2013年1月1日火曜日

金沢城の鉢巻き石垣

   能登へ行くのに、まず加賀に入って北上するルートをとった。せっかく加賀を通るならせめて金沢城の石垣だけでも眼におさめて・・・と以下は「時国家」にたどり着く前の話。(平成24年12月27日)

   城のすぐ下を車で回っていると珍しい石垣が眼に入った。石垣の下にさらに石積みか?気になったので車を駐車場に停めて石川門から城の中に入り、ボランティアガイドさんを探した。


   どうやら土塁の上に石垣が載っている「鉢巻き石垣」を見たのでは、と言われた。その下にあった石積みは橋の土台らしい。土塁の上の石垣は江戸城にもあるが、金沢城にあったとは知らなかった。「橋」も初耳。確認しようと出かけた。


玉泉院丸の鉢巻き石垣  左側に橋の土台が見えている

玉泉院丸の鉢巻き石垣


   金沢城は高い石垣が周りを囲んでいて、特に本丸下の数段に分かれた高い石垣が印象的な、総石垣の城として知られているが、土塁とセットになったものがあるとは知らなかった。石垣の修復が進んでいて、これまで目に触れなかった形が見えてきたのかもしれない。





   「鉢巻き石垣」があるのは玉泉院丸という曲輪の外側で、かつては水堀に面していた所だ。なぜかここだけは土塁の上に石垣が続いている。

   玉泉院は金沢藩2代藩主前田利長(利家とまつの長男)の奥方で織田信長の四女、永姫の晩年の名前。利長は富山、高岡に住んでいたが、高岡で亡くなった後、永姫は金沢城に移ってこの曲輪で一生を終えている。

   織田信長の娘、ということで前田家では特に気を使ったようだ。玉泉院丸も意匠を凝らした石垣が発掘で姿を現している。ここだけ土塁を使っているのは何か理由があるのでしょうか?発掘調査はまだ続いているようだ。

左 出丸(現尾山神社)  右 玉泉院丸

橋の土台
玉泉院丸から堀を隔てて現在尾山神社となっている場所は実は出丸で、玉泉院丸からは橋でつながっていた。その橋の土台の石が道路からは別の石垣に見えたことが現地の案内板で分かった。

   この出丸や現在の兼六園を含めると、城郭としての規模は実は相当大きかったのでは?

本丸 南東部

本丸 南側

本丸 東側 堀を隔てた向こう側は兼六園

本丸 東側


石垣普請を担当した家臣の印



   玉泉院丸下から本丸下を回って石川門まで歩いたてみたが、高石垣は相変わらずきれいです。文禄期に着工された野面積みから慶長期の打ち込みハギまで広がる様は見事です。城の周囲3分の一ぐらいを歩いてみただけで、城の大きさが実感できます。大きいですね、この城。歩いて一周してみたくなりました。

   兼六園の周りも総石垣だ。きれいな庭園だけではなかったのかも・・・。城の発掘調査、いつまで続くのかな?楽しみです。


0 件のコメント:

コメントを投稿