁または側溝で区画されていたとのこと。敷地が広いから通路を必要としたのでしょうか。あるいは大手道だった?      

この城内道が行き着く「東虎口」横の崖下が弁天虎口ですが、虎口がふたつ並んだ様は城と言いうより御殿を想像してしまいます。巨大な弁天虎口を入るとすぐ先は殿屋敷への虎口へと続きます。国人領主様のお屋敷、ご主殿を擁する重要な曲輪です。さらにその反対側には「岩舘」に通じる東虎口。主要なアクセスルートを束ねる「中曲輪」は、戦術的にきわめて重要な曲輪だったのでしょうね。

弁天虎口が殿屋敷に近いのがやや意外に思われますが、まだまだ新しい発見で見方が変わるかもしれません。

「中曲輪」に接する3つの虎口の位置


「殿屋敷」は東西におよそ90メートル、南北におよそ150メートルの長めの三角形をしていて、北を流れる滝矢川とは急峻な切岸で、東側は山城へと連なる傾斜を堀と土塁で押さえています。この掘は、今見ると空堀のようですが、かつては水堀だったようです。この堀と土塁は中曲輪にも続いていて、居館部と山を区分する境界線だったことが分かります。堀底は薬研堀でした。




「殿屋敷」から「中曲輪」へ南北に走る堀(左)と土塁(右)

「殿屋敷」



「殿屋敷」ではこれまでの発掘調査で3つの掘立柱建物跡が見つかっていて、いちばん大きな25.3m x 26.00m、床面積658㎡のものが色部氏の主殿と見られています。



この「殿屋敷」と「中曲輪」は殿堀と呼ばれる堀でしっかりと分離されています。堀底は箱堀でした。「殿屋敷」への表虎口には橋が架かっていたとみられ、門の礎石と橋脚の他、河原石を並べた石組排水溝も見つかっているそうです。

殿堀を挟んで左が「殿屋敷」 右「中曲輪」

発掘されたものはすべて埋め戻されるので現在目にすることはできませんが、居館跡を歩きながら何よりもその広さに驚かされました。高い土塁に取り囲まれているだけでなく、周囲は川と湿地帯、さらに高い切岸で防御されていて、後ろの山城にこもらなくても充分この場所でも攻撃に耐えられるのではないか、と考えてしまいます。

「岩舘」の段差 いちばん奥は岩舘土塁

平林城の最晩年、慶長2年(1595年)に描かれた「越後国瀬浪郡絵図」には平林城の背後に「加護山古城」と記されていることから当時山城部分はすでに使用されていなかった可能性があります。ちなみに山城部分は居館跡から40分ほどかかる距離にあります。かなり離れています。

山上の「詰めの城」跡を見たい方は十分な時間を考えてお出かけください。居館部からでも往復の時間を含めて2時間半は必要でしょう。冬の夕方は早く暗くなります。私は諦めて、次回に期することにしました。

上杉景勝が会津へ国替になったのにともない、慶長3年(1598年)に当時の当主色部長真(ながざね)は出羽国金山城(現在の山形県南陽市)に移りました。平林城はその後使用されることもなく当時の形を今に伝えていることから、上杉謙信が活躍した時代の国人領主の城跡を知るうえで貴重な資料とみなされ、昭和53年に国史跡に指定されました。

色部氏はその後米沢藩の家老を務め、幕末を迎えています。



2020年12月5日土曜日

八王子城 会所の横に浴室? 台所?

八王子城址(東京都八王子市)で発掘が進められている「御主殿」跡で、会所のすぐ横の建物跡で火を燃やした炉と思われる石組が確認されたことで、浴室か台所だったのでは、と見られている。11月9日から八王子市文化財課が発掘調査を続けてきて、28日に現場説明会が開催された。



御主殿、会所跡ではこれまで礎石の他、庭園跡、通路の石敷き等が発掘されていますが、今回は会所横に存在が確認されている建物の用途確認のため, 7年ぶりの発掘調査が行われました。

出土した5個の礎石










この石の上で火を燃やしたとみられる。

建物の敷石は5個 発見され、1個欠けていることが分かりました。なくなった経緯は不明です。横3メートル、縦4メートルの建物のほぼ中央に石が何個か固まって置かれていて、石と土には熱に晒された跡があることから恐らくこの場所で火を燃やした、と見られています。ではどんな建物だったのでしょうか?

