2014年11月26日水曜日

停まった時間(2) 加賀大聖寺城

10月31日(金)

城跡として全国区的にはあまり知られていない。金沢市と福井市のほぼ中間なのでぶらり訪れる人は少ないでしょう。

標高65メートルの錦城山という、山というより丘に立つ平山城で、街のあちこちから見えますが高い森のようで威圧感はない。現在市民公園として開放されています。

石垣は目立ちませんが曲輪群、土塁は明確に残っています。平成23年から発掘調査が行われ、主郭にある櫓台を中心に石垣が発見されました。土の城から織豊系石垣の城へと移り変わる過渡期の城跡として注目された。

「鐘が丸」曲輪  左に土塁

土塁の上から見る「鐘が丸」

「西の丸」曲輪

「馬洗い池」 水には不足しないようだ

下に載せた縄張り図はその時の現地説明会(平成24年)で配布されたもの。詳細すぎてかえって分かりにくいかもしれません。

実際に城跡を歩いてみると、2重の馬蹄形に入ったような感じを覚えました。歩いているうちにいつの間にか別の輪に移ってしまっていて、方向感覚がおかしくなるのです。意識的な縄張りによるものか、公園になって歩道が整備された結果なのか、分かりません。主郭は内側の輪の中心にあって、その一隅にある櫓台の周辺には石垣の一部が露出しているのがよく見えます。他は土のままで曲輪はいずれも広い。
歩いて馬蹄形を感じた曲輪の連なり
「主郭」 南から北 左手に土塁

主郭 北から南 右手に土塁

「主郭」 北西隅の櫓台

平成23年の発掘で出た石垣(24年撮影)


土塁が櫓台(手前)に接続する直前の屈折が気になった

石垣の存在は発掘以前から指摘されていた

知名度が欠けるのは江戸時代に加賀前田家の支藩としての地位に甘んじたせいで、城としての歴史は古い。長く越前、加賀を支配した一向宗徒の陣として機能していた。織田信長が北陸地方の一向一揆を平定した後、羽柴秀吉が天正11年(1583)に4万4千石で溝口秀勝を城主に据えた時から歴史に姿を現す。

秀吉の朝鮮出兵(文禄慶長の役 1590~1588))では溝口秀勝が大聖寺城より名護屋に行っている。朝鮮には渡らずに名護屋城守備の任務についたという。朝鮮の役の直後に新発田城に6万石で移った。間もなく勃発した関ケ原の戦いでは東軍についたおかげでそのまま初代新発田藩主になり、明治に入るまで存続した。

曲輪、土塁は驚くほどきれいに残っている


発掘調査は続行中

溝口が新発田に移ってから大聖寺城に入ったのは山口宗永で、慶長3年(1598)7万石だった。山口宗永は翌年起こった関ケ原の戦いで西軍についた。そのため前田利長(利家の長男、金沢藩二代藩主)に攻められて大聖寺で命を落としている。信長から秀吉へ、さらに秀吉以降に向けて繰り広げらっれた激しい権力闘争のなかで運命を左右された人がここにもいた。

加賀前田金沢藩の支藩となったものの徳川幕府による一国一城令を受けて1615年廃城となった。城を降りた前田家は麓に屋敷を構え、城跡は出入り禁止のまま維持された。そのおかげて戦国末期の姿を色濃く残したまま、時間が停まった時の姿をとどめることになった。

主郭の櫓台を背に「山口宗永」を悼む記念碑が建っている。山口宗永は前にも記したように、溝口秀勝が新発田城に移った後に大聖寺城にはいった豊臣系の武将で、わずか2年あまりで前田利長の攻撃を受けて命を落としている。この時、前田を恨みながら城で自害した女性の気持ちを思い、『金沢の人間が錦城山に上ると、かんざしを挿した蛇が出る。』と大聖寺の町では言い伝えられているそうです。

25,000の前田軍に対し迎え撃ったのは1,200の軍勢、しかもそのうち800余名が命を落としたと伝わっている。そうした山口宗永に対し、2年少々の大聖寺滞在にも関わらず、判官びいきに似た感情が今でも残っているという。
「東丸」曲輪から見る大聖寺の街  真宗信仰の中心だっただけに大きな寺が多い


この話は大聖寺城の保存を目的とした加賀市の有志の集まり「錦城山城址保存会」に問い合わせて教えてもらいました。http://kinjyouzan.jimdo.com/ 

城跡を歩くだけでは聞こえない声を聞かせてもらいました。
深田久弥記念館

北陸本線JR大聖寺駅から徒歩25分、北陸高速加賀インターから10分。城跡からは白山が見えるはずですが、この日は曇っていて見られなかった。

大聖寺は作家であり『日本百名山』の著者、深田久弥の生まれた町です。明治の絹織物工場が「深田久弥 山の記念館」として活用されています。大聖寺城から歩いて5,6分。こちらはしっかり全国区です。

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