2021年1月26日火曜日

三好長慶の終の城 飯盛城

「天下人」として権勢を誇った三好長慶は1560年(永禄3年)芥川山城を息子に譲り、自らは河内の飯盛山に移りました。しかしわずか4年後の1564年、この城で亡くなります。43歳でした。

芥川山城から飯盛城に移った理由は分かりませんが、二つの城を比べて見ると何か見えてこないだろうか?違いに気をつけながら城跡を回って見ようと思います。

地図を見ながら大まかに言うと、芥川山城は淀川の北、京都からせり出した山並みに位置し、飯盛城は淀川の南側にあって奈良から大阪にせり出す生駒山地の先端にあります。京都から大阪に向かうなら右手に芥川山城、左手に飯盛城が位置することになります。ちょうど淀川をはさんで対峙する形になりますが、飯盛城の方が大阪の中心に遙かに近い。

飯盛城は標高314mの飯盛山山頂を中心に曲輪が展開しています。東西に400メートル、南北に650メートルと大阪府下最大の山城です。

芥川山城が高槻市にあるのに対し、飯盛城は四条畷市と大東市にまたがっていて、遺跡調査は両市が行っています。JR四条畷駅とJR野崎駅を起点にしたハイキングコースが複数整備されていて、いずれも飯盛城跡まで1時間半くらいかかります。野崎駅からのコースが比較的歩きやすい、とあるブログに書いてあったので私は野崎駅からのコースにしました。

野崎駅から出発することにしたのに実はもう一つ理由があります。このコースが野崎観音こと「慈眼寺」を通るからです。歌舞伎で演じられたり、歌謡曲に歌われた「野崎参り」の舞台なので、ちょっと寄り道を。関心のない方は無視してください。

慈眼寺を通るコース 階段を上って左へ

慈眼寺 本堂










野崎城跡














慈眼寺を過ぎると野崎城跡の脇を通ります。四条畷の戦いの際、北朝軍がここに陣を置き、楠木正行と対峙した、と伝わる。飯盛城が出来てからは出城として機能したようだ。


城跡までの道のりについてまとめて言ってしまうなら、まず想像以上に長い。しかもハイキングというより登山に近いくらいきつい傾斜もかなりあります。長い階段もあります。駅から城跡まで歩いて1時間30分と案内書には書いてありますが、「大東市立歴史民俗資料館」でパンプをもらったり(JR四条畷駅近くでは「四条畷市立歴史民俗資料館」)、野崎観音に無事な登城と下山を祈願したり、結局2時間ぐらいかかってしまいました。これから登城を計画されている方、心の準備も忘れずに登城してください。トレッキング シューズは欲しいところですが、無理なら歩きやすい運動用の靴だけは必須です。

城跡の状況は、というとハイキングコースとして整備されている分、城跡遺構が壊されています。重要な曲輪に放送局の発信施設があったり、主郭に大きな銅像が屹立していたり、観光用の2階建の展望台が建っていたり…。いずれも多様な歴史を誇る地域と飯盛山との深いつながりを示すものですが、戦国の世に思いを馳せようとする人には、ちょっと辛いものがありました。

虎口の石垣跡

虎口通路の反対側

虎口近くの堀切と土橋

「千畳敷」郭

「千畳敷」郭の放送施設



「高櫓」郭に立つ「楠木正行」像

主郭の展望台

郭をつなぐハイキングコース

主郭から大阪市街を見る

特にハイキングコースとしては大都会の近くで思いっ切り自然を満喫できる恵まれた環境にあり、この日も多くの人たちにすれ違いました。恐らく「お染久松」の時代から、大阪の人たちが手軽に遊べる郊外として、多くの人を引き付けて来たのでしょう。山頂(城跡の主郭)からの眺望は大阪平野を一望でき、天気が良ければ四国まで見えるとか。

このような飯盛城ですが、さて芥川山城とどこが違っていたでしょうか?

「御体塚」郭下の石垣


「御体塚」郭下の石垣



主郭下の石垣



主郭下の石垣



主郭下の石垣

まずは主郭の標高が芥川山城の182.69mに対して飯盛城は314mとはるかに高いこと。どこからも傾斜が厳しく登りにくいこと。攻撃におそらく大変な労力がいるであろうことはしっかり体験しました。戦になった場合の防御は飯盛城が上手でしょう。しかし山上の生活は?「天下人」として政治をつかさどるにはアクセスがちょっと不便ではなかったか?麓に居館等あったのでしょうか。石垣の利用は飯盛城の方がはるかに多くなっているようです。積み方は変わらないように見えますが、石を積んだ個所は広く、多面的になり、視覚に訴える力は大きいのではないでしょうか。

素人の気ままな観察はこれくらいにして、芥川山城との比較はこれからの調査、発掘、研究の成果に期待しましょう。

城跡からは新たに石垣が発見されたりしています。城郭としての研究はこれからさらに進むでしょう。「国史跡」指定を求めて四条畷市と大東市は遺跡の調査を進めています。すでに観光地、ハイキングコースとして地元に密着している飯盛山と飯盛城跡の共存が今後の課題かもしれません。

城跡から再び野崎駅への道を引き返しましたが、登りに2時間、下りに1時間かかり、新幹線の時間を気にしたせいで城跡には1時間半の滞在となりました。あと1時間は欲しかった、というのが振り返って今の感想です。


2021年1月24日日曜日

三好長慶の城 芥川山城

 じわじわと関心の高まる三好長慶。その居城であった大阪府高槻市の芥川山城も脚光を浴びています。大阪にあって遺構をよく残す山城らしい山城、として評価は以前から高かったのですが、”天下人”三好長慶への関心が高まるにつれて訪れる人も増えているようです。

京都と大阪を結ぶ「西国街道」が麓を通っている。古くは山陽道と呼ばれ、京と大宰府を結び、淀川と並んで地域の政治、経済に重要な役割を果たした幹線道路だ。

現在のJR京都線高槻駅北口から市営バスでおよそ20分のところあるバス亭「塚脇」が登城のスタート地点です。塚脇バス停には芥川山城に関する詳細な案内板が設置されているので、その案内に従って歩けば城跡にたどり着けます。

バス亭「塚脇」 道路を渡って左前方20メートルぐらいで右折

高槻駅構内にある観光案内書でもパンフレットがもらえる。私はここで入手した縄張り図(下に添付)を手に城跡を回りました。バスに乗る前に、寄ってみてはいかがでしょう。

北、西、南の三方を芥川がめぐる三好山(182.69M)の頂上に主郭を置いた芥川山城は、三方を急峻な崖で囲まれた防御しやすい地形に位置しています。東西に約500メートル、南北に約400メートルの地域に広がっていて、摂津、丹波の守護細川高国が永正13年(1516年)までに築城したのが始まり、とされています。

城跡を取り囲むように流れる芥川が形成する渓谷は、「摂津峡」の名で知られる景勝地です。縦横に走るハイキングコースをたどって自然に親しむ人が季節を問わず訪れる場所でもあります。

塚脇の住宅地を10分ぐらい歩くと、あたりは静かな里の風景に一変し、さらに10分くらい緩い登り勾配を歩くと三好山(頂に芥川山城)への分岐点にたどり着きます。バス停からおよそ20~30分ぐらいでした。




分岐点を三好山方面に歩き出すと、この辺りはすでに城跡に入っていて、周りに曲輪と思われる削平地が見えてきます。作業をする人にも何人か出会いました。城跡は私有地だと聞いていたので邪魔にならないよう注意しながら進みます。

右(東側)から点線に沿って主郭を目指した。主郭は①と②、発掘調査は③

山道は曲輪の間を縫うように進みますが、歩き始めて4,5分ぐらいたったころでしょうか、左手に表面が崩れた土塁が現れます。山の斜面に沿って勾配を上り下りする「縦土塁」と呼ばれる形で、斜面を横方向に敵が移動するのを遮断しようとするものです。「芥川山城ではここにしかない」と説明のついた表示が立っていました。現在は時間の経過とともに表面の土壌が削られてしまったせいか、威圧的な高さもなく、小さく見えて見落としそうです。



左から右前方に下る縦土塁


心温まる手作りの案内表示

土橋

動物除けの金網が随所に見られるなど、見て歩き回れる範囲は制限されています。「大手」の案内に従って一旦山道を外れて急な坂を下ると、大手門跡の石積みに至ります。石積みはかなり崩落していて、原形を想像するのは難しいのですが、土塁や縦土塁、土橋など土の城としての形態があちこちに残る山城の中で、ここだけ異質な空間に見えます。



大手門 石垣は2段構だったのかな?

石は垂直に積まれていて、時代的に少し下る織田信長の城の石垣とは明らかに異なる印象を受けます。視覚に訴える効果はあったと思いますが、土留めが主要な目的だったのでは?

ここから主郭までは近い。主郭の周りは多くの曲輪が取り囲んでいるが、現在、その一つ、南側の帯曲輪で発掘調査が行われていて、姿を現した敷石と思われる石の並びが主郭から覗けます。

主郭
主郭




高槻市街


主郭直下で行われている発掘調査

主郭の北方には11月らしい木々の紅葉が、南側の眼下には高槻市が、さらに遠くに大阪市のビル群が望まれます。天気が良いせいでしょうか、ウィークデイでもハイキングに来て弁当を広げる人たちが4組ほど見える。城跡の探索より紅葉と散策を楽しむ人たちのようだ。

そういえば塚脇からここまで、なだらかな傾斜はあっても、楽しいハイキング気分でたどり着いた感じがする。城の東側は防御が難しかったかもしれない。

主郭周辺で見た土橋

堀切 

三好長慶がこの城にあったのは1560年(永禄3年)までの7年間であり、地元ゆかりの松永久秀らを重用しながら足利将軍家を擁立せずに畿内一円を支配したことで知られる。「織田信長に先駆けた天下人」と見なされたのがこの時期であり、この城が当時の政権の中枢、政治の舞台であり、文化交流の場であったのです。

しかし1560年、三好長慶は長男義興に家督を譲って河内飯盛山に住まいを移しました。理由か分かりませんが、芥川山城とどこが違うか比べて見たくなりました。飯盛城に移ってからも三好長慶の「天下人」としての活動は続きます。