会所のすぐ近くにあることから、客人用の浴室、あるいは台所だった可能性が考えられます。しかし断定するまでには至っていません。またこの建物へと続く石敷きの通路も発掘されています。

建物は1590年7月、ご主殿や会所と同時に、豊臣秀吉軍による襲撃時に燃え落ちたと見られます。現場の土や石に残る火勢による影響から推し量ると、建物は完全に燃え尽きる前に横に崩れ落ちた、と見られます。

建物が崩れ落ちたとみられる南側 土に焼け跡 

敷石上に燃えた柱の後が残ってはいますが、色が薄いことと、建物の外、南側の土が赤茶けた焼土となっているからです。この部分に建物が崩れ落ち、そこで燃え尽きた際の熱によるものと見られます。

そういえば8年前の御主殿の発掘の際、敷石のいくつかに焦げた柱の跡がくっきりと残っていたことを思い出します。あれだけはっきりとした柱の焦げ跡は今回、見つかりませんでした。

柱の燃え跡が明瞭に残る御主殿の敷石 2013年

鉄製の火縄銃の弾、通貨、供出された半鐘の一部等が出土

ご主殿跡のさらに奥(西側)には城主の生活の場と見られる建物の存在が想定されるほか、搦め手側もまだ調査されていません。今回の発掘がさらにこれからの調査拡大に結び付いて欲しいですね。


2020年12月2日水曜日

能登を治めた400年 穴水城

能登の城と聞いてまず思い浮かべるのは七尾城でしょう。16世紀初めから能登の守護、畠山氏代々の居城で、戦国時代末期、2年に渡る熾烈な戦いの結果、上杉謙信に下ったあの城です。その時畠山氏を支えた7武将のひとり、長 続連(ちょう つづつら)氏は近くの穴水(あなみず)を領地とする国人で、長氏代々の居城跡が今も石川県穴水町に残っています。七尾城の主郭に立つと眼下に広がる、壮大な七尾湾の北西の角あたりです。

七尾市から七尾湾沿いにおよそ30キロ北にあって、JR七尾駅から1時間に1~2本の電車が穴水駅との間をおよそ40分かけて運行しています。JR金沢駅からの接続も良く、ほぼ1時間に一本の割合で出ていて、所要時間は2時間40分ぐらい。

正面の山上に穴水城

城跡は現在「穴水城址公園」としてきれいに整備されています。穴水湾の岸にせり出した尾根上に造られた山城である。穴水町は人口7,000人。たまに車が脇を通る以外、すれ違う人もいないくらい静かな街です。駅前の道をブラブラ歩くこと10分、村役場の裏手に城跡への登城口がある。(下の縄張り図でK


コンクリートの階段がジグザグ状についていて、登りはかなり急こう配で11月初めにしてやや汗ばむくらいだ。60メートル少々の高さなので当然だろう。何回かの折れの後、帯曲輪状の平坦地に出る。添付した縄張り図では D と表記されている個所にあたる。

黄色の部分が車道  現在北に向かう道路が追加されている。

登城路を登りながら気がついたのは、周りに小規模な平坦地が多く見えることだった。雑草が多くてそれぞれの広さは判別できませんが、段々畑が連なったような感じ、と言うのがぴったりかもしれない。曲輪 D はきれいに草刈がしてあって東側に曲輪 (伝二の丸)への段差と、本丸と伝えられている曲輪 A への段が見え、反対方向には穴水の海と街の広がりが見える。曲輪 (伝 本丸)の標高は61.7メートル。

曲輪から穴水湾方向  左側切岸の上が「伝 二の丸」

曲輪から「伝 本丸」方向  右側の切岸上が「伝 二の丸」

「伝 二の丸」を回る曲輪の突端  穴水湾を望むいちばん公園らしい場所

曲輪 DC「伝 二の丸」曲輪を取り巻くように屈折し、そのまま曲輪 E (伝 三の丸)と 曲輪 F に続いている。歩いた感じでは本丸の南側に二の丸が接していて、その周りをぐるりと帯曲輪が取り巻いているように思える。

