2013年3月14日木曜日

八王子城 さよならオオタカ

 

   「八王子城とオオタカを守る会」がこれまで15年続けてきた八王子城見学ツアーが10日で終了した。私は参加したのが比較的新しく、また毎回同行したわけではないが、最後となるとやはり気になる。

   高尾駅北口朝九時に集合。23名参加。特に多かったわけではない。先月は確か、26名。最後だからという気負いもなく、いつものように川原宿までバスに乗り、いつものように陣馬街道を歩いて松竹橋に向かう。

朝 高尾駅からみえる八王子城




いつものように9時集合

この姿もきょうが最後


   今日の探索は搦め手。八王子城はふつう大手口から登るので、搦め手側は馴染みのない人が多いかもしれない。浄福寺城のまん前に当たり、西へ少し進むと心源院、さらに小田野城へと至るので、八王子城の大手は始めこちら側だったのでは、と見る人もいる。

   「まさか・・・あれ」の声に一同山肌を見上げると、あちこちに煙とも雲とも見える白い幕が揺らめいている。「ひょっとして花粉?」と一瞬沈黙。「あの中に入るのか?」と、不吉な予感。




   搦め手といっても広いが、この日辿ったのは松竹橋から滝の沢に沿って「青龍の滝」へ、いちど下って棚沢沿いの急斜面を登る。「横沢の滝」の上を通り、「棚沢の滝」の上部をかすめて一気に登ると、山頂曲輪に続く馬蹄のような曲輪の連なりに取りついた。途中で馬廻り道に入り、「馬(こま)冷やし」を通って松木曲輪にいたるルートだ。


縄張り図は東京都教育委員会「東京都の中世城館」2006を複写


   搦め手側のあちこちに城の遺構とみられる曲輪や石積みが見られる。しかし詳細は依然として不明のまま。1590年の秀吉による小田原北条攻めでは、前田利家率いる隊が大手から入ったのに対し、上杉景勝勢は搦め手から攻めた、と伝わっているものの、具体的なルート、状況は分からない。

   「清龍の滝」と近くの清龍寺跡、さらにあちこちに散乱した石は石積みの跡か、とも見えるが城とどのように結びついていたかは明らかではない。滝は修験者の修行の場であったかもしれない。

アズマイチゲ
館跡とみられる曲輪    杉から花粉の少ない木に植え替え中


土塁は虎口跡とみられる

木がじゃまして歩くのもたいへん

ますます花粉が・・・



イノシシがえさを求めて掘った穴があちこちに
 
清龍の滝

水はこの日はチョロチョロ

石積みが崩れた跡か
 
炭を造った窯跡とみられる

一段高い平地が清龍寺跡

左手の高台も曲輪と見られている
 


粘板岩と砂岩が交互に重なる小仏層群が露出している
 
厳しい勾配

段々になった曲輪を伝ってゆくと山頂へ


   道の険しさは並大抵ではない。今ならロープの助けを得ることも可能だが、中世のワラジばき兵士はさぞ息を切らせたことだろう。山城探検というよりは登山の訓練に近いくらいハードだ。

   曲輪の位置や、住居跡などがはっきりわかり、かつ案内も備わっている大手側に比べて搦め手はすべて自然の中に風化したまま。自分の目でジックリ見て想像をたくましくするしかない。

   歩き始めて2時間半。松木曲輪の脇でいつものようにお弁当を広げ、静かに15年のツアーに幕をおろした。



   11月から3月までの五ヶ月だけとはいえ、決まった日、時間に高尾駅北口に行けばかならず八王子城に連れて行ってもらえる意義は大きかった。このツアーに参加することで八王子城に魅かれ、さらに戦国の山城へと興味を広げた人は、私も含めて、多かったのではないでしょうか。

   圏央道が「国史跡八王子城」の真下を通る計画が発表されてから、八王子城の遺跡の保護を訴えてきた人たちと、オオタカが巣食う豊かな自然が破壊されることを心配した人たちが工事の中止を訴えたのが、そもそもの始まりだった。八王子城の貴重な遺跡と豊かな自然を多くの人に訴えようとするものだった。

   しかし圏央道は完成し、裁判も終わり(敗訴)、これ以上活動を続ける必要がなくなった。トンネル掘削による水枯れ現象やオオタカの営巣放棄といった環境問題以上に中世の城そのものへの関心が高まってきていることも事実だ。

   「八王子城」と「オオタカ」はいったん袂を分かつ時を迎えたのかもしれない。そのオオタカは、一時は営巣放棄が伝えられた後、再び戻ってきたとの声もある。



   八王子城から見た東京の空は茶色にくすんでいた。花粉だけならいいけど、他にも混じっているだろうなぁ、いろいろ。

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