2021年7月2日金曜日

大地の恵みが流れる 川湯温泉

 湯に浸かったとたん、思わず至福の声を上げてしまった。周りに人がいなくてよかった。なんとも皮膚に柔らかく、染み入るようで心地いい。北海道弟子屈町の川湯温泉でのこと。観光案内に湯質は「酸性硫化水素泉、酸性硫黄泉、35度~65・5度と記されているが、このまろやかな感触は何なのか。見た目は無色透明に近く、匂いも強くない。2泊した間の朝に夕に、一日二回合わせて四回、この湯をひたすら楽しんだ。

宿泊を川湯温泉に取ったのは名前の由来が気に入ったからだった。町中に湯が川のように流れていたから、「川湯」と名付けられたという。湯量を誇る温泉はたくさんあるが、川になるくらいの湯がイメージを膨らませた。もちろん宿の湯はすべて源泉かけ流し。「強い酸性湯」から受ける印象とは違って皮膚に心地よくなじむ湯の感触が楽しみで、夕食前のひとときが待ち遠しかった。同行した配偶者も川湯温泉の湯がよほど気に入ったと見え、部屋に戻るやひとこと「これまでのベスト!」。

ほどなく川湯温泉 ― 期待を高める硫黄山の噴煙

川湯温泉は北海道の地図を広げると、オホーツク海と太平洋に挟まれた東側、摩周湖と屈斜路湖の間にある。「川湯温泉駅」という鉄道の駅があり、釧路と網走を結ぶ電車が一日に数本走っている。温泉街までは3.5キロと歩くにはちょっと距離がある。私は女満別空港からレンタカーを使った。1時間少々かかっただろうか。

看板の右後ろが唯一のコンビニ

面白いことに町に温泉らしさがありません。巨大なホテルも見えない。町の大通りを挟んで3,4階建ての宿泊施設が何軒かあちこちに見えるだけだ。湯の匂いもしないので、始めは本当に湯が流れているのだろうか、と怪しんだ。

温泉地につきもののお土産さんも見えない。扉が閉まったままの店があるところを見ると、まったくの想像に過ぎませんが、近くの都会から押し寄せた人たちで週末がにぎわった時代は過ぎてしまったのかもしれません。お土産屋さんが繁盛したのも今はすっかり過去の話になってしまったのか。そういえば人の住まなくなった家、アパート、営業停止したホテルが見受けられる。

丹前姿は見られません。

多くの車が並んだ時もあったのでしょう。

大鵬相撲記念館

実は川湯温泉はかつての大横綱、大鵬関の生まれ育った町で、川湯中学を卒業している。町中に建つ「大鵬相撲記念館」に入ると、小学生の頃、白黒テレビの前で胸をときめかせたはるか昔を思い出した。あの強さと、勝っても負けても表情を変えない横綱らしさがなつかしい。客は私たちふたりだけ。

しばらく大通りを歩くと川湯神社がある。湯が奉納されているのは当然として土俵はやはり大鵬関と関係があるのだろうか。それとも大鵬以前から奉納相撲が盛んな土地柄だったのだろうか。

川湯神社

『湯は60度』の注意書き付き

そこから2,30メートル歩くと川があり、橋を渡りながらふと目にした流れが異様にきれいなことが気にかかったので、戻ってよく見ると湯気が立ち上っているではありませんか。

これか?湯の川は・・・。


湯は透き通ってきれい。

湯気、見えますか?

流れに指を入れると温かい。町の地図を見るとこの辺りから川が流れだしているのがわかる。流れに沿って歩道が整備されている。照明も設置されているということは夜は照明をあてるのか。

それにしても町に人通りはなく、静か。街中をぶらついた午後3時過ぎ、通り過ぎる人は誰もいなかった。大通りから一本入った道をネコがのんびりと横切るのが見える。と、そのまま座り込んでしまった。オイオイ、大丈夫か車?

ここは私の運動場。何か?

イヌなら動きが速いから車が来ても、と見ていると・・・何かオカシイ!これイヌじゃないでしょ?地元の人には当たり前の話でも関東から行ったらやっぱり驚きます。



近くの屈斜路湖の「砂湯」にも驚きます。砂の下はお湯。私も砂を手で軽く掘ってみると温かい湯がシッカリ出てきました。さざ波として打ち寄せる湖水は冷たいのですが。近くのキャンプ場に来た子供たちの楽しい遊び場になっているということですが、それだけじゃモッタイナイ。私も遊びたい。

砂湯

余りに町中が静かなので客足が途絶えたのか、と気になるくらいでした。しかし宿にはそれなりの数の客がいて安心しました。これだけの湯が沸く限り川湯温泉は人を惹きつけ続けるにちがいありません。