曲輪C「伝 二の丸」

「伝 二の丸」との段差は見た処1.5メートルから4メートルぐらいまでで、場所により差がある。鋭角の切岸になっていて、高さは余りないが、簡単に超えられそうでもない。ところで曲輪の中を歩きながら何か違和感が続いていることに気が付いた。何かが欠けている気がしてならない。

山城なら当然見受ける土塁がない、のだ。曲輪の周囲を灌木が覆っているのを見ててっきり土塁だと思っていたが、違う。そう思って気を付けて曲輪の隅をもう一度見て回ったが、やはりどこにもない。

帯曲輪F 切岸はここが一番高そう、3.5mくらいか


土塁状のH (中央から左の盛り上がり)

曲輪 F は そのままに続く。ここは現在駐車場とトイレが設置され、崖側には「穴水城」の碑と案内板が置かれている。その南側に突き出た形の H は何なのか?
巨大な土塁に見えるが、自然の地形かもしれない。南に広がる穴水湾を見張るのに絶好の位置にある。

ここで「本丸」と伝わる曲輪 A から周りを見てみよう。駐車場の北に登り口があり、4メートルぐらいの切岸を登るとやや広めの削平地が現れる。ここは草が刈られていて歩きやすく、周りもよく見えるが、周囲の様子は草と木にさえ切られて残念ながらよく分からない。


曲輪


曲輪から隣接するB-1を見下ろすが...。

現在いる曲輪 A 「伝 本丸」の北側に接続する B-1 は目測で2,3メートル低い削平地のようだが、木々と灌木に遮られて現状を推し量ることも難しい。
恐らく公園として町の人が使っているのは私が歩いてきた本丸、二の丸、三の丸を中心とする一帯だけのようだ。

駐車場へは現在街中から車道が通じている。

車道から見るB-1

車道から見るB-2

駐車場から15メートルぐらいその車道を麓に向かって歩くと左に B-1 、右に B-2 があるが、土地の傾斜や周りの形態から見て二つの曲輪は、おそらく車道を通したことで生じたもので、元来一つの曲輪であったようだ。平坦地としては一番広く、おそらく居住空間を含めた重要な建物が建てられた場所であろう、と見られている。

左側の曲輪の連なりが徐々に高くなるのが良く分かり、最上段が2メートルを超えて平面が見えなくなるころに左に堀切らしい空間 I が現れる。堀切はこの先にもう一ヶ所ある()と縄張り図には示されているが、確認できなかった。道路を通した時にかなり地形が崩されたのだろう。

B-1から段々状にせりあがる曲輪
肉眼では良く見えるのですが…。 


堀切
樹や葉が多くて土地の形がよく見えません。


残念ながら城跡の隅々まで見て回ることはできなかったが、城の形は良く原型をとどめているように見える。しかし土塁は他の場所でも見られなかったし、石積みもない。空堀も、少なくとも大がかりなものは見当たらない。1990年の調査報告書にも「土塁・石塁・石垣などは確認されていない。」と書かれている。

山城ならば曲輪の他には土塁、空堀が必ずある、と思っていたのにここは違うようだ。虎口と思われる明確な「区切り」も見当たらない。戦闘より居住性を重視したものかもしれない。

七尾城陥落の後、織田信長軍が管理したり、前田利家が最終的に手を加えた可能性があるにも関わらず、織豊系の手が加えられた痕跡もないようだ。

長氏は源頼朝によって穴水に地頭として派遣された長谷部 信連(のぶつら)を始祖とする一族で、やがて穴水を拠点とする国人領主として奥能登の地で勢力を伸ばすに至った。七尾城が上杉謙信により落城した折、穴水城も同時に落とされ、400年に亘った長氏の支配はここで一旦終わります。しかし上杉謙信の死と織田信長のこの地方への進入に伴い、息子の長 連龍(つらたつ)が穴水城への復帰を果たしました。しかし能登が前田利家の支配に委ねられるに伴い、長氏は前田利家に従がう事となり、穴水城は間もなく廃城になったと見られている。

