2013年6月28日金曜日

津久井城の泣かせる話

城山には石碑が立っていることが多い。私の数少ない経験では明治、大正になって遠い昔を偲んで誰かに書いてもらったものが多いようだ。上州名胡桃城には徳富蘇峰が筆で書いた城名が石碑になっているし、八王子城の山頂曲輪には「落城の時」が漢文で坦々と記されている。

津久井城の本城曲輪には「築井古城記」と銘打った石碑が立っている。漢文なのでいつも無視していたが今回偶然文化13年(1816年)という建てられた日付と建立に携わった人の名前を見て案内板を読む気になった。

帯曲輪から見上げる本城曲輪 石碑は矢印の先


「築井古城記」



題を書いたのは松平定信(老中、徳川吉宗の孫、寛政の改革)、文章は林大学頭、筆は源弘賢(ひろかた)・・・。どこかで聞いた?そう、日本史で習った江戸期の著名な名前が並ぶのでつい引き込まれてしまったのだ。碑を建立したのは島崎律直(ただなお)という津久井城根小屋の住民でかつて津久井城主内藤景豊に仕えた家臣の子孫だという。

原文は漢文だが、案内文はフリガナをふんだんにふり現代文に近い文章に直してある。城跡の地形描写の後、簡単にまとめると;

『津久井城を築いたのは築井太郎二郎義胤。北条時代の城主は内藤景定。その子に大和守景豊と景友があり、景友の子に景次。』

『安部正勝(家康の家臣)が景次の武勇を聞いて召し抱えた。その後景次の子孫は安部家との縁で福島城(広島県)、高取城(奈良県)の家老へと続いている。』

『(落城で)景豊が滅んだ後、この地にとどまった家臣、島崎掃部の子孫が源弘賢に石碑建立を依頼して来て言うにはー

亡き主君の世はすでに遠くなり、城跡もすたれてしまっているのは遺憾。父と私はなんとかかつてのご恩を後世に語り伝えたい、とかねがね思っていたが、その父もなくなり・・・。』

『北条氏といえば5代にわたり8国を併呑し、百の城を支配した。当時これだけの領域を支配したのは毛利氏と北条氏以外にない。かつて小田原を過ぎて宗雲寺を訪れたが往時の権勢は失われ、哀れでさえある。国滅びても仕官した者は多いはずなのに、昔を忘れたのか。それにひきかえ陪臣であるのに200年昔を忘れないとは。』

根小屋には現在も島崎性の人は居住しているが、島崎掃部と関係のある人かどうかは不明という。石碑建立に出費がかさんで後々相当苦労した、との言い伝えもあるとか。
「築井古城記」


「古城記」の立つ土塁上から本城曲輪を見降ろす

200年前の主君に心を寄せ、当時トップクラスの政治家、文人を動員してまで石碑を建てようとした背景が何なのかよく分かりません。依頼主で、家臣の子孫島崎氏は小山田与清(ともきよ、現在の町田市生まれ)という当時を代表する文人と縁続きだったらしく、その縁で小山田の友人の源弘賢さらに林大学頭へと連なったらしい。



これだけの人を動かしたとは、今の世ならさしずめ大河ドラマに取り上げられるくらいのインパクト・・・は、ちょっとオーバーかな。

ところが話はここで終わらない。

「古城記」には津久井城落城時の城主は内藤景豊と断定しているが、この人は文献等で実在が確認できていません。最近の研究で落城時の城主は内藤綱秀との説が受け入れられているという。永い間信じてきた城主が実は別の人だった、というのは地元にとってどんな感じなのでしょうね。そういえば昨年の一回目の開城祭で演じられた落城シーン、城主はしっかり内藤綱秀でした。

では内藤景豊とは誰なのか?「古城記」は何を根拠に書かれたのか?芋づる式に謎が深まります。今後の研究成果に期待したい。

恩を感じる旧城主の名前を間違えた?かもしれない、といってもこれだけ切々と訴えかけてくる記念碑に接したのは初めてです。今も地元の人が津久井城を大切に守っていることとどこかで繋がっているのかもしれません。きっと家臣、領民に慕われる城主だったのでしょうね。

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