2021年4月12日月曜日

沖縄の戦国時代⑥ 浦添グスク

ー 浦添(うらそえ)グスク ー

 首里城が作られる以前の王宮は、浦添グスクでした。しかしグスク遺構はあまり良好な形で残っていません。第二次世界大戦中、日本軍の陣地が置かれて軍事要塞化されたため、アメリカ軍の激しい攻撃にさらされました。

浦添城跡から北方、嘉手納、座喜味グスク方面を見る

浦添グスクの一角には実在が確認される最初の王と言われる「英祖(えいそ)王」と第二尚氏王統の「尚寧(しょうねい)王」の墓があります。『浦添ようどれ』と言われ、英祖王(在位1260~1299)が13世紀後半に築いたもので、後に尚寧王が改修して自身もそこに葬られました。

復元された『浦添ようどれ』全景 
丘の上の石垣は復元された浦添グスクの一部

『浦添ようどれ』の中に入ると・・・

左に尚寧王の墓


右に英祖王の墓















英祖王が在位した13世紀後半と言うと、本土では鎌倉時代にあたり、北条時宗が執権として蒙古軍を迎え撃った文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)と同じ頃になります。

歴代の琉球王の多くは首里城に近い玉陵(たまうどぅん)に葬られていて『ようどれ』に埋葬されたのは英祖王と尚寧王の二人だけです。

尚寧王は1609年、薩摩藩の琉球侵攻を受けて鹿児島に連れ去られた琉球王です。このことに責任を感じた尚寧王は歴代の王の眠る玉陵を控えた、と言われたこともありましたが、現在はこの説は否定されているようです。

復元された浦添グスクの石積み(近影)


浦添城の復元石積みを右に回り込むと・・・
今も残る大戦中の旧日本軍の壕 













『ようどれ』も大戦中の爆撃により甚大な被害をうけましたが、近年になって修復され、現在は国指定史跡として公開されています。

浦添城の遺構の残存状況は良くありませんが、石積みの残りでは、と思われるものが数か所見られました。まったく関係のない、近世以降のものである可能性は否定できませんが、参考までに載せておきます。

公園の中 ディークガマ近く

ディークガマ近く


「浦添城の前の碑」近くの道路脇

道路脇









なお英祖王が住んだのは浦添グスクではなく、すぐ近く、浦添グスクの北北西およそ2キロにある伊祖グスクです。


― 伊祖(いそ)グスク ー

英祖王の父祖代々が居住したのは現在浦添市の「伊祖公園」に隣接する伊祖グスクで、50~70メートルの丘陵上に位置しています。面積4,880平方メートルとグスクとしては小さめで、史跡の大半を伊祖神社が占め、その北側の丘陵の突端に石積みが残っています。

現地の案内坂

写真の真ん中の鉄塔あたりが牧湊

その高みからは牧湊(まきみなと)を眼下に望んで海洋、島々への支配をうかがわせ、琉球の古謡『おもろそうし』に「(琉球の創造主)アマミスクによって作られた」と謡われる神話と歴史に支えられたグスクです。

しかし細長い城跡で、住み心地はあまり良さそうには見えません。ここは御嶽(うたき)と物見専門で今公園になっている麓に住んでいたのかも知れません。


登る道も狭い

上の方はほとんどスペースがない

主郭はかなり歩きにくい

小さな祠の周辺のみ居住可能



那覇のど真ん中に?


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