長家は加賀前田家の重臣グループ「加賀八家(かがはっか)」の一翼を担い、幕末まで百万石を支えることになる。


城跡のちょうど真下、湾に面した「穴水町歴史民俗資料館」には長谷部 信連と穴水城に関する展示がある。穴水城に関する情報は縄張り図を含め、この資料館で入手した「穴水城跡 調査概要報告書」(平成2年、1990年)に依った。

(縄張り図には位置を分かりやすくするため、A,B,C... 表記を追加した。)












2020年4月14日火曜日

タカが飛ぶ 鎌刃城

穴太衆の本場、近江の国なのに石垣が異質な感じがするので、気になっていました。まずは実物を見よう、と米原インターを降りて旧中山道の番場宿を目指した。

電車ではなくて車にしたのは、新幹線米原駅より高速道路の米原インターの方が番場宿に近いからです。インターを降りて10分ぐらいで鎌刃城への登城口に近く、トレッキング マップを置いてある喫茶『源右衛門』に着いた。


これが地元の『番場の歴史を知り明日を考える会』が発行する「鎌刃城トレッキングマップ」です。鎌刃城はアクセス等の情報が簡単に入手できませんでした。ブログ等ネット情報に頼りましたが、いずれもこのトレッキング マップの入手を推しています。実際この日はすべてこのマップの情報のおかげで効率よく動くことが出来ました。私もお勧めします。喫茶「源右衛門」の前に24時間置いてあります。1部100円。ちなみに『続日本100名城スタンプ』も同じ場所に置いてありました。

たいへんよくできた案内書ですが、初めて行った人にはちょっと分かりにくい点もあります。地理感覚にうとい私は名神高速の下を通る通路が見つかりませんでした。
 
「彦根ガード42」はあるのですが、車が通れそうにありません。近くで立ち話中の地元の女性に尋ねたところ、車で近くまで行くには米原インター近くから入る林道が良い、と勧められました。そこでいったん米原インターまで戻り、こちらの林道(以下の略図の黄色い矢印)を通ると鎌刃城近くにたどり着くことが出来ました。


ところで『番場』というのは『番場の忠太郎』の番場なのですね。いかにも街道然とした『旧中山道』の佇まいを愛でながらひょっとして、と思いついてスマホで調べました。しかし今どき「瞼の母」を知っている人、いるかな?

林道はずっと舗装してあり、幅もゆったりして走りやすい。しかし距離は結構走る。標高384メートルの山頂というと結構な高さです。かなり曲がりくねった道を10~15分くらい走ったでしょうか。右側に「鎌刃城跡➾」という案内板が見えたと思ったら、左側の道路脇に2,3台分くらいのスペースが見えてきた。午前10時近く、すでに1台駐車している横に滑り込んだ。

車から見えた案内板の横から林に入ると、そこからはきめ細かく方角が示してある。ここは城跡の南端で最高所、以後はひたすら細い尾根を下ります。

手前のような堀切が7つ続く
主郭、副主郭などが連なる中心部にいたるまで、まっすぐな尾根に7つの堀切が設けられていて、両側は急峻な崖。鎌の刃のような形から鎌刃城と呼ばれるようになったか。   
   
南~I、南~II、主郭はほぼ平坦で、幅も広い。何といっても主郭の北側に設けられている石垣虎口が美しい。砦の入口というより館の玄関を想像してしまいます。鎌刃城を紹介する写真にはほとんどこの虎口が紹介されています。想像していたより大きい。前面(北側)に続く曲輪(北-I, II,III, 北-IV-1, 北-IV-2, 北-V, 北-VI)は徐々に高さを落としてゆくので、この主郭虎口から見える琵琶湖と北近江の眺望がすばらしい。

主郭

主郭への虎口

この連なりの突端の曲輪(北-V)にも石垣を用いた虎口があり、大櫓跡が隣接している。その下には巨大な堀切が切られていて、大櫓跡の横に設置された簡易眺望台に登るとこの大堀切と琵琶湖畔の街が眼下に望まれる。番場宿の背後から歩くとこの大堀切に至る。 

北-Ⅴ 曲輪の石造りの虎口 礎石から薬医門があったと推定
北-Ⅵ 曲輪直下の大堀切
大櫓跡(北-Ⅵ)  半地下式、7間 x 7間以上の建築物があったと推定
北方に小谷城が望まれる。
左(東南)に目を移すと佐和山城(オレンジの➾)と彦根城(緑の➾)
周辺の地理関係が分ると思います。