ここは日本列島の東の端に近く、朝の明けるのが早い。ふと目覚めるとまだ3時過ぎなのにもう窓の外が明るい。まだ早いけど、体をやさしく包むような湯を独占してくるか。

   


2021年4月18日日曜日

沖縄の戦国時代⑧ 気になるグスク

世界遺産に登録されていたり、日本百名城、日本続百名城にリストアップされていると訪れる人も多く、資料館が併設されていたりガイドさんがいてくれたりして大変助かるのですが、国指定史跡になっていてもまだ資料にとぼしく、訪問者を優しく受け入れてくれないグスクもあります。それでも「見たい」と思わせる魅力的なグスクをいくつかご紹介します。まったく個人的な好みによる選択であることをご了承願います。


 玉城(たまぐすく)グスク  ー

岩をくり抜いた穴を、そのまま正門にしたグスクで、その発想、姿形が奇抜でかつ美しい。また琉球の創造神話の主アマミキヨが築城したと伝わるなど、神話世界が現実世界に残した空間のよう。アマミキヨが降誕したと伝わる久高島も沖合にその姿を見せている。グスク内の御嶽は今も訪れる人が多い拝所。



主郭は標高180メートルの丘陵の一段と高い個所に設けられ、高さがおよそ3メートルの石垣が周囲をめぐっています。郭自体は狭いのですが石垣の状態は良好です。しかし足を踏み入れられるのはこの郭だけで、隣接する二の郭(160平方m)と三の郭(3,800平方m)へのアクセスは見当たりませんでした。また二、三の郭の石垣は戦後米軍基地建設のために持ち出されたとのことで、残存状態は良くないと伝わる。



岩の抜け穴の正門までは駐車場から約30メートルの高さを登らなければなりませんが、現在は木製の階段が地表面から正門まで設けられてあって大変便利になりました。15年前に一度来たことがありますが、その時登った30メートルはかなりきつかった。


ー 糸数(いとかず)グスク ー

中城グスクの石垣は風に揺れるカーテンのたおやかな動きを連想させますが、糸数グスクの重厚な石積みは重々しく力強い動きを思い起こす。


これだけ躍動するパワーを感じさせるグスクの石垣は、私のわずかな経験で言うのも恐縮ですが、記憶にありません。傾斜地をうねるように登る石垣は松山城や彦根城「登り石垣」に似ていますが、糸数グスクの動きははるかに激しい。

面積は約21,000平方mと大きいのに、単郭。




ー 糸満具志川(いとまん ぐしかわ)グスク ー

沖縄はどこにいても海が近いので、少しでも高い地盤に立つと当然海が見えます。しかし糸満具志川グスクは海岸線に建っているので背景に波まで写ります。海の青と波の白が琉球石灰岩の淡い白色に映える。



崖の上に石を積むのはむずかしそうですが・・・


面積約1,610平方メートルと規模は小さめ。築城年代や築城主など、詳細はいっさい不明です。ただ久米島に同じ地名を冠したグスクがあり「(久米島の)具志川グスクの按司が戦に敗れて本島に逃れ、喜屋武(きやん)に故郷と同じ名前のグスクを築いた」との言い伝えが残っているとのことです。


ー 知念(ちねん)グスク ー

旧街道に面して建つ知念グスク  左側に正門

沖縄教育委員会が現地に建てた案内板に次のように書かれています;

『この城は、二つの部分からなっています。一つは東南部の古城で高所に1~2メートルの野面積みの石垣で囲まれ、内部はうっそうとした森となっています。ここは「おもろさうし」に「ちゑねんもりぐすく」と謡われた霊場です。(略)知念城は古くは代々の知念按司の居城でもあったと思われますが、それがたんなる城郭ではなく、「あまみきょ」の伝説と尚真王の権威とが結びついたいわば宗教的城という意味で重要です。』

グスク内側から見た正門(奥)と裏門(手前)
正門右の森がクー(古)グスク
現在中には入れず、様子は一切うかがい知れない

あまり広くないミー(新)グスク内に ー


修復された石垣と ー
修復を待つ石垣が共存する

グスクの横を旧道が通っていて、同じ道に面して家臣の家らしい遺構もあって往時の村を想像してしまいました。クーグスク(古)に入れなかったのは心残りですが、次に来るときには整備されていることを期待したいです。


 島添大里(しましーおおさと)グスク ー

沖縄が北山、中山、南山の3地域に分かれて覇を競っていたグスク時代(12世紀~15世紀)に南山の王城であったところ。3万平方メートルを超える広大な敷地は南部地域では最大の規模。しかし石積みは多くが崩壊しているようで、保存状態は良くありません。

