2012年12月11日火曜日

「菊」になった小田原北条氏の「刀」

小田原の元MRAアジアセンターが取り壊されて史跡公園になると聞いた。

   アジアセンターには昔一度足を運んだことがあるのでどんな遺跡が残っているのか気になっていた。その時は戦国時代の遺跡があることも知らなかったし、気づくこともなかった。

   住宅地を抜けて360度の眺望を前にして一瞬ことばを失った。
               
 



   アジアセンターが建つ前は閑院宮のお屋敷だったと聞けば、この恵まれた立地に納得できるだろう。

   天気に恵まれて相模湾の向こうに三浦半島から伊豆半島まできれいに見える。太平洋からの日の出が毎日拝める場所だ。




   箱根に続く西を見れば秀吉が一夜城を築いた石垣山、やや手前の右手には細川忠興が陣を置いた富士山陣場が望まれ、瞬時に気分は天正18年(1590年)の小田原攻めまで遡ってしまう。

   








   土塁はすぐわかった。土塁の横は崖で、その下に今は住宅が並んでいるところが堀だったという。

   








   敷地は土塁に沿った平地を利用した高台で、その土塁をうまく利用して宅地の周辺を日本庭園が取り巻く形になっている。ところどころ変形していても土塁が続く様子は一見してわかる。MRAハウスのホームページにある完成予想図に今と同じ庭園が描かれているのを見ると、閑院宮から購入した時にはすでに現在の形になっていたのかもしれない。






 


   私の記憶の中のアジアセンターはゆったりと広かった。敷地は8000坪と記録されているが、空き地になった今は意外に狭く見える。

  







   このあたりは「三の丸新堀土塁」と呼ばれていて、秀吉軍と対峙するために北条氏が構築した城郭都市を取り巻く巨大な「総構」の重要な一画をも担っている。土塁に沿って北に歩くとと、一瞬消滅するもののそのまま小峯御鐘ノ台大堀切へのつながって行くのがよくわかる。



この先に地下2階、地上5階のアジアセンターがあった

  「三の丸新堀土塁」はアジアセンターが閉鎖されたために私たちの目に触れるようになった。そのおかげで庭園に姿を変えていた軍事用土塁が本来の姿を現したわけで、ひょっとして小田原には個人の住宅の中に隠れて、まだまだたくさんの遺跡があるのかもしれない。

   ところでMRA(Moral Re-Armament:道徳再武装)というのは、第二次世界大戦が終わり、世界が日本を再び仲間として受け入れてくれるのに多大の力となったイギリス生まれの精神改革運動だ。大戦後のドイツとフランスの和解に果たした功績で注目を浴びた。

   第二次世界大戦が日本人がまだ自由に海外に出られなかったころ、MRAのお世話になった人は多い、と聞いている。

   復興日本が再びアジアの中心になるようにとの期待の下に、1962年のオープニングには当時の池田勇人首相をはじめ政財界のリーダー多数が参列している。戦後の混沌を引きずる時代、アジアセンターへの期待は大きかった。アジア諸国の関心も高く、当時国交のなかった韓国から金鍾泌氏が開所式に列席し、この後の日韓国交回復への布石ともなった。
   センターの閉鎖は建物が古くなり、耐震基準を満たしていないことが大きな契機となったが、ここに託された理念と当時の熱意も消えてしまうのは惜しい。

   小田原北条氏の巨大な防衛態勢を担った土塁は、敗戦という形で目的は達せられませんでしたが、はるかな時を経て諸国間の融和、相互理解の場に変わっていたのですね。 あまり使われることもない古い比喩ですが、「刀」はいつか「菊」に変身していたのかもしれません。

   

1 件のコメント:

  1. MRAアジアセンター跡地懐かしく拝見しましたlet'sgoで二泊泊まりました、史跡公園で公開されたら再訪したいです

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