現在残っている以上に石垣を多用したようで、北-VIの北側の崖にも石垣が見えている。やはり見慣れた織豊系の石垣とは趣が違うようだ。独自の石積み技術を持っていたのでしょうか。

眼下に広がる琵琶湖と周辺の山々、鳥が羽を広げたような縄張り、シャープな石垣が醸し出すスピード感に浸っていると、まるで獲物を求めて飛行する猛禽類になった気になる。

大櫓跡の側面に残る石垣

これだけ山の奥ではクマとの遭遇は避けられまい、とクマよけの鈴を大きく鳴らしながら来たものの、主郭周辺ではさすがに数組の人とすれ違った。鈴は場外れな感じがして、取り外しました。それにしても皆さん麓から徒歩で登って来たのでしょうか。負けた!

ここで一旦副郭(南-l、南-ll)にもどり、南端から西側に突き出た細く、狭い曲輪群(上の縄張り図では西-I~VIII)に向かった。先端には畝状竪堀が連続して掘られている。この地域に畝状竪堀群は珍しいらしい。ロープを伝って見に行きましたが、斜面の恐ろしく急なこと! 下りも辛かったが、登り始めるや下ったことがひたすら悔やまれた。

畝状竪堀群
この斜面はロープなしには登れません。

384メートルという高所にあるだけでなく、城内の移動は厳しく制限された山城なのに、石垣を多用するなどビジュアルな効果も狙っていて、目的が戦闘だけに集約された城には見えません。しかも琵琶湖を望む景色は絶品。近くに滝があって水も豊富。

戦国時代、江北の佐々木京極氏や浅井氏に対して江南の佐々木六角氏が争っていた頃から、北近江と南近江の境目の城として使われた、と言われていますが、いつ築城されたかは記録に残っていないようです。しかしこの山城を攻めるのは極めて難しかったのではないでしょうか。

次回は絶対、麓から登城ルートを歩いて登りたい。山城はやはり歩いて登らないと実感が伴いません。番場宿に並行した「名神高速」をくぐる「彦根ガード43、44」から鎌刃城の北端「北の大堀切」を目指したい。この日と逆の方向になる。麓から「北の堀切」まで歩いて40~50分ということなので半日かければ城跡はタップリ歩けるでしょう。
(2020年3月)

2016年8月28日日曜日

韓半島の城跡(10)プサンで見た釜山

平成28年3月18日(金)

韓国に来て6日目になる3月18日、初めて雨が降った。天気に恵まれた一週間だった。雨が降ったら歴史博物館で時間をつぶそうと始めから決めていた。

明日はプサンを発ってソウルに行き、夜には東京の日常に戻る。まだプサンにいる間に『プサン』について考えるのも一案、と思いながらかなり激しい雨の中、西面(ソミョン)駅から地下鉄に乗った。行きたいと思いながら機会がなかった「釜山近代歴史館」は名前から想像するものとは違って展示が楽しい。午前の大半を費やした。
釜山近代歴史館  外観は今でも近代的。

韓国側から見た時間の流れをたどると、これまで見えなかったものが見えて来る。

「釜山近代歴史館」が対象にする展示は19世紀末から20世紀に掛けての日韓関係です。『日本帝国主義』『半島からの略奪』『植民地収奪』という聞きなれたフレーズが機関銃のように飛んできますが、そうしたお定まりのレッテルを『除け』ながら展示を見ると、新しい『プサン』が見えてきます。

韓国経済をけん引するプサンの重要性は今も日々高まっています。ところがプサンの来し方を掘り下げれば掘り下げるほど見えてくる日本の存在。常に日本との関係のもとに発展してきた街と言えるでしょう。韓国の人たちはプサンをどのように見ているのでしょうか。機会があったらじっくりと耳を傾けてみたい、と思わずにいられないくらい現代のプサンは『明治の釜山』の上に築かれていることに驚かされます。トンネに愛着を覚えるプサン市民の心の中にはこうした事実も関係しているのでしょうか。