琉球を統一した尚巴志が初めて滅ぼした城とされ、これを契機に三山統一を遂げることになった沖縄の歴史上重要なグスクです。

グスク跡から中城湾を望む



主郭跡に建つ展望台


今は整備された公園になっている

南山の王城としては島添大里グスクの他に糸満市の南山グスクも候補と考えられていて、決着はついていないようです。糸満市の方は遺構があまり残っていない、とのことなので、今回は時間の都合もあって足は運ばなかった。                     



ー 安慶名(あげな)グスク ー

写真はここに掲載したアングルしか撮れなかった。城跡をグルグル回って見たもののグスク内に入るルートが見つけられなかったのです。ひょっとして閉鎖されているのかもしれません。内部の木の繫茂状況を考えると歩けるように整備されていないかもしれない。現地へ行かれる方は充分下調べをしてお出かけください。








面積約8,000平方メートル。



ー 沖縄を去るにあたって ー

さて3日と言う短い時間でしたが、グスクの多様性にタップリ浸ることができました。琉球石灰岩が醸し出す柔軟な包容力と海の青がどのグスクもきれいにマッチして見飽きることがありませんでした。現在米軍の管理下にあったりして中に入ることが出来ないグスクもあるようで、今後見られるようになることも考えられます。それに伴って新しい発見があることを期待したいと思います。

ここで使用させていただいた各グスクの説明や数字は、各城跡に掲示してある案内や説明、関連する地方自治体のHP、さらにこれまで出版されたグスクに関する書籍を参考にさせていただきました。写真はすべて倉岳 一が撮影したものです。



2021年4月13日火曜日

沖縄の戦国時代⑦ 土づくりのグスク

これまでご紹介したグスクは世界遺産に登録されていたり、日本100名城、続日本100名城になっているのでアクセスも比較的容易で資料館や観光施設が併設されていますが、これからご紹介するグスクは国指定史跡であっても設備が整っていない場合が多いので実際に行く場合は充分調べて行かれることをお勧めします。


さて、どんなグスクもみんな石垣で出来ているわけではありません。中には土で出来たグスクもあります。本土の山城に多いあの「土」で出来た城と同じように、堀や 盛り土を使うもので、奄美諸島から沖縄本島の北方に多く見られるそうです。

 佐敷(さしき)グスク

沖縄本島の南部で知られているのは『佐敷(さしき)グスク』。これは北山、中山、南山が覇を競い合っていた沖縄を統一した尚巴志(しょうはし)が幼少の頃住んでいたと伝えられる城跡です。現地に簡潔な案内板がありました。


本島南部、中城湾に臨む南城市佐敷の丘陵地帯(比高50メートル)に位置していて、地図で見ると知念半島のちょうど首根っこのあたりになります。

北側に広がる佐敷の海 真向いは馬天港か



いちばん広い郭

緩い傾斜地に曲輪状の平場が点在していて、一段と高い位置の平場には神社の祠のような建物が陣座し、そこに向かってかなり長い石段が登っている。神社だと思ったのは実はこの石段のせいで、実際は何なのかは残念ながら判別できませんでした。           
  
階段を登った先の主郭には祠
    

石段の麓は恐らく一番広い平場のようで、祠のある場所が本郭なら、麓の平場は二の郭でしょうか?

一ヶ所興味深い個所がありました。一番広い曲輪に接続している平場から外に向かって下る竪堀状の通路らしきものが見えました。草が深いので歩いて下るのは止めましたが、自然な地形にしては幅がほぼ一定(1メートル50程度)で、ほぼ直線に近く、かなり先まで続いているのが見えたので、人の手が加わったものでは?と感じました。           

まっすぐ下方に続く堀状の通路?


低い段差に石敷き?

しかも足元には石敷きのように石が並んでいて、何かしら虎口のような役割を担った場所ではないか?と想像を楽しむこともできました。とは言いながら、数百年前の石敷きが今まで残っているだろうか、とも思われ、やはりもっと時代が下って造られたものの可能性が大きいかな等々、あれやこれや思い切り空想を楽しみました。

尾根の先(左)が佐敷グスク 道路は堀切の跡?



