2013年11月27日水曜日

世田谷城散歩(1) カギ型に曲がる道

東京の世田谷城祉にわざわざ足を運ぶ人はあまりいないでしょう。すっかり住宅地の公園になっているので近所の人は頻繁に利用するでしょうが、わざわざ見物に行く人は少ないのでは。中世城郭に興味がある人でも一度行けば充分。緑が多く、適度に高低差があるのでイヌの散歩にはピッタリです。

平山城ですから遠くからはよく見えません。1~2メートルほど周りより高台にあるだけです。外堀の役目をはたす烏山川(からすやまがわ)が南側を取り囲むように流れていますが、細いし暗渠になっているのでただの通路にしか見えません。一目で城だとわかる場所ではありません。


←豪徳寺駅、山下駅    世田谷城址公園    上町駅→


緑の多い静かな公園です。


50メートルほど先には暗渠になった烏山川

世田谷線上町(かみまち)駅から見える城址公園の紅葉

高い石垣もないし、こんなところにどうして城を建てたのかと不思議に思っていました。火矢を放てば簡単に届いて館が炎上しそうで危なっかしい。城主は吉良家で室町時代の将軍家とつながりがある家系なので、城よりシャレた館のほうがふさわしかったかな、と想像しておりました。館は豪徳寺の場所にあった、とみられています。

ところが10月に小田急線豪徳寺駅の近くで偶然見つけた一枚の案内ピラをきっかけに、実はそれなりによく考えたスゴーイ城だったのではないか、と見方が変わりました。

滝坂道の案内



世田谷城のすぐ北を甲州方面に向かうかつての幹線道路が通っています。調布の滝坂下で甲州街道に合流するので「滝坂道(たきさかみち)」と呼ばれていますが、古くは「甲州中出道」と呼んだようです。徳川幕府が甲州街道を整備するまでは青山から八王子に向かう主要な街道でした。特に吉良氏が小田原北条氏の傘下に入ってからは八王子城に至る重要な街道になりました。

江戸を出て西に向かう滝坂道は、世田谷城のすぐ北で90度屈折して南に向かいます。上の写真を見てもらえばよく分かりますが、さらに150メートルほど行って再び90度、こんどは西に曲がります。城主の吉良氏が城に向かって馬や兵が直進するのを阻止するために整備した、と言われています。途中でS字型のカーブも入れてあります。

さらに滝坂道と世田谷城の間に竹を植え、この竹林が兵や馬の城への接近を阻害していたと伝えられています。「竹の上」という地名が残っています。

このカギ型に曲がる二つの辻に名前をつけよう、貴重な過去の遺産を後世に残そう、という運動が地元の「豪徳寺駅周辺風景づくりの会」を中心に起きています。現在ひろく名前を募りながら地元の昔を知ろうとする集会「古老に聞く」を続けています。私が見たビラはこの呼びかけでした。

滝坂道はこの辻で90度南に折れます。かつてこの角に庚申塔と
道標があって「東青山 北甲州街道」と書いてあった、と伝わっています。

S字型にくねらすのは先を見えにくくするとか・・・

さらに90度西へ。この先でもS字型に曲がります。

辻の角に立つお地蔵さん


カギ型に曲がる?
世田谷城の南側にも90度カギ型に曲がる道があるけど、北側にも?

世田谷城は鎌倉道に沿った西南に大手があったと見られています。現在の世田谷区役所のあたりに宿場がありましたが、吉良氏が小田原北条氏の傘下に入るようになって宿場がやや南に移って『新宿』と呼ばれるようになりました。世田谷の年末年始の風物詩「ボロ市」は小田原北条氏がこの『新宿』で始めた楽市から始まって、今に続いているものです。

現在の世田谷通りは直進しますが、本来はこのように左折していました。


さらに右折すると通称「ボロ市」通り 代官屋敷はこの先です。


天正6年(1578年)楽市を定めた北条氏政の書状   世田谷区立郷土資料館
『新宿』とは現在の『世田谷通り』から『ボロ市通り』のことで、歌舞伎町のあるにぎやかな新宿とは違います、念のため。小田原北条氏時代には首都「小田原」と地方都市「江戸城」、「江戸城」と「津久井城」を結ぶ重要な街道として『津久井往還』とも『矢倉沢往還』とも呼ばれました。この道も宿場の入り口で2回90度屈折しています。

南北に主要な街道が通る世田谷城には交通の要所を抑える、という重要な任務があったのです。

大きな合戦はなかったようですね、やっぱり。永禄12年(1569年)武田信玄が八王子の滝山城を攻めて、小田原にむかう途中、世田谷を通ったようですが世田谷城を攻めた、という記録はないようです。どうやら城主の世田谷吉良氏が室町幕府、鎌倉公方足利氏と縁続きで格式の高い家系であったのが幸いしたのでしょうか。しかしこの格式の高さが小田原北条氏に狙われ、吉良氏は二代にわたって婚姻関係を結んで「北条化」することになるので、運命とはわからないものです。

赤線で囲った世田谷城を挟むように流れる黄色い線の(北)が北沢川、(南)烏山川
ブルーの線(北)滝坂道、(南)津久井往還、ピンクは想定される鎌倉中道のひとつです。
「世田谷の中世城塞」1979年世田谷区教育委員会の地図を使用


世田谷城を防御する川は、烏山川のほかにもう一つあります。すこし北に離れていますが西から東に向かって北沢川(きたざわがわ)が流れています。この北沢川と南側の烏山川が間を狭めながら西から東に流れ、やがて現在の池尻で合流して目黒川になります。川の大部分は暗渠になっているので、「川」の部分はかなり想像力で補わなくてはなりません。

「古老に聞く」では興味深い昔の写真も見せてくれました。昭和初期の豪徳寺駅近くを流れる北沢川は今よりはるかに水量もあるし川幅もあります。水浸しになったこともあるそうです。

川といえば今ではすっかり護岸工事や治水、橋で整備されていますが、もともと想像できないくらい扱いづらく、自由な通行の障害だったようです。しかも流れる水に加えて、川の周りは湿地帯を伴っていてとても歩きにくいのです。さらに世田谷城の周りには寺や神社、砦が配置してあって、ことあれば城に変身する、と言い伝えられています。

周りを川と湿地に加え、多数の砦とにわか砦に守られた世田谷城は、実際は容易に近づけない要害の地だったことがわかりました。城址公園だけ見て小ばかにしてゴメン。 (つづく)

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