博物館内部の展示

日本と韓半島との交流は日本人が多数、韓半島に商売目的にやって来、韓半島の3つの港に住み着いたことから始まった、と言われています。15,16世紀のことです。そのうち対馬藩がプサン港に出先機関を設け、『倭館(わかん)』と呼ばれたその出先機関を通じて当時の朝鮮と貿易を行うようになります。豊臣秀吉による明征服を狙った文禄・慶長の役で長い中断があったものの、対馬藩が管理する『倭館』を通じての朝鮮との貿易は幕末まで続きます。
20世紀初頭の釜山市  右の港が今のチャガルチ市場  左の小山が江戸時代の倭館跡地とされる。

やがてその倭館のあった地を中心に朝鮮の経済に絶大な影響力を行使するようになったのが明治の新制日本でした。プサンという港町を通して眺めると、日本と韓半島の繋がりが違った光に照らされて見えてくるのです。もちろん日本と韓半島との人の動きはこれだけではありません。プサンで発見された日本の縄文土器をみたことがあります。日本との交流は実はもっと、もっと昔から続いていました。しかしそればまた別の機会にしましょう。

「釜山近代歴史館」では明治期の日本が釜山を足掛かりにして大陸に出て行くにしたがって、姿を変える港町釜山の姿がきわめて分かりやすく、視覚に訴える形で展示されています。日本にとってこの港湾都市が重要な拠点であったことがよく分かります。
街の俯瞰を撮った貴重な写真

釜山近代歴史館の歴史解釈によると、朝鮮を植民地化することで日本が目指したことはただ一つ。略奪同様に手に入れた米を日本に運ぶことと、満州経営のための足掛かりでした。この主張は何回も何回も繰り返されて出てくるのですが、かえって『それだけ?』という思いが頭をもたげてきます。それくらいこの街の発展は『コメの収奪』では説明しきれないダイナミズムを感じさせます。
展示の主要テーマを述べるパネル

明治以降、埋め立てが進んだプサン港

当時の読み方は右から左。

ホテルかと思ったら、郵便局。

名前からすると朝鮮人オーナーのお店でしょうか。

”スンタ” ではなくて ”タンス”です。



昭和30年代…ではありません。

朝鮮を経済的に支配するためのシステムとして送り込まれたのが東洋拓殖株式会社であり、その釜山支店が現在「釜山近代歴史館」が入っているコンクリート製2階建ての建物でした。シャレた外観は今でも健在です。しかもこの建物は日本が去った後、アメリカ文化院が使用したため「日本の次に韓国を支配したアメリカ」の象徴にもなっているのです。19世紀以降、プサンを重要な舞台として朝鮮経済を支配した日本と、その後を継いだアメリカを描き出すのには恰好の建物がこの旧東洋拓殖株式会社の釜山支店なのです。

明治時代以降の釜山のジオラマや古写真が数多く展示されていますが、そこに描かれている近代釜山は『明治の日本』そのものです。韓国の人には否定したい過去の展示かもしれませんが、日本人なら懐かしい『明治日本』の姿に関心が集中してしまいそうです。

一方、「釜山博物館」にも同じ様に日本との関係を集中的に展示してありますが、こちらの方は三浦の乱以来の日本との関係にもスペースを割いてあるので、釜山博物館と近代歴史館を合わせると「プサンに存在した日本」を通して韓半島と日本が見えてきます。秀吉による文禄・慶長の役もかなり詳しく展示されています。

観光でプサンに行かれた方でこの二つの博物館にまで足を運ぶ人は少ないのではないでしょうか。博物館というかたい言葉の響きとは違って、紙芝居をみるような気軽さでプサンを通して「韓半島」と「日本」を分かりやすく説明しています。時間はかかりますが、プサンに行かれる機会に行って見ることをお勧めします。

ソウル近郊以外で、力強い経済発展を感じるのはプサンのある慶尚南道だけではないでしょうか。今回の旅行は全羅道を通って慶尚道に入ったので特にその格差に驚かされました。さらにプサンからウルサンに向かう東海南部線の複線化が進んでいるのを見て、まだまだ発展する気か、と慶尚南道の持つ果てしない底力に驚かされてしまいました。


韓国で発掘された縄文土器を見に行った時の話も合わせてご覧ください。数年前の話ですけど。
http://yorimichi2012.blogspot.jp/2012/10/blog-post_23.html