名護グスク

もう一つ紹介したいのは『名護グスク』で、沖縄本島のちょうど真ん中あたり、名護市を見下ろす標高106メートルの山上に造られています。東シナ海に突き出る形の半島の付け根付近で、この半島の先端にあるのが今帰仁グスクです。

車を止めてー



しばらく海を眺めてしまいました

名護グスクにしろ、佐敷グスクにしろどうして石積みを使用しなかったのか、気になるところですが、「近くに琉球石灰岩を切り出せる場所がなかった」からだ、と言われています。

まず主郭を目指します。コンクリートの長い階段を見て、ここでも神社を思い起こしてしまいましたが、恐らく御嶽(おたき)などの祈りの場に至る階段だろう思います。この階段の下まで車で行き、あとは階段をひたすら登ります。主郭とされる平場には難なくたどり着けますが、虎口やはっきりと空堀と分る地形等は見当たりません。

主郭(御嶽)への長い階段

主郭にある御嶽

主郭はかなり広いが周辺への広がりは見えない

「堀切」への案内表記があるので、是非見たいとは思いましたが、緑豊かな林の中に一人で入る勇気はなく、寂しく引き返してきました。繁茂する枝葉に遮られて林の中は伺うことも出来ません。『ハブに注意』などと書かれていたらやはり引いてしまいます。

案内坂に示された堀切

土塁かな、とも思いましたが・・・


佐敷グスクでも名護グスクでも、本土の「土の山城」と比べて見たかったのですが、もっと多くの実例を見て回る必要を痛感しました。曲輪だけでなく他にも土塁とか、空堀とか、竪堀などに巡り合っていたらさぞかし楽しかったろうと思います。


2021年4月12日月曜日

沖縄の戦国時代⑥ 浦添グスク

ー 浦添(うらそえ)グスク ー

 首里城が作られる以前の王宮は、浦添グスクでした。しかしグスク遺構はあまり良好な形で残っていません。第二次世界大戦中、日本軍の陣地が置かれて軍事要塞化されたため、アメリカ軍の激しい攻撃にさらされました。

浦添城跡から北方、嘉手納、座喜味グスク方面を見る

浦添グスクの一角には実在が確認される最初の王と言われる「英祖(えいそ)王」と第二尚氏王統の「尚寧(しょうねい)王」の墓があります。『浦添ようどれ』と言われ、英祖王(在位1260~1299)が13世紀後半に築いたもので、後に尚寧王が改修して自身もそこに葬られました。

復元された『浦添ようどれ』全景 
丘の上の石垣は復元された浦添グスクの一部

『浦添ようどれ』の中に入ると・・・

左に尚寧王の墓


右に英祖王の墓















英祖王が在位した13世紀後半と言うと、本土では鎌倉時代にあたり、北条時宗が執権として蒙古軍を迎え撃った文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)と同じ頃になります。

歴代の琉球王の多くは首里城に近い玉陵(たまうどぅん)に葬られていて『ようどれ』に埋葬されたのは英祖王と尚寧王の二人だけです。

尚寧王は1609年、薩摩藩の琉球侵攻を受けて鹿児島に連れ去られた琉球王です。このことに責任を感じた尚寧王は歴代の王の眠る玉陵を控えた、と言われたこともありましたが、現在はこの説は否定されているようです。

復元された浦添グスクの石積み(近影)


浦添城の復元石積みを右に回り込むと・・・
今も残る大戦中の旧日本軍の壕 













『ようどれ』も大戦中の爆撃により甚大な被害をうけましたが、近年になって修復され、現在は国指定史跡として公開されています。

浦添城の遺構の残存状況は良くありませんが、石積みの残りでは、と思われるものが数か所見られました。まったく関係のない、近世以降のものである可能性は否定できませんが、参考までに載せておきます。

公園の中 ディークガマ近く

ディークガマ近く


「浦添城の前の碑」近くの道路脇

道路脇









なお英祖王が住んだのは浦添グスクではなく、すぐ近く、浦添グスクの北北西およそ2キロにある伊祖グスクです。


― 伊祖(いそ)グスク ー

英祖王の父祖代々が居住したのは現在浦添市の「伊祖公園」に隣接する伊祖グスクで、50~70メートルの丘陵上に位置しています。面積4,880平方メートルとグスクとしては小さめで、史跡の大半を伊祖神社が占め、その北側の丘陵の突端に石積みが残っています。

現地の案内坂

写真の真ん中の鉄塔あたりが牧湊

その高みからは牧湊(まきみなと)を眼下に望んで海洋、島々への支配をうかがわせ、琉球の古謡『おもろそうし』に「(琉球の創造主)アマミスクによって作られた」と謡われる神話と歴史に支えられたグスクです。

しかし細長い城跡で、住み心地はあまり良さそうには見えません。ここは御嶽(うたき)と物見専門で今公園になっている麓に住んでいたのかも知れません。


登る道も狭い

上の方はほとんどスペースがない

主郭はかなり歩きにくい

小さな祠の周辺のみ居住可能



那覇のど真